身代わり妻
――――夏の夜の湿り気を帯びた銀盤。クレーターを見せる彼女の美しい顔は、
光の海を見下ろす高層階の部屋。座り心地のよいソファーに男が1人身を委ねていた。その瞳に映る月影は銀ではなく、癒しの意味を持つ色、紫。ステンドグラスやカラーフィルムで変えたのではない。男にとってはごく自然で
宝石のような紫の光を存分に浴びながら髪をかき上げる手は、神がかりな
「守る必要があるのなら守ります」
口調は上品で丁寧。声色は
「なければ、放置というお仕置きです〜」
その人がスッっと立ち上がると、ラベンダーの花の香りが咲き誇るようだった。衝動で着ていたバスローブはスルスルと体から床へ落ち、滑らかな素肌が夏の夜を向こうにしたガラス窓に妖艶に映り込んだ。
「僕にとって、彼女がどのようになろうとも……」
1人きりの部屋、全裸のボディーラインは男性とも女性とも取れない。両性具有のような神秘的な人。月明かりに照らし出された長い影を、1人がけのソファーに残しながら、裸足で窓へまっすぐ歩いてゆく。
「……関係ありませんからね」
足をあと一歩踏み出せば、ガラスにぶつかってしまうという時だった。紫色のレースのカーテンで作られたような幻想的な道が窓の外、夜色の空中に出来上がったのは。
月の光と瞳のヴァイオレットが窓辺で運命の出会いをし、
ふと建物も何もない空中で立ち止まり、紫の月の光を浴びようと背をそらし、瞳を閉じた。素肌だけだと思っていた体には、
どんな星よりもきらめくようでありながら、忍び寄る蛇の毒牙のような鋭く絶命な鉛色の光。何かと対峙するような
――――とにかく、隣の駅周辺へと急いでいる瑞希。人ごみという川から遅れず早すぎず進んでゆく大通り。彼女の手の中で、携帯電話がふと振動を起こした。
(ん? メールが来た?)
(ん〜〜? これって、あのデパートがある道を右に曲がるってことだよね?)
電車を利用するなら1分の距離。だが、徒歩を選んでしまった。そうなると、数十分かかる。瑞希は極めて重大なことに気づいた。
(あ、そうだ。歩いて行くことになったから、遅くなるって言っておかないと……)
人ごみの中でメールを打つ。それは迷惑であり、危険である。当然、瑞希の白いローヒールサンダルは本線からはずれた。店の軒下に寄り、携帯電話の画面を人差し指だけで、短い文ながら間違えること2回をして、ようやく送信。
『歩いて行くから』
『あいよ』
粋のよい言葉たちが戻ってくると、瑞希は携帯電話をバックの中へしっかりとしまった。転落という事故を未然に防ぐために。
同じ時間を4回も迎えている。気分が滅入ってしまうところだが、今のところ順調に進んでいる物事。それだけでも、瑞希の心が軽くなるのだった。
(ふふ〜ん♪ 久しぶりだなぁ。地上通るのって……)
今は夏。活動的に、開放的にさせる季節。歩くスピードと同じ速さの曲が頭の中に流れだす。血湧き肉躍るまではいかなくても、リズムを自然と体で控えめに取り、サビに入ったと同時に、人の流れに乗ろうとしたが、店のメニュー表が視界に入った。
(あ、高級フルーツパーラー)
1つ何千ギルから何万ギルもするフルーツたちが顔を並べるパラダイス。地下道ばかり通っている日々。そこにも看板や入り口もあるが、バイトだらけの忙しさと貧困層という垣根で、ご縁のない場所。
違う道を通ると、発見があるもので。瑞希は男に会いに行くことなどすっかり忘れ、別のものに気を取られた。
(あぁ〜、ケーキだ。食べたい)
色気より食い気。
高級フルーツと生クリームがハーモニーを奏でるデザート。瑞希の脳裏にクルクルとケーキが悩殺するように
兄貴は途中で酔っ払い、ビールと居酒屋料理だけで、デザートにありつけていない。
メニュー表をカバーしているプラスチックの透明に手をかける。
(そういえば、さっきから甘いもの食べてないなぁ)
別腹さんが、乙女心さんがデザートをご所望するのだ。このタイムループから抜けることはできない。それならばせめて、自分の小さな願いでも叶えようと。頑張っている自分にそろそろご褒美を与えようと。瑞希は決心した。背後で流れている人ごみの前で大きくうなずく。
(次は甘いものにしよう!)
振り返って、再び人の流れに乗り出した。
(よしよし、行こう行こう!)
店を見ながら歩きたい。それが瑞希の願いで、地下道ではなく地上の大通りを選んだ。当然ながら、寄り道が多くなる。その通り、少しだけ進むと、反対側の歩道に青い看板が出てきた。
(あ、本屋さんだっ! あれ? そういえば……)
1人きり切り離される、黄色とピンクのメルヘンワールド。シャボン玉クッションに座りながら、もう4度も見ている、あのマゼンダ色の文字。選択できるようでいてできない。横暴な進行状況であっても、瑞希もいくつかは覚えいた。
(選択肢にあったよね? 本屋さん。ってことは、ここも関係する……?)
書店の看板が斜め前から横を通り過ぎ、後ろへ流れてゆくのを目で追っていた。白いローヒールサンダルは無意識のうちに、歩道の柵へ寄って、車の往来を間に挟んで本屋を眺めた。
(こっちに行ったら、どうなるのかな?)
勝手に目的地を変更。こんなことをしたら、あのチビッ子にこっぴどく叱られるだろう。意気揚々とした少し枯れ気味のお子さまボイスが雷のように、瑞希の全身を貫いた気がした。ぷるぷるっと身震いし、進行方向へ向き直る。
(とにかく急ごう。合コン、合コン……)
呼ばれているのだ、人を待たせているのだ、急がないとなのである。だが、客引きのため強めにかけたエアコンの冷たく乾いた風が、店の入り口から手招きするのだ。いらっしゃいませと言って。
(映画館、この上にあるんだよね? そういえば、最近見てない……)
ピンクのミニスカートと紫のタンクトップは、フラフラ〜と人の川からはずれて、また寄り道。あのカラオケエコーつきのチビッ子ボイスに叩き起こされたように、瑞希ははっとして、煩悩を振り払った。友情のため、天の声のため。いや、マジでおかしなものに会いに行くために。
(いやいや、急ごう。合コン、合コン……。あと少しで、デーパートに着く――)
その時だった。異様な光景が目に飛び込んできたのは。動いている人ごみの中で立ち止まることはしなかったが、瑞希の意識は何もかも忘れさせられ、一気に持っていかれた。
(あれ? あれって、何の行列?)
反対側の歩道で、アミューズメントパークの人気アトラクションに並ぶような大行列ができていた。綺麗に1列になり、花束やプレゼントのようなものを手にして待っている人々。列の先頭は、デパートの脇へと続く小道に曲がり込んでいるようだ。
(限定物の販売?)
通り過ぎてゆくタクシーの車体に、街明かりが横線を引いてゆく。今は夜。陽も落ち、夕暮れも過ぎた時間帯。瑞希は違和感を抱いて、首を傾げた。
(もう6時過ぎてるよね? それはおかしいなぁ)
瑞希は店の入口へ続く一段高くなった切石の上に乗り、ブラウンの長い髪を右へ左へ揺らして、考え続ける。あの大行列が、この時間帯にこの近辺で発生するだろう理由を。
シンガーソングライターは自身の音楽活動をする際、時々他の出演者が見舞われている人気という現象を思い返した。
(出待ち?)
記憶の引き出しは全て大雑把で、地図も虫に食われたのかと思うほど、穴だらけ。役には立たず。列の先頭があるであろう、あの脇道を進むと何があるかなど覚えていない。
(ライブハウスなんてあったかな?)
どうにもピタリと来ない大行列の真相。靴音とクラクションの音が瑞希の直感を、ひらめきを邪魔する。
かと思いきや、別のことが阻止していた。それは出発点の駅のロータリーからあった、目に見えない金の細い糸。今やそれは、オーロラのように、金のレースのカーテンをあたり一帯に漂わせていた。もちろん誰にも見えない。
(何だか気になるなぁ……)
目の前で金の布をちらつかされているような感覚。振り払えばいいのだ。だが、なぜかこの金のレースのカーテンを、人は手でつかんでしまう。つかんだら最後。なぜなら、その名前は誘引だからだ。
瑞希もそれにもれず、自分で選んだように見せかけられ、スパッと決断を下してしまった。
(よし、行ってみよう!)
罠でも仕掛けられているのかと思うほど、抜群のタイミングで、横断歩道の信号が青に変わった。立ち止まっていた人々がどっと流れ出す。
空想世界で乙女軍の戦士、瑞希はアサルトライフルを背中に斜めがけして、警戒態勢――腰を低くして、横断歩道という敵地へと続く白のストライプの上を足早に進んでゆく。
(ゴーゴー!)
信号待ちをする車が戦車のように見え、歩兵隊の白いローヒールサンダルは順調に進軍していたが、敵地――反対側の歩道の石畳に乗ると、あまりの人の多さに驚いて、空想世界は簡単に敗北した。
現実に戻った瑞希は、歩道が人1人分狭くなり、一段と混雑のひどい雑踏の前に立ち尽くす。
(うわっ! すごい人だ。本当に何の列なんだろう?)
何かを待っているわりには、興奮している様子のない列を作る人々。だが、長さが半端ではなく、デパートの幾つもあるガラス扉の入り口を余裕で通り越し、瑞希が当初目指していた大通りに面する壁を曲がり込んで、コの字を描いていた。
ひとまず観察。斜めがけしているアウトレットのバックは、列の最前列とは反対方向、最後尾へと向かって歩き出す。
人、人、人……。遠慮もなく見るわけにもいかず、横目で追っては、斜め前へと視点を移すを繰り返す。パティーや結婚式にでも招待されたような光沢のあるドレス――いわゆる勝負服を着ている人ばかり。
そこで、この列の法則の1つに気づいた。
(ん? 女の人だけ? 男の人いないよね?)
不思議なことに男はいないのだ。そうなると、いくら感覚がずれている瑞希でも、自然と答えは出てくるもので。彼女は歩道の隅によって、ミニスカートで柵に寄りかかった。
(ってことは、男の人に並んでるってことかな? もしかして、これであってる? 合コンじゃなくて、こっちに来るが正解だった?)
だが、どうにもおかしい。合コンの電話をかけさせず、選択肢は、デパートに行こう、にすればよいのである。回りくどい。というか、瑞希が気づかなかった時、どうするつもりだったのかの疑問が強く残る。
しかし、マジでおかしなの、だ。今回は。何か自分が予測もしない理由があるのかもしれない。そう解釈してしまった瑞希は再び歩き出す、なぜか列の最後尾へと向かって。
瑞希は2つ目の角まで来ると、遠くをのぞき込んだ。どうやら、ロの字になっているようだ。デパートを蛇がとぐろを巻くように、街灯りに照らされながら列ができている。
3つ目の角を目指して、瑞希は歩いてゆく。
(でも、どんな人? 男の人の職業……?)
御銫は画家。
秀麗はヴァイオリニスト。
兄貴は残念ながら、詳しくはわからない。
超有名人で何か目立つことをしていないと、この列はあり得ない。自分が歩いていた大通りと平行に走っている別のそれを、大行列を背にして眺める。
(もしかして、1本向こうの道だけど、ホストとか?)
道ひとつ挟んだだけで、ガラリと変わる街の景色。それでも、いまいちピンとこない職業当て。瑞希は他の候補を見つけようとするが、頭文字さえも出ず、最後尾へ向かってまた歩き出した。
そうして、列の最後まで、誰1人見落とすことはなくたどり着いた。だが、やはり男は誰1人として並んでおらず、女ばかり。しかも、全員おめかしをしている。花束かプレゼントが彼女たちの手の中に必ずあった。
(本当に女の人しかいない。とにかく、一番前に行ってみよう!)
ロの字になっている列。最前列は斜め前にあるのだ。それなのに、瑞希は律儀に、反対方向、今来た道を戻り出した。無駄な労力である。そうと言わずして、何と言うのだろうか。
急いで行きたいが、人ごみ。自然と拘束はかけられ、ブラウンの髪が縫うようにすり抜けてゆくため、右に左に大きく揺れ、遠ざかってゆく。女たちが持っている花束の透明のフィルムが風を受けて、街明かりを淡く乱反射させていた。
そうして、さっき渡った交差点へ戻ってきた。デパートの入り口を抜け、脇道へ入ると、歩いている人は若干数を減らした。瑞希は列とは反対側の路上の隅に寄り、遠くから眺めてみようとした。
どんな男が待ち受けているのかと思うと、瑞希の手足は緊張でプルプルと震え出す。鼓動は早く大きくなり、やけにうるさい。あと1歩踏み出せば、姿を
「ふー」
そうして、白いサンダルはとうとう、マジでおかしなのの真相へ迫った。だが、予想もしない人物がそこにいた。拍子抜けした瑞希は、思わず人ごみモードを解除してしまい、言葉を口にした。
「あれ?」
どこかずれているクルミ色に映ったのは、3、4mほど離れた場所で、女性らしいラインを惜しげもなく見せる白いチャイナドレスと同じ色のピンヒール。はっきりとしたピンク――マゼンダ色の腰までの長い髪を持つ美女が立っていた。
(女の人だ。ここじゃないのかな?)
腰までのスリットからはみ出した足は、色気も
側を通り過ぎる男たちが、釘付けになりながら遠ざかってゆくを繰り返している。女の背丈は瑞希より少し高いが、せいぜいあっても165cmといったところである。
列に並んでいる女から花束やプレゼントを受け取るたび、女性らしい細い手首でシルバーのブレスレットが儚げに揺れる。ニコニコと人当たりのいい笑顔で、ベビーピンクの口紅が口を動かすたびに、風に吹かれた花びらのように可愛らしさを振りまく。
並んでいる女たちはお互いが知り合いでも何でもないようで、プレゼントや花束を渡し終えると、言葉も交わさず去ってゆく。まるで魔法でも解けたみたいに何事もなく。
男ではない、誰がどう見ても女。
勝負服で並ぶ女たち。
男性の視線を釘付けにするほどの絶世の美女。
(女の人に女の人が並んでる? 本当に何だろう?)
瑞希の足は右に左へ重心を変えられ、シンキングタイムをスタートさせた。同性が列をなす理由をぜひ知りたいところだ。このまま合コンへ行っても、モヤモヤが残り、落ち着いて酒も飲めないだろう。
女性も男性も魅了する美女。ただ見るだけでなく、列を作ってまで、プレゼントや花束を渡したいと思う原因。だが、瑞希の推理はすぐに根を上げた。
(わからないから聞いてみよう)
列の脇腹へ向かって、アウトレットのバックは通りを横切ってゆく。モルガナイトの宝石がついたヘアドレスアクセサリーをして、何万もするであろう花束を持っている女に近づいて、瑞希は小さく頭を下げた。
「すみません。あそこにいる人は誰ですか?」
「ランジェさんですよ」
女性らしい響きの名前。瑞希は記憶の引き出しを片っぱしから開けて、中に入っていたデータをぶちまけた。
「ランジェさん……? 聞いたことないなぁ」
有名人ではないのかもしれない。そんな疑惑が出てくる。そうなると、やはりここではなかったのか。瑞希は後ろへ1歩下がり、遠くの大通りを眺める。
自分の行くべき場所は、合コン会場だったのか。不安と焦燥に駆られるが、瑞希の中で何かが手招きをする。後ろ足を引っ込めて、もう一度並んでいる人へと近づく。
「何をしてる人ですか?」
「占い師です。何でも全てピタリと当てる、世界にも有名な方ですよ」
女性占い師に、女性が並ぶ。あり得ない話ではない。だが、街角にいる
何だか妙だったが、道具を使わない占いはある。
「何占いですか?」
「霊感です」
「あぁ、ありがとうございます」
とりあえず返事はしたものの、瑞希の脳裏に鮮明に
『しっかり魂は切られてんだよ』
形のないものを切られる。物理的にというか、言葉的におかしい。切られ続けたら、どうなるのか聞けなかった。このおかしなタイムループの意味も、誰も言ってきていない。
物をプレゼントされるたびに、ニコニコと頭を下げている女を、瑞希はそっとうかがう。
(霊感……。もしかしたら、あの人に聞けば、何かわかるかもしれない)
自分と同じような感覚を持つ人がいる。しかも、相手はプロだ。自身の比ではないだろう。世界的に有名だとも言っていた。正確な答えにたどり着けなくても、糸口ぐらいは見つけられる可能性は十分にあるだろう。たとえ、本来の道からはずれてしまっても。
(よし、列に並ぼう!)
決心した瑞希の足は素早かった。自己ベストを更新するような速さで、最後尾へ向かってデパートのまわりを一周。まだ気づいていなかった。ロの字を列が描いていると。並びたいのであれば、先頭のさらに前に行けばいいのである。
余計な労力をまた駆使して、瑞希は列に並んだ。少しずつ消化されてゆく女占い師へと続く行列。だが、人数が減ることはなく、次々とパーティードレスを着た女たちが贈り物を手に並んでゆく。
(女性の占い師で、女の人にこれだけ人気なんだから、よく当たるんだろうなぁ)
列は順調に進んでいたが、1人普段着の瑞希は並びから顔だけはみ出して、あたりをうかがうを繰り返していた。
(本当に女の人しかいないね。男の人が混じっててもおかしくないと思うんだけどなぁ?)
占い。女の専売特許のようだが、男でも興味を持っている人はいる。1人もいないのは、さすがにおかしい。違和感がまた首をもたげた。それは、何か対策を考えないといけない時。
だが、大雑把な瑞希はそれをせずに、再びデパートの脇道へ戻ってきていた。あと、数人で自分の番というところだった。
(女性限定の占い師なのかな? それとも――)
その時だった。何かを警告するような悲鳴が突如上がったのは。
「きゃあっ!」
列の先頭から聞こえてきたようで、瑞希は顔だけはみ出して、広がっていた光景に目を見開いた。それは、この列とは関係のなさそうな女が、1人道端に倒れこんでおり、まわりを歩いていた人々が注目しているところだった。
(えっ? どうしたのかな?)
占い師の女のすぐ横が事件現場。それなのに、彼女は気にした様子もなく、プレゼントや花束を受け取り続け、ニコニコと微笑んでいる。気絶している女で、通行人が困惑しているところへ、次の混乱する出来事がやってくる。
瑞希の横をバタバタと数人の女たちが通り過ぎてゆきながら、
「すみません〜! これよかったら使ってください!」
「私も〜」
「私もです〜」
占い師のそばに集まった。横入り。割り込み。だが、誰も文句を言う人はおらず。白いチャイナドレスの女も注意するどころか、ニコニコの笑顔で普通に対応している。
(ん? 何か渡してる?)
四角い箱みたいなものが女たちの手から、占い師へ次々と渡ってゆく。何か確かめることは叶わなかったが、少しだけ斜めになった。側面に印刷されていたのは肖像画。瑞希は一瞬自分の目を疑った。
(え? お金? あれって、数十万じゃないよね? 数百万だよね?)
現金が手渡されている。占いをしての代価ではない。占い師が仕事をするにしては、時間が短すぎる。どうやら、無償で渡されているような札束の山。
(どうなってるんだろう?)
ゲリラのようにやってきて、金を渡すと去っていった女たち。瑞希は真意を見極めようとしたが、足を引っ掛ける罠でも張られているように、占い師のすぐ近くで女の悲鳴がまた上がった。
「きゃあっ!」
まだ前の人が救護されていないのに、そこへ、別の女が気絶。さすがに無関心の都会人も騒然となった。
(えっ? また倒れた。暑いから倒れた? でも、何だかさっきから変だなぁ)
気温のせいだと思ってもおかしくはないが、まだ7月であり、今日は比較的涼しい方だ。そうこうしているうちに、次の団体が割り込んでくる。
「すみませ〜ん! こちらを差し上げます」
「これを受け取ってください」
「ぜひ、使ってください!」
ガラガラと運ばれてゆく、銀の大きな箱を見つけて、瑞希は驚いて、思わず口と目を大きく開けた。
(えぇっ! ジュラミンケースっ!? 億単位だ。何かの取引?)
海外旅行へ行くようなスーツケース並みの大きさ。ご丁寧にショッピングカートに乗せられたまま、手渡されている。なぜか、マゼンダ色の髪を持つ女のところに集まってくる、金と品物。
どんなことをすれば、こんな現象が巻き起きるのか。瑞希はもう一度シンキングタイムに入ろうとしていたが、間髪入れず、次の悲鳴が上がった。
「きゃあっ!」
同じ場所で気絶している女が3人に。これはもうギャグとしか言いようがない。
(また倒れた……。女の人ばっかりだ。さっきから……)
そこで瑞希はようやく気づいた。すぐそば――数十cmのところで、人が倒れているというのに、占い師はニコニコとして、花束とプレゼントを受け取り続けている。普通なら驚いたり、一瞬だけでも視線をやるだろう。しかし、マゼンダ色の長い髪を持つ彼女の瞳はまぶたからまったく姿を現さないのである。不自然だった。
(あの人が原因? どうなって――)
あと3人というところまで列は迫ってきていた。考える暇が何かに阻止されるように、こんな言葉が耳に入り込んできた。
「……結婚してください」
絶世の美女の占い師に、女が一大決心。並んでいた女は頭を深く下げ、花束を差し出していた。宝石よりも美しい占い師の唇は動いていたが、何を言っているのかは聞き取れない。
(え? 女の人が女の人にプロポーズしてる? 聞き間違い?)
断られたようで1人抜けて、いや玉砕して去ってゆく。あと2人。耳を疑っている瑞希に、容赦なく現実がやってくる。
「お願いします。結婚してください」
「こちらだけ、いただきますよ」
またプロポーズ。今度は占い師の声がはっきり聞き取れた。凛とした澄んだ儚げで丸みのある女性のもの。彼女のムーンストーンの指輪が、プレゼントを受け取ると、また1人列からはずれる。瑞希の番まで、あと1人。
(違う。やっぱりプロポーズしてる。え? じゃあ、この列って、あの女の人に結婚を申し込む列だった?)
占い師にではなく、女に用があるようだ。この列に並んでいる女たちは。瑞希は後ろへ振り返って、首をかしげる。
(でも、世の中、こんなにレズビアンが多かったかな? 何だか変だなぁ)
デパートを一周する長さだ。カミングアウトされていないだけで、いるのかもしれないと瑞希は前向きに解釈し、再び前に顔を戻した。
自分より少し背の高い、占い師の女。化粧はカラフルでありながら控えめ。近くを通る男たちが、誰1人もれずにスリットからはみ出している足をなめるように眺めてゆく。
列の真相はわかった。だが、気絶したり、金を持ってくる女たちが意味不明である。珍事が大都会の真ん中で起きている。しかも、瑞希は占いをして欲しくて並んでいるのであって、プロポーズでもプレゼント攻撃でもない。
前に立っていた女が頭を下げて、豪華な花束を差し出した。
「今日こそは、結婚してください」
プロポーズの嵐に見舞われている人気占い師。彼女の手首につけられたシルバーの細いブレスレットのモチーフ。三日月をぼうっと、どこかずれているクルミ色の瞳に映した。
(何度も起きてるってこと?)
占い師との距離、あと1m。丁寧な物腰で、確かに同性でも見とれるほどの綺麗な女。彼女の鈴音のような声が、夏の夜風に
「ですから、おととい初めてお会いした時、あなたに伝えしましたよ。私には結婚できない理由があるんですと」
さっきからずっと断っている占い師の、白いピンヒールをのぞき込んで、瑞希は言葉の内容を自分の中へ
(初めて会って、プロポーズしてる? 一目惚れ?)
それにしては、少々軽はずみな行動のようだ。それならば、デパートを一周するほど規律を守って並ばないだろう。いよいよ、真相は迷宮入りしそうになっていた。
2回目の挑戦。瑞希の前にいた女は食い下がり、
「どんな理由ですか?」
「困りましたね〜。私には説明している時間はないんです〜」
占い師はこめかみに人差し指を突きつけて、まぶたから瞳を解放しないまま、表情を曇らせた。
(ん? この人、急いでる?)
そのわりにはここにずっといる。瑞希が最後尾からここまで来るのに、軽く1時間は越している。もっと前に切り上げていてもいいはずである。どこかがおかしいのだ。
おめかしして、何万もする花束を
「今日ははぐらかされずに、納得できる理由を聞くまであきらめません」
未だにニコニコしている女占い師は、おどけた感じで、語尾をゆるゆると伸ばす。
「おや〜? そうきましたか〜。そうですね〜? それではこうしましょう」
この言葉を聞いて、瑞希は違和感を強く持ったが、
(あれ? 断ればいいだけだよね? 何で考えてるん――)
視線をはずしたのがいけなかった。吹く風も匂いも音も何も変わらなかったが、あたりに広がる光景が一変した。
「え……? 景色が変わってる……何で?」
瑞希の視界には、あの鮮やかなマゼンダの長い髪も白いチャイナドレスもない。自分が並んでいただろう列が真正面に伸び、その向こうにはさっき渡った大通りを車が激しく往来していた。
立っている場所が、プロポーズの返事を待っている女を間にして、前後が反対になっていた。そうなると、瑞希の後ろに立っている人物は――! 確かめようと、後ろへ振り向こうとした。
だが、すぐ近くのかなり高い位置から、含み笑い声が落ちてきて、
「うふふふっ。捕まえましたよ。最後の言葉は、あなたが疑問に思うようにして、油断させるためです〜」
罠だった。女占い師の声色は、凛として澄んだ儚げで丸みのあるものだったが、誰がどう聞いても男のものだった。
「えっ!?」
首が壊れるのではないかと思うほど、素早く振り返ったところには、白い上品なブラウスと水色の細身のズボン。膝までの茶色のロングブーツ。貴族が乗馬を楽しむような出で立ち。
(男の人だった!)
白いチャイナドレスも白いピンヒールも、化粧もアクセサリーも何もかもがない。194cmの長身の男が
(背こんなに高かったかな?)
さっき見た時は、自分より少し大きかったはず。それなのに、34cmも違うのである。体つきも女の曲線を持っていたのに、骨格がいいとは言えないが、男らしい角張ったライン。
街明かりと排気ガスで、空に取り残された
(でも綺麗だ。女の人より、綺麗かもしれない……)
時間を止められたとか、そういうことではない。男が着替えたにしては、今の体の線ではどうやっても、白いチャイナドレスは着れないし、ハイヒールも履けない。狐に化かされたみたいだった。
(あれ? さっき見たのって幻だった? どういうこと?)
突然の場所移動。性別詐称。あまりの変わりっぷりに、瑞希はただただ立ち尽くすしかなかった。そうこうしているうちに、地獄からの招待状が送られてくるように、彼女の耳元でささやかれた。
「僕の自由のために、君には身代わりになっていただきましょうか〜?」
月が満ちてゆくように、影に隠れていた月面が現れてゆくように、男の本性が次々と出てくる。含み笑いと語尾をゆるゆると伸ばしているからこそ、怖さが増す。
私が僕。
あなたが君。
「言葉がさっきと違う……」
変わってしまった呼び方に、瑞希は放心状態になり、身代わりにすると言われているのに、逃げることも忘れてしまった。自分の両肩に手を置かれたことも気づかない。プロポーズされまくりの男性占い師は声を張り上げると、
「みなさ〜ん! よく聞いてくださ〜い」
「えぇ?」
プロポーズしようと並んでいた女たちが一斉にこっちへ視線を集中させた。2人仲良くカップルが並んでいるような位置で、ランジェが女たちを修羅の道へと
「こちらが僕の妻です〜。ですから、みなさん、すぐにお引き取りくださ〜い!」
「え……?」
身代わり地蔵ならぬ、身代わり妻。俺の女ではなく、いきなり妻の座に
「んん〜〜っ!」
女性と勘違いするような美しさと笑み。人とかのレベルではなく、もっと尊い神秘的な男。しかも、世界的に有名であり、金も名誉も持ち合わせる男。彼のハートをゲットしようと集まっていた女たち。
対する瑞希は、ただ霊感占いをして欲しかったのである。下心などどこにもない。濡れ衣もいいところだ。この男の愚策としか言えない、解散劇。
「いや、違いま――!」
黙るしか選択肢がなくなった。左斜め後ろに尖ったものが突きつけられたのである。少しだけ振り返り、脇腹のあたりを見ると、物騒なものが鋭いシルバー色を放っていた。マゼンダ色の髪がブラウンのそれを侵食するように近づき、恐怖で凍りつくような含み笑いが耳元でささやかれる。
「うふふふっ。僕の言うことが聞けない時には、君のハラワタを、
脅迫。それ以外に言いようがない。占い師の左側は誰も通れないほどの隙間とデパートの壁。194cmの長身に背後から隠されてしまっている紫のタンクトップとピンクのミニスカート。右側の歩道を歩く人からも見えない死角。そこで、ダガーの刃先はリアルに
「っ!」
瑞希は息をつまらせ、こめかみを冷や汗が落ちてゆく。
(いつの間に刃物なんか……)
味方だと信じて疑わなかった。だが、戦闘していたのを考えると、敵が出てきてもおかしくなかった。油断したのだ。瑞希は1人対峙する。
脅している、男の強制服従。
女たちの嫉妬の槍。
誰も気づいていない、武器の存在。
四面楚歌。頼みの綱は自分だけ。
絶体絶命のピンチ。
震え上がりそうになるのを何とか抑え、神経を研ぎ澄ます。誰を守るべきで、そのために自分は何をすべきなのか。最低限の犠牲でどうやって戦況を
(みんな、本気で言ってきてるんだよね? この人に結婚してくださいって。それに嘘をつくのはいけないよね。断るにしても、誠実に断らないといけない。自分はそう思う。だから、私は――)
決断した、全てを解決できる方法を、瑞希なりの価値観で。少しだけ振り返り、突きつけられているダガーの刃の上で、いつもと違って静かでトーンの低い声ではっきりと告げた。
「切ってください」
(従いたくないものには、絶対に従わない)
瑞希の心は命もいとわない、拒否だった。命乞いをするシーンのはず。それが相手の望み。それを叶えてしまっては意味がない。捨て身の覚悟だったが、強がりでもなく、瑞希の本心だった。
だが男も負けてはおらず、含み笑いをしながら、耳から毒を流し込むように、さらなる手を打ってきた。
「おや? そうきましたか。それでは、1万ギルを僕にください」
どこかずれているクルミ色の瞳は、今は強い意識を持っていた。男の目を恐れもせず見つめ返そうとしたが、ニコニコのまぶたに隠されていて叶わなかった。
「何で、こんなことするんですか?」
「僕はどうしてもお金と時間が欲しいんです。そのためならば、どのようなことでもします。ですから、1万ギルを僕にください」
再度要求された金。その本当の意味は、女に見えた男性占い師の心の中で浮かび上がっていた。
(1万ギルで、君の心と体を僕に売ってください)
ここで死ぬか。
1万ギルを渡して、強制的に従うか。
彼が味方なら、早々と審判の時がやってきてしまったことになる。命を狙われている。交換条件は1万という金。
(ん? 最終目的は一緒? 何のためにこんなことをしてるんだろう?)
ニコニコと天使のような柔らかな笑みを浮かべているが、やっていることは極悪非道な男。初対面であり、こんな緊迫した状況で、相手の心のうちなどわからない。緊急事態モードに即行切り替える。
(わからないから、それは置いておいて。とりあえず、この状況を自分で何とかしないと……)
誰にも頼らないと決めた。首都の全ての視線が自分に注目しているようだった。騒音が全て消え去り、自身の鼓動がやけにうるさい。
(ん〜?)
殺気立った女たちを見て、男の手に握られた刃物を見て、瑞希の中でひらめいて、ピカンと電球がついた。
(あ、わかった! こうしよう!)
彼女の左手が動いた。その行き先は、鋭利なシルバー色を放っているダガーの刃元だった。勢いだけで握りしめ、
「くぅ〜っ!」
思わず耐え忍ぶ声が響く。神経が集中している手のひら。バックリと皮が裂けてはじける感覚と、熱い痛みが突如広がった。防御反応で離してしまいそうになるが、彼女の決意がそうさせなかった。
温かな血が飛び散る。痛みで歪んだ表情のまま、ダガーごと男の手を振り払い、
「っ!」
突き飛ばして、1mほど離れて、瑞希は危機を1人きりで乗り切った。194cmのニコニコと今も絶えることのない笑みを見せる、月のような美しい顔を持つ男と対峙する。
瑞希の左腕は力なく脇へ落ち、指先からポタポタと鮮血がアスファルトに、ギザギザの波紋を幾重も描いてゆく。
男にとって瑞希が傷つこうと、そんなことはどうでもいいのだ。彼は時間と金が欲しいのだから。それを叶えるためなら、どこまでも無慈悲に残酷になれる。この綺麗な男はそういう男だ。
予測済みというように、男が驚くこともなく、残念がるもなく、おどけた感じで、凛とした澄んだ女性的な声が響き渡った。
「おや? 今度はそうきましたか〜? それでは、こうしましょう」
男の声が途中から空気を通したものではなく、体の中から聞こえてくるものに変わった。異変に気づいて、あたりを見渡すと、人々は不自然に動きを止め、都会の喧騒は姿を消していた。
「え……? 時間が止まってる……?」
驚いてあたりをキョロキョロとうかがう瑞希の手のひらの傷は、不思議なことにどこにもなかった。だが、足元に血だまりは残っている。
動くのは、瑞希とランジェだけ。切り取られた空間。彼のロングブーツは少しだけ後ろへ下がり、両手を腰の後ろで軽く組む。その手の中には、今もダガーが握られ、隙なく殺意を向けていた。
「自身の命、もしくはお金と引き換えに、信念まで曲げて生きる人生を、君はどのように思いますか?」
審判の時がまた訪れていた。
問われている。
答えなければいけない。
ここで、下手な言葉を少しでも口にしようものなら、殺されるだろう。しかも、それは一撃ではない。あげたらきりがない責め苦を与えられた上に、地獄へと突き落とされる、そういうむごたらしい殺し方だ。
振り返った瑞希の前には、まぶたから解放されたヴァイオレットの瞳が冷ややかであり重厚感を持って降り注いでいた。見なかった方がよかったと後悔するような目で、それは邪悪。それから、こんな言葉は存在しないが
それでも、瑞希は何の恐れも持たず、なぜ武器の刃先などを握ってでも、逃げようとしたのかをしっかりと答え始めた。
「自分の信念を曲げてまで、生きる意味ってあるんですか? 肉体じゃないですよね? 大切なのって。心ですよね? 生死は関係ないと思います。だから、従いたくないものには、死んでも従わないです」
生きていることに振り回されない。イコール、人生に振り回されないなのだ。この世界の法則からはずれたところでも、通用する何かがなければ、ただ流されてゆくだけなのだ。
ダガーはランジェの手からスッと消え去り、天から聖なる光が2人にスポットライトのように差した気がした。
「世の中、君のような強い人間ばかりでしたら、もう少しよくなっているかもしれませんね」
「ん? よくなってる?」
不思議そうな顔をした瑞希の横で、男がもらったプレゼントや金はどこかへ行ってしまった。すぐさまニコニコの笑みに戻り、ランジェはこんなことを言う。
「みなさんから品物とお金は十分いただきましたから、これ以上こちらにいるのは時間の無駄です。ですから――」
せっかくいい感じで進んでいたかと思ったが、初っ端からつまづいた。ただ街角に立っただけでは、金品はやってこない。どうも、ランジェさんは頭がいいようだ。いくつか説明をわざと抜かしている。
瑞希もさっきまでの緊迫した空気は忘却のかなたへうっちゃって、驚いた顔をした。
「そのためにわざと、ここに立ってたんですか?」
「そちらも少々ありますよ」
確信犯だった。プロポーズなどどうでもよく、地位や名誉もどうでもよく。自身に好意を寄せてくる女など、金品を
「何のために、人からお金とかをもらってるんですか?」
極悪非道極まりない行いに思えたが、この男にはきちんとした理由があった。引き込まれてしまいそうな綺麗な唇から出てきた言葉は聖句だった。
「僕たちが今こうしている間にも、人身売買、臓器売買、強制労働、明日食べるものもない中で生きている子供たちがいます。どのような綺麗ごと並べようとも、お金という制度が存在している以上、お金がなくては救えません」
浮かれ平和ボケしたこの国の女よりも、小さな人の心が優先なのだ、ランジェにとっては。敵ではなく、味方だった。価値観が人と違っている男の言葉に、瑞希は感慨深そうにため息をもらした。
「困ってる子たちのため……ですか」
「子供たちに渡すために、少々強引な手ですが、金品を譲っていただいています」
聞き捨てならない。さっきを刃物を突きつけられた瑞希としては。ランジェはシレッと言ってきたが、シリアスシーンが台なしである。即行、瑞希は決死のツッコミ。両腕を頭の上で左右に大きく揺さぶって。
「いやいや、譲ってるじゃないです! 脅してる、です!」
再び開いたまぶた。ヴァイオレットの瞳が邪悪の色を濃くして、こんな言葉が言い返された。
「うふふふっ。君も人聞きが悪いですね〜。刃物を少々突きつけると、みなさん、もれずに置いていってくださるんです〜。合理的に短時間で、金品を収集する手段です。世の中、いい人たちばかりですね〜」
道徳心も何もあったものではない。目的のためならば、手段を選ばない男。悪魔もひれ伏すほど腹黒だった。いや前向きだった。
瑞希は顔だけ後ろへやり、頭を抱えて、ささやき声ながら心の限り叫んだ。
「あぁ〜、誰が悪者だかわからなくなってる〜〜」
地獄耳。ランジェの含み笑いが聞こえてくる。人よりもはるかに長い時を生きているような威圧感。極悪、非道、残虐、残酷、冷酷……とにかく、どんな邪悪な言葉を総動員しても、言い表せないほどの
「何か言いましたか〜?」
瞬間凍結するほど背筋が凍りつき、瑞希は慌てて首をプルプルと横に振った。
「い、いえ、言ってないです」
未だ止まったままの空間で、茶色のロングブーツのかかとがカツンと鳴り響いた。
「先ほどの話を聞いて、君が偽善者、綺麗ごと言うならば、放置するつもりでしたが……」
慈愛を持った人間には、何のことやらさっぱりで、瑞希はまぶたをパチパチ。
「偽善者? 綺麗ごと? どうしてそんなことを思うんですか? 当たり前のことで――」
2人の間に突如、紫の光る道ができ上がった。それは斜め上へと伸びていて、空に浮かぶ銀色の月へと向かっていた。
「時間がありません。僕と一緒に来ていただきます」
「どこへ……?」
瑞希の問いかけに答える代わりに、ランジェの白いブラウスの腕が伸びてきて、軽々とお姫さま抱っこをし、2人はすうっと姿を消して、貴族的で神秘的な男に瑞希は連れされてしまった。
止まっていた時は再び動き出し、音も動きも全て戻り、並んでいた女たちは驚愕に染まった。
「きゃあっ! ランジェさんがいないっっ!!」
時を止められていた方としては、何が起きたのかわからない。しかも、ハートをゲットしようしていた男がいなくなったのである。大騒ぎになって当然だった。
だが、運がいいとしか思えない会話が、最前列から波が伝わるように、隣の人からその隣へとリレーされてゆく。
「あの噂、本当だった?」
次々と言葉が最後まで進むと、並んでいた女たちが申し合わせたように、両手を夢見心地で胸の前で組み、四角く切り取られた夜空に止まる銀盤を見上げた。
「月から来た天使だって!」
占い師の宣伝文句を現実と重ね合わせ、
「きゃあ、ランジェさん、素敵〜!」
幸せいっぱいの黄色い声が都会の喧騒に溶けていった――――
――――瑞希は気がつくと、ガタガタと全身が揺れていた。
「どこ?」
乾いた風が強く吹き抜けてゆく。空はどこまでも遠く広がり青い。はるかかなたには、魚眼レンズをのぞき込んだような半円を描く地平線。気温は一気に上がり、灼熱の陽光が降り注ぐ。
「難民の列へ行きます」
隣からランジェの声が聞こえてきた。平和な夜脇国では無縁の言葉。聞くこともない単語。驚く瑞希は屋根のないジープで、荒野を連れていかれる。
「え……?」
左側へ反射的に向いたそこには、マゼンダ色の長い髪を激しくなびかせ、茶色のロングブーツの片膝を立てているランジェがいた。大きな敵、いや宿命と対峙するように、肘を足へもたれかけさせて、彼のヴァイオレットの瞳はまっすぐ前を向いたまま。
慈愛の元に猛スピードで、2人を乗せたジープは土煙を派手に上げながら駆け抜けてゆく。
「もうそろそろ、彼らは国境を渡ります。その前に、彼らに金品を渡してしまいたいんです。その向こうは法整備が行き届いていますからね。無闇やたらに入国できません。ですから、急ぐ必要があります」
自分にプロポーズをしてくるような女に構っている暇はないのだ。ランジェという男は。瑞希は全てに合点がいって、慎重にうなずいた。
「それでだったんですね」
聖堂に描かれた天井絵よりも聖なる存在。あえていうなら天使のようだった。今隣にいる男、ランジェは。彼は晴れ渡る大地で、猛スピードで走るジープの上にいるが、真っ白なローブを着て、頭には光る輪。背中には大きな翼がついていても、おかしくはない崇高な存在だった。
出会うはずのない尊い人に出会い、瑞希は感動の涙で視界が歪み、彼女の流した雫が向かい風に連れていかれ、こめかみを横にかすめて、誰もいない地面に跡を残しては、灼熱の太陽で焼き消されてゆく。
「生きていくにはお金が必要です。やむ得ず、子供たちの心や体が犠牲になることがしばしば起きます。そちらは大人として、何としても止めなければいけません」
負の連鎖。好き好んで自身の子供を売り飛ばす親など皆無に等しいだろう。だが、現実はサバイバルで、全員死んでしまうのならと、手をかけてしまう。
瑞希は思う。さっき握ったダガーの刃で切られた手のひらの痛みの比ではないだろう。守ってくれるはずの、心が通っているはずの親から子供たちが受ける心と体の苦痛は。あの焼きつくような痛みとバックリと裂けた手の感触――!
指先で触ってみたが、痛みも傷跡のギザギザもなく。瑞希は不思議に思って、手のひらを顔の前に持ってきた。あんなに深く切った傷だ。すぐに治るはずもなく、ダガーの一直線が描かれているはずだったが、どこにもないのだ。
「あれ? 手の怪我が治ってる……? さっき、刃物で思いっきり切ったよね? 血も出てたよね? 何で治ってるんだろう? 跡も何もない。幻だった?」
「うふふふっ」
含み笑いが不意に聞こえてきて、どこかずれているクルミ色の瞳から左手は消え失せ、マゼンダの長い髪を持つ月のような横顔を映した。
(ん? 何で、ランジェさんが今、微笑むんだろう?)
真昼の白い月が見下ろす荒野を駆け抜けてゆく。国境を全員が超えてしまう前に、どうか間に合うようにと祈りながら――――
――――高いフェンスと有刺鉄線が張りめぐらされた向こうへ、人々の半分が飲み込まれていたところに、ランジェと瑞希は何とかたどり着いた。ジープから降りて、2人は人々と同じ目線に立つ。
現地の言葉などさっぱりわからない瑞希。さっき消えたはずの金品は全て、ランジェのそばにいつの間にか置いてあった。彼はプレゼントの中にあったお菓子を、子供たちにニコニコの笑顔で配り始める。
何度も訪れているのはすぐにわかった。子供たちは彼を見ると、疲れた顔が笑顔にすぐに変わるのだから。
小さな人たちと何か話したり、手をつないだり、背中によじ登らせたりと、ずいぶん忙しくなった。ランジェの笑みは、あんな残虐な方法で金品を手に入れたとは思えないほど、優しいものだった。
マゼンダ色の長い髪が風で揺れる背中を、瑞希は少し離れた場所からぼんやり眺めていた。
(ランジェさんは子供を救うためなら、自分の命もいとわない)
国を追われた以上、手荷物などほとんどなく、服はボロボロで、埃だらけ。そんな子供たちが、ランジェの体に抱きついて、楽しそうにはしゃいでいる。瑞希はひび割れた大地にただただ立ち尽くし、荒野の風に吹かれていた。
(そんな優しくて強い人な気がする……)
ぱっと見は勘違いされるかもしれない。極悪非道で、無慈悲だと。だが、そんなことはどうでもいいのだ。ランジェにとっては。自分がどう思われるではなく、自分がどうしたいのかが一番重要なのだ。
(私がしようとしてることを、ランジェさんは今してる……)
ジェラルミンケースが、札束が、国境の向こうへ大人たちによって運ばれてゆく。無邪気な笑顔で、空を見上げながらクルクルと回る子供たち。目が回り、荒野の上にどさっと仰向けで倒れても笑っている。
(私は困ってる人に、お金を渡したいんだ)
あの1K6畳の部屋で、日々のしがらみや寂しさ、孤独で押しつぶされそうになりながらも、今でも大切に情熱の炎を絶やさず、瑞希は毎日を生きている。
(与えるんじゃなくて、渡したい。譲りたい)
国境を渡ったとしても、まだまだ苦難の日々は続くだろう。そこに必要なのは感情でも何でもない。それが現実だ。
(たくさんのお金がいる。だから、普通の仕事じゃなくて、シンガーソングライターになりたいんだ)
負のスパイラルを取り除く最初の手段は、瑞希の中でははっきりと輪郭を描いている。ただ、想いだけでは、夢は叶わない。世の中そんなに甘くはない。それでも、彼女は前を向いて生きている。
(みんなの心に届く歌を歌って、喜んでもらって、それでお金をもらって、それを困ってる人に渡す)
幸せの連鎖に変えるのだ。瑞希のしおれ気味だった希望の花は、ランジェの教師の鏡のような尊い生き方に出会い、水をまかれたように、再び美しい色を咲かせた。
(明日からまた曲を作って、ライブを成功させて、デビューするんだ。自分の人生の目標を達成させるために……)
誰にも理解されない。自分の欲や身の回りばかりで視野の狭い人々に囲まれた生活。
それでも、自分が描いている夢を実行している男が、目の前にいる。瑞希は再出発を祈って、どこまでも晴れ渡る青空を見上げ、こめかみから1粒の波が伝い、乾いた大地に染み込んでゆく。決意の
(やる気が出てきた。この人に感謝だ。神様にも感謝だ。会えてよかった)
ダガーで人を脅す、いや誘導して金品を奪う、いや運ぶ、この男と神から力強いエールを送られたような気がして。声を上げることなく、静かに泣き続けいた。それを見ているヴァイオレットの瞳があるとは知らず。
(人間の心の声は僕には筒抜けです。嘘をつく者は僕のような存在を怖がり
感動をひとしお味わった瑞希は、今も進み続けている難民たちの、ジャリジャリという足音で現実に引き戻された。大人の足でも大変なのに、小さな足で歩いてゆく子供たちを前にして、必死に探し出す。
(大人の理由で、子供が悲しい想いをするのは、自分は耐えられない……。それをなくしたい。今の自分にできること……)
言葉が通じていなかろうと、何かをしなくては。その衝動に駆られて、瑞希の頭の中でピカンと電球がついた気がした。
あのごちゃごちゃした都会の騒音に囲まれた路地で、ダガーを突きつけられ要求されたもの。斜めがけしていたアウトレットのバックから財布を取り出す。ジーッとチャックを開けて、ランジェの斜め後ろから声をかけた。
「1万ギルです。どうか、みんなに渡してください」
しがないフリーターだから、これしか出せない。10日分の食費。まわりで遊んでいた子供たちが、不思議そうな顔を向けている中で、マゼンダ色の長い髪は横へゆっくりと揺れた。
「君から僕はお金をいただくつもりはありません」
「どうしてですか?」
1円だって、必要なはずだ。
「僕がお金を譲っていただく人は、自身の力だけでお金を稼いだと思い、自身の欲を満たすためだけにそちらを使う人間のみです。そのような人間に、お金など必要ありません。困っている人間に、渡してしまったほうが、お金を譲ってくれた人間を含めて、みなさん本当に幸せになります。僕はそちらの橋渡し役なんです」
ランジェは無差別に狙っているわけではなかった。彼なりの
最後の言葉のチョイスに違和感を覚えて、瑞希は近くの大地に根付いている小さな草を見下ろした。
「橋渡し役……? 何だか、人間じゃないみたいな――」
男たちの正体。このおかしなタイムループの真相に迫れそうだったが、神が手を加えたように、タイミングよく、子供達の無邪気な声が響き、
「んん〜っ!」
ミニスカートが下に引っ張られて、我に返った。ランジェが運んできたクマのぬいぐるみを抱えた子供が、見上げる丸く大きな瞳が視界に入ってきた。瑞希は平和な夜脇国の常識でもののごとを、彼女なりに精一杯はかった。
「え? 何だろう? 言葉が通じないから、どうすれば――」
「遊んで欲しいのかもしれませんよ」
ランジェの凛とした丸みがあり儚げな女性的な声が指摘してきた。教育が行き届いていないからこそ、言葉を知らない子供たち。
長旅。大人たちも必死。子供ながら気を使うのだ。彼らは純粋だからこそ、誰のせいにもしないのだから。だが、ずっと黙々と歩いているのは飽きてしまう。
「あぁ、そういうことですか」
無邪気な視線をあちこちから浴びる中で、瑞希はそれに応えようと、一生懸命考える。物がありふれた夜脇国。恵まれた生活だからこその、貧弱な思考回路。
「どうしようかな? 遊び道具が何もな――!」
生きる国を追われた人々。手荷物など、生きてゆくのに最低限のもの、いやそれさえもままらない。それでも、瑞希は答えを見つけ出した。今、自分にできることを。
「そうだ。こうしよう!」
遠くの地平線を静かに見つめ、大きく息を吸い吐き切ると同時に歌い出した。力強いまま高音域を攻める歌声が、ひび割れた大地に降り注ぐ。かなり高めの音から上へ上へ、歌詞の通り登りつめるようなメロディーが流れてゆく。
「♪天にのぼる 山にのぼる
後ろは決して振り返らず
どしゃ降りでも 見えなくても
ただ前を信じつづけて
のぼり つづけ どこまで行くのか
答え 探して 登りつづける
果てしない旅の途中♪」
言葉など通じなくても、通じる。それが音楽だ。ただただ、隣国へと渡るために進んでいた人々は足をふと止めた。平和だからこそ、発展する芸術。人だかりが、ピンクのミニスカートと紫の服のまわりにできてゆく。
それでも、194cmの長身を持つランジェにはよく見えた。瑞希がリズムを取るのに、右に左にステップを踏み、エンタテイメントとして、身振り手振りで熱唱する姿が。
彼の脳裏である映像が早送りで迫ってきては過ぎてゆく。ブラウンの長い髪が右に左に傾き、携帯電話にメロディーを録音し、PCの画面の前で、何度も同じメロディーを口ずさみながら、作曲した過去の終点が今になっていた。
(肉体の生死は問わず、魂、心の成長を望む歌みたいです……)
生死とはどこにも載っていない歌詞。だが、わかっていたランジェには。行間に隠された本来の意味を。しかし、彼の表情はかなり険しかった。難民たちではなく、平和な国で暮らす瑞希の行く末を思うと。
(ですが、叶わない時には、君はどのようにするんでしょう?)
伸びきっていた歌声の余韻が荒野の風に連れ去られると、拍手が巻き起こった。言葉が通じないながらも、瑞希は頭を小さく何度も下げる。人々は笑顔で手を振って、国境の向こうへと離れてゆく。
瑞希は笑顔で手を振り見送り続ける。明日を信じて、別の国へ渡ってゆく人々に。
(よかった。みんなが幸せなのが、自分の幸せだから……。他の人に嘘をついてるとか、笑われても、私はやっぱり、他の人が幸せになるために生きたい……)
願いと現実が重なった喜びを肌で強く感じ、それを与えてくれているだろう神がいると信じている、空よりもさらに高い場所に向かって、瑞希は祈りという方法で登ってゆく。真昼の月を背にしているランジェも同じ空を見上げたが、彼は別のことを感じた。
(そちらの可能性が上がったみたいです〜)
タイムループはしているが、瑞希と男たちはどうやら時が進んでいるような現象。回数を重ねてゆくほど、情報が増えてゆき、人によっては見解が変わり、対応も変化を遂げる。
(真実の愛……)
守るだけだったはずである。
慈愛のことだろうか。
それならば、ランジェには十分あるだろう。困っている子供たちのために奮闘しているのだから。難民を見送っている彼のこめかみに、自分の人差し指が突きつけられた。
(困りましたね〜。僕は真実の愛を知らないんです〜。そうですね〜? こうしましょうか〜?)
どうやら、違う愛らしい。フェンスと有刺鉄線の向こうへと消えてゆく人々と握手をして、見送っている34cmも背の低い女の小さな背中をそっと見つめる。
(ひとまず、君の情報を僕に提供していただきましょう)
ヴァイオレットの瞳は世界を一瞬にして、絶望の淵へと追いやるような邪悪一色になった。
(すなわち、僕の罠にはまっていただきます〜。うふふふっ)
秀麗が言っていた、罠を張る複数形の1人が、ランジェなのだ。
だが、このマゼンダ色の髪を持つランジェは、ダガーで人を脅し金品を巻き上げるような容赦のない策士である。彼の長く伸びた影が、蛇のように忍び寄り、瑞希をグルグル巻きにした上で、毒牙で首筋に噛みつくようだった。
(
語尾がゆるゆる〜と伸びているからこそ、本気なのがよくわかる。こうしてなぜか、瑞希は味方に狙われるという図に組み込まれてしまったのである。
全員が国境を渡り終えるまで、数時間かかった。だが、瑞希とランジェは笑顔で見送り続け、とうとう最後の1人が柵を越えて、手を大きく頭の上で揺らしながら、物陰に隠れるまで、2人は手を振っていた。
茶色のロングブーツは土煙を少し上げながら、くるっと振り向き、無防備な乙女に罠を仕掛け始める。
「それでは行きましょうか」
今度こそ、逃げろ、瑞希、である。だが、別の国に連れてこられてしまっている。公共機関もない。まわりに人などいない。言葉が通じない。帰る手立てがない。ニコニコの笑顔で、慈愛の元で生きている男からの問いかけ。だが、真の姿は極悪非道な策士。
「あぁ、はい」
ランジェの言葉の意味をきちんと理解しないまま、瑞希は何の疑いもなしに、素直にうなずいてしまった――――
――――無事に人々を見送り、みんなの幸せを祈るしかできない、もどかしさを抱えながら、瑞希の視界が一瞬ブラックアウトすると、やけに煙った場所にいた。
「ん? あれ? 元の場所じゃなかった? 戻るのって……」
「僕は元に戻るとは言っていませんよ〜」
一字一句、神経を張り詰めて聞いておかないと、この男に操られてしまう。行き先は言っていない。どこかへ行くとしか言っていない。別の場所に連れてこられても、文句は言えないのだ。承諾してしまったのだから。
どうやっても、デパートの脇道ではない。街明かりも夜空もなく、騒音もない。風もなければ、やけに明るく静かな場所。
「っていうか、ここって……?」
瑞希とランジェの声がカラオケでもしているようにあたりに響き渡る。白い霧みたいなものがずいぶん出ていて、ランジェのマゼンダ色の髪の鮮やかさが、数m向こうでかろうじて見て取れた。乳白色の何かが体を包み込む。それは程よく温かい。
「お湯の中……?」
立っているのではなく、座っている。瑞希は体に異変を感じて、あちこち触るが、紫のタンクトップもピンクのミニスカートもなく……! 瑞希は乙女事件に手をかけた。
「下着も……着てない……!」
もう一度おさらい。
お湯の中。
全裸。
乳白色の水面。
白く煙るあたり。
自分たちの声が響く場所。
どこかに連れ去られただけではなく、何が起きているのか、瑞希はやっと気づき、真正面でニコニコしている男に、大声で叫んだ。
「ランジェさん、すみません! 何で服脱いで、一緒にお風呂入ってるんですか!」
事件ファイル3。バスルームに全裸で誘拐された、である。
さっき会ったばかり。男女7歳にして
乳白色のお湯に隠された体の構造は違うが、長い髪のせいで女同士で仲良く温泉でも楽しんでいますみたいな健全なバスタイム。月のような美しい顔はニコニコ微笑みながら、こんなことを言ってきた。
「君の服は脱衣所にきちんとたたんで置いてありますから、安心してくださいね」
何かが今起きた。
それが何かも気づかないまま、クルミ色のどこかずれている瞳はキョロキョロし始めた。
「脱衣所?」
事件解決の鍵を見つけた。湯船から2、3m離れている、ガラス張りの扉。その向こうに人質の服たちはいる。だが、そこへ行くには、湯船を出て床を歩き、脱衣所のドアを開ける必要がある。
いくらパンツを見せてもOKな瑞希でも、さすがに全裸は見せられず。お湯の中で足止めを食らった。
「どうやったら、あそこにたどり着けるんだろう?」
ピンチに陥った女刑事、瑞希はとうとう壊れた。彼女の脳裏で、物理的法則を無視した、アニメのような映像が浮かぶ。
「横飛びして、素早く扉を開けて、シュタッと脱衣所の床に到着……?」
どんな動きだろうか。絶対に無理である。それなのに、マゼンダ色の髪を視界の端に映して、違う心配をする。
「いや、それじゃ、ランジェさんに見えちゃうから……。魔法で服を瞬間移動?」
いつの間にか、瑞希は魔法使いになっていた。だが、また壁にぶち当たった。
「ダメだな。服がお湯で濡れちゃう。バスタオルを先に持ってきて、体を拭いて……。あぁ、それもダメだな。湯船からどのみち出ないと、体が拭けない。どうすれば?」
乳白色の湯に保護された我が身。瑞希の非現実的な逃走劇は、妄想世界の中で続いてゆく。
ランジェの妖艶な首筋に、お湯がかき寄せられる。
(逃げられないように、バスルームに連れてきましたよ〜。それから、敵がいますから、そちらも考慮しての場所です〜。それでは、情報を提供していただきましょうか〜?)
策略という名の檻に、乙女は投獄されたのだった。まだまだ妄想世界で実現不可能なことを考えていた瑞希に、凛とした澄んだ丸みがあり儚げな声が、こんな言葉で襲いかかった。
「僕は君に恋をしたみたいなんです〜」
やはりマキが入りすぎのようだ。あのプロポーズの列に並んでいた女たちなら、天にも昇るほど浮かれただろう。だが、ここにいる、刻彩 瑞希さんは、野郎どもの話についていけるような女である。つまりは普通ではないのだ。
瑞希は妄想世界から速やかに引き上げてきて、激しくまぶたをパチパチさせた。
「え……? ぼくがきみにこい?」
脱衣所から顔を戻したが、漢字変換が間に合わず、出だしが遅れた。
(ん? ランジェさんが私を好き?)
何を言っているのかはわかった。愛の告白である。声色と髪が女性的な美青年。ニコニコと人当たりのいい笑み。月のように美しいすべすべの肌。プロポーズをするために列を作られる男。
だがやはり、瑞希は浮かれることもなく、怒ることもなく、驚くわけでもなく。女性よりも綺麗なランジェを凝視して、必死にこの言葉の裏を探す。
(あれ? おかしいなぁ。そんなところ、今までなかったよね? どういうこと? あ、わかった!)
お笑い好きの彼女の脳裏で、ピカンと電球がついた。
「それは池の鯉ということにしておきましょうか?」
フルスイングで、宇宙の果てまで満塁ホームランをお見舞いしてやった。打球は山なりにもならず、ライナーで順調に飛んで行っていたが、ランジェがスマートに瞬間移動の魔法をかけて、無事にグローブへボールは戻ってきた。それは今度、バッター瑞希の体を巧妙に狙って、デットボールを放ってきた。
「おや? そうきましたか。それでは、僕が池に入って溺死です~」
意味不明である。ボケているのでもなく、本気で言っている。試合の流れを持っていけそうだったのに、振り出しに、いやコールドゲームに一気にひっくり返されてしまった。
お笑いという線路から脱線させられた瑞希はびっくりして、思わず立ち上がりそうになったが、全裸ご披露になってしまうため、声だけをバスルームにこだまさせた。
「えぇっ!? 恋に溺れてではなくてですか?」
「えぇ」
ランジェは上品に短くうなずく、いや先を促した。たった一言。だが、ここには重大な何かが隠されているのである。しかし、混乱している瑞希は、かろうじて疑問形を投げかけた。
「何で死ぬんですか?」
「僕は死んでみたいんです〜」
自虐極まりない。
「どうしてですか?」
「どのようなものか体験したいんです〜」
ゴー トゥー ヘブンをご所望のランジェさん。瑞希は微妙な声を上げながらも、ポジティブに取ってみた。
「あぁ〜、大丈夫です。人は必ず死にます。だから、率先して死ななくても、体験できます」
誰もがそうなるのだから、待てばいいだけである。だがやはり、違った。チビッ子がマジでおかしなのと言っただけあった。ランジェの綺麗な唇から出てきた言葉はこんなだった。
「僕は死なないんです〜」
不老不死みたいなことを言う。望んでいたのに。月の天使といううたい文句をつけた占い師は。
「はぁ?」
ぽかんとした瑞希に容赦なく、ランジェから攻撃がまたやってくる。
「いいえ、僕はすでに死んでいるんです〜」
どこからどう見ても、目の前の湯に浸かり、生きているランジェさん。瑞希は彼の策略の鎖に完全にグルグル巻きにされて、返す言葉が見当たらなかった。
「…………」
「…………」
しばらくの沈黙。その間、彼らの間にある乳白色の
マジでおかしなのにノックアウトされた瑞希の意識がようやく戻ってきて、両手をパッと上げ、何とかこの言葉を叫んだが、
「すみません。会話が崩壊してます!」
ランジェはさらに上をいっていた。含み笑いのあとに、おどけた声が響き渡った。
「おや? バレてしまいましたか〜。わざと崩壊させたんです〜」
「えっっ!? わざと? どういうこと?」
びっくりした瑞希のまわりの湯がバシャバシャと暴れ回った。その波紋を肩で受けながら、ランジェは人差し指をこめかにに当てて、困った表情をする。
「先ほど、僕は君を抱きしめたいと思いました。こちらは恋ではないんでしょうか?」
そうして、何かが今起きた。大雑把な感覚人間、瑞希が気づくはずもなく、スルーしていってしまった。
「――っていうか、恋の話に戻ってしまったので、強制終了してください!」
恋をする気などサラサラないのだ。タイムループから抜けたいだけなのだ。
人を平然と脅せる男。そんなランジェが、言うことなど聞くはずもなく、動揺することもなく、わざとらしく眉をひそめ、首をかしげると、マゼンダ色の後れ毛が湯船にサラッと尾を落とした。
「そちらは僕が少々困るんです〜」
「いやいや、私も困ってます!」
早く湯船から出ないと、のぼせてしまうわけで。それは、もれなく全裸を披露することになるわけで。さらには、相手に迷惑をかけるわけで。運ばれることになるわけで。
オーバーリアクションの瑞希と、ほぼ対照的なランジェ。彼の凛とした澄んだ丸みがあり儚げな声が、バスルームにこだまする。
「今日ぐらいはきちんと仕事をしないと、上の方に知られてしまうんです〜」
今何かが起きた。一緒に入浴していることなどすっかり忘れて、瑞希は真顔に戻った。
「あれ? 占い師でしたよね? 上の人っているんですか?」
世界的に有名な占い師ならば、いないかもしれない。しかし、どこかに所属しているのなら、いるかもしれない。ここも、瑞希とランジェの違いなのだ。彼は短く肯定し、
「えぇ、いるんです〜。僕はこう見えても中間管理職なんです」
マジでおかしなランジェさんも、色々と苦労があるようだ。
「どういうことで叱られるんですか?」
気になる。占い師が注意される内容が。だが、ランジェの吸い寄せられそうな綺麗な唇から出てきた言葉は、マジでおかしなのだった。
「僕はいつも負けることをしたいんです〜」
「はぁ?」
さっきからランジェに話を持っていかれている瑞希は、ぽかんとした顔をした。彼女に構わず、彼は真面目に回答中、ニコニコ笑顔のまま。
「失敗することをしたいんです〜」
みんな勝ちたい。成功したいと願う。それなのに、この男は負けたい。失敗したいと切望する。人生でそんなことをしたら、即ご臨終である。それなのに、無事に生きているランジェ。彼には何か秘密がありそうだ。
瑞希はあまりの言葉に、ただつぶやくしかできなかった。
「ドM……」
マジでおかしなの=おかしなの+マジ+ドM。
ここから、ランジェの話には、それは本当なのかと疑いたくなる内容が出てくる。
「どのようにすれば実現できるかを考えていると、ぜひやってくださるという方が必ずいらっしゃるんです〜。ですから、代わりにやっていただくんです」
「結果はどうなるんですか?」
失敗したい人の計画。実行役は別の人。自分は痛い目を見なくても、結果だけは知ることができる。そういう恵まれた運勢のランジェ。
身の毛もよだつ、含み笑いが湯けむりの向こうから聞こえてきた。
「うふふふっ。やはり失敗してしまいましたか〜になるんです」
願い出た人が完全にモルモット、実験台である。極悪非道極まりない。冗談でもなく、本気で話しているランジェ。
わりと柔軟性がある瑞希は、天使のような見た目なのに悪魔みたいな男の独特のペースに、この短い間でも少しは慣れていた。驚くこともなく、軽くため息をつき、
「それじゃ、上の人から叱られますね。被害に遭われた方、ご愁傷様です」
頭を下げると、ブラウンの前髪が乳白色に混じり、ぴちゃんという音を立てた。
急に静かになった、出たいのに出られないバスタブ。ガラス張りの壁から、遠くの航空障害灯の赤の点滅を眺める。湯船にもたれかかりながら。足も伸ばせないほどの狭い1Kの暮らしに比べれば、ある意味、ありがたい時間だった。
「終わった」
簡潔な言葉。それっきり聞こえることもなく。バスルームに面している窓ガラスから、今は座っていて見ることはできない地上。ランジェは物事を見るチャンネルを切り変える。すると、不思議なことに、あのデパートの脇道で、人が数名アスファルトの上で伸びている光景が入ってきた。
凛とした澄んだ丸みがあり儚げで女性的な声で、ランジェは広がっていた静寂を破った。
「それでは、行きましょうか〜? 倒していただいたので……」
「何をですか? っていうか、誰にですか?」
ここは見逃したくない。ぜひ聞きたい。戦闘したみたいな話が再登場。いくら負けるの大好きでも、相手は策士だ。聞き出せるはずもなく。おどけた感じで、即行チェックメイトを放ってきた。
「うふふふっ。そちらは秘密です〜。次は座りますから、気をつけてくださいね」
容赦なく場所移動。ニコニコの笑顔で惹きつけておいて、うまい具合にはぐらかすと、瑞希とランジェの姿はバスルームからすうっと消え去り、乳白色の水面が湯上りのようにゆらゆらと揺れていた――――
――――急に乾燥した涼しい空気に変わり、ジャズのメロディーがあたりに漂った。さっきまでしっかりとしたバスタブの安定感の中で座っていた瑞希は、急に横へ滑り落ちそうになって、パニック寸前に。
「えっ!?!?」
とにかく近くにあった大きなものにしがみついた。
「あぁ、椅子ってこんな高いやつだったんだ」
瑞希が足元をのぞき込むと、足は床についておらず、背もたれもない丸椅子の上に移動してきていた。右隣から194cmの長身でしっかりと腰掛け、長い足を持て余し気味のランジェからこんな言葉がプレゼント。
「落ちてしまっても構いませんが、打ちどころが悪いと、死んでしまいます。ですが、その時はその時です〜。君には
誰が敵で、誰が悪者か本当にわからない。
ここで怒るような人は、ランジェとはとてもではないがやっていけない。リボンで上品に結ばれたマゼンダ色の髪を、瑞希はまじまじと見つめた。
(冗談でもなく、本気で言ってる……。でも、これが、ランジェさんなんだな。面白い人っていうか、明るい人だ。死を前向きに取れるんだから……)
マジでおかしなのだからこそ、少しずつしか理解できないが、瑞希は珍しく微笑んだ。だがそこで、肩の感触に異変を感じた。視線を落とすと、白いフリル。
「あれ? 服が変わってる……」
紫のタンクトップとピンクのミニスカートはどこかへ消え失せ、純白の膝までのワンピースに代わっていた。汚れが目立つ白いはサンダルは新品みたいに綺麗になっていて、ファッション雑誌から抜け出たみたいな洗練された格好。
「そちらは、僕からのプレゼントです」
淡いピンク――桜色のタキシードに身を包み、マゼンダ色の腰までの長い髪を優美な川のように背中に落とす男は、ひどく綺麗で、紳士的なのに悪魔みたいだった。
勝手に着せられた服。これで2度目である。乙女としては、口を出さずにはいられなかった。だが、瑞希の心配事はそこではなく。
「え、でも、自分で支払ってない――」
何かが今起きた。
「君の服はきちんと折りたたんで、バックの中に入っています。ですから、安心してください」
さりげなくさえぎられた言葉。だったが、どこかで聞いたことのある内容だった。あんなに再会したかった古着屋で買った服。それが無事、自分の膝の上に乗っているアウトレットのバックの中にある。瑞希はほっと胸をなでおろした。
「あ、あぁ、ありがとうございます」
「1杯おごりますよ」
いきなり出てきた話。綺麗なドレスを着て椅子に座っているということだけしか気づいていなかった瑞希。
「え……?」
今やっと、自分がどこに連れてこられたのか把握する機会を与えられた。真正面に顔を向けると、様々ラベルを見せる酒瓶がずらっと並んでいた。大きな1枚板のカウンター。その向こう側には蝶ネクタイに黒のベストと白いシャツの男が1人控えている。
「ここ、バー?」
優しい陽光のように降り注ぐ、ジャズの音色に耳を傾け、高い丸椅子の上で瑞希は背後に振り返った。都会の海が様々な色を煌めかせた宝石箱のような景色。ランジェの専用バーで、他に客は誰もいない。
下手なホテルのラウンジも顔負けの豪華さ。あの狭い1K6畳のアパートとは大違い。あまりのカルチャーショックに、瑞希はランジェを置き去りして、だいぶ西へ傾いてしまった月の銀の光を、いつまでもぼうっと浴びていた。
「先ほど手伝っていただいたお礼です」
桜色のタキシードを着ているランジェが言った。
瑞希としては、ただ立っていて、見ていて、オリジナルの歌を歌っただけ。それ以上でもそれ以下でもなく。いや、別の宝物を手に入れられた貴重な時間だった。
「いや、それはこっちのセリフです。私のしたいことを、ランジェさんが叶えてくれたので、私がお礼をする方です」
おごられるのが好きでない、強情な瑞希。秀麗で1度失敗して、ミイラ化されたこともすっかり忘れて、今度はランジェに突っかかった。
相手をよく見ないといけない。ランジェがニコニコと微笑むと、世界崩壊、いやそれでは収まりきれず、
「おや? ダガーでまた怪我をしたいんですか〜?」
脅し文句だったが、別のところで何かが起きた。瑞希はそれには気づかず、あきれたため息をつく。
「またですか……」
策士だ。目の前にいる天使のような綺麗な顔をした悪魔みたいな男は。一度したことは、何か意図がない限りしてこない。失敗するとわかっているのだから。いくら、負けるの大好きランジェでも、自身の思惑通りに進めるためには、勝ちにくるはずである。
平和な日常。朝起きて、バイトに行って、曲を作って、眠る。そこに、刃物はいらない。それなのに持っている。瑞希は当然気になった。
「――っていうか、何で武器を持ってるんですか?」
自分で選んだ会話のように思えるが、完全に踊らされていた。武器の話題に一旦持ち込んだのだ、ランジェは。
ズボンの中に鞘があるはずなのに、抜き身のダガーはマゼンダ色の髪の横で、人差し指と中指で挟み持ちされ、鋭いシルバー色を放っていた。
「武器の所持が義務付けられているんです〜」
目の前にいる男は占い師だ。警察や軍関係者ではない。必要ないはず。
「あぁ……そうですか」
それなのに、瑞希はただ戸惑い気味にうなずいただけ。どうやら、ランジェの何かが彼女の言動を狂わせているようで。それは、ブラックホールのような引力のあるものみたいだった。
「あれ? 他の人、武器持ってたかな? ん〜〜?」
「うふふふっ」
瑞希はランジェの手中にすでに落ちていた。彼女が視線をはずしたその隙に、がダーは左太ももに巻き付けてある鞘という
そうして、瑞希は無防備に崩壊気味の記憶力をたどって、独り言を言い始めた。
「見てないよね?」
どこかいってしまっている黄緑色の瞳と山吹色のボブ髪を持つ男。
「見逃しただけ?」
銀の長い前髪と鋭利なスミレ色の瞳を持つ男。秀麗は武器――拳銃、フロンティアを使っていた。だが、瑞希は直接見ていない。
「兄貴は戦ってたよね? でも、武器はなかった……」
彼の武器は見えていたのだ。だが、それが武器だと思っていないのだ。というか、そんな武器があるとも、瑞希は知らない。
限られた時間と情報。それ以上はどんなに頭を振っても、出てこないのだ。それなのにまだ考えようとしている瑞希。いつまで経っても、おごるという言葉に返事を返してこない女。
フライング気味な行動は決して取らない。自分から動くことはしない。待ち続けることがどちらかというと得意。そんなランジェだったが、さすがにしびれを切らした。
「これ以上考えられないように、君の頭をミンチのように切り刻みましょうか〜?」
不服だ。自分がおごる側なのだ。それなのに、脅して強制服従させようとする。瑞希はかたくなに拒んだ。
「だから、言うことは聞かないです!」
ランジェもランジェで、まったく引かない。
「僕が君におごらせていただきます」
「いや、だから――」
瑞希にも信念はある。それでも食い下がろうとしたが、凛として澄んではいるが、丸みもなく儚さもなく、トーンが少し低くなった男の声が、重厚感があり猛吹雪のように冷たく言い切った。
「こちらの話に関しては、僕は今後一切取り合いません」
空気が変わった。滅多に怒らない男を怒らせてしまった。ヴァイオレットの瞳はまぶたから解放されていたが、瑞希に向くことはなかった。沈黙が広がる。
「…………」
「…………」
どんなに待ってみても、ランジェの綺麗な唇は動かない。瑞希とはまったく違う性質を持つこの男の雰囲気で、彼女は落ち着きと冷静さを与えられた。
(あぁ……ニコニコしてて、優しいけど、ランジェさんは1回言ったら、絶対に引かない強い信念を持ってる感じがする。じゃあ、こうしよう)
瑞希が折れることで、無言の時は終わりを告げた。軽く息を吐き、丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます。ごちそうさまです」
「どういたしまして」
クルミ色とヴァイオレットの瞳は一直線に交わり、さっきよりも1歩近づいた気がした。瑞希は照れたように微笑んで、カウンターに両肘をついて考える。
「え~っと、何頼もうかなぁ~?」
バーは酒専門店。ビールと言っても、酒は出てこない。どんなビールが飲みたいのかと聞き返されてしまう。コクがあるとか、すっきりしたのがいいとか、フルーティーなのがいいとか、もしくは、銘柄を指定する。居酒屋とは違うのである。
しかも、ランジェのプライベートバーであり、メニュー表などない。悪戦苦闘するかと思われたが、大通りに面したフルーツパーラーで決心したことを、瑞希はふと思い出した。次に口にするなら、これだと決めていたもの。
ここはバーだ。それでも、再現する方法はあったのだ。
「あっ、あれだ!」
バーテンダーに向かって、マニアックなカクテルを注文。
「すみません。アレキサンダーお願いします!」
人の名前っぽかったが、バーテンダーはニッコリ微笑んで、テキパキと動き出した。右隣からランジェの凛とした澄んだ儚げで丸みのある声がゆるゆる〜と疑問形を放ってきた。
「おや? ビールではないんですか〜?」
何かが今起きた。ニコニコしている男に顔を戻して、瑞希はそのままスルー。未だ策士だと気づいていない上、距離が縮まった感を持っていた彼女は、ウキウキでこんなこと言う。
「今はケーキな気分なんです」
言い間違いではない。生クリームの入ったカクテルなのだ。ケーキみたいな味がするのである。アルコール度数も20%前半と、ぶっ倒れるまでいかない代物。
あと少しで、デザートのパラダイスにありつける。瑞希は自然と笑顔になるのだった。
「そうですか~。君は予測がつきませんね」
ランジェの言葉の構造は、相づち+情報。よく考えないと、策士の罠という鎖が食い込むだけである。
「さっきの人に聞いたんですか?」
瑞希の疑問形。この言葉には2つの効果がある。だが、感覚の彼女はよくわかっておらず、うっかり聞いてしまった。
目の前の女を策という鎖でぐるぐる巻きにして、ランジェは一気に自分の元へ引き寄せた。これ以上ないくらい怖い笑みで、同じ疑問形を放って。
「どなたにですか~?」
この言葉の意味は1つ。瑞希のとは違う。巧妙に仕掛けられた会話、その順番。見事に
「えっと……名前? あれ? あっ! 聞いてない!」
今ごろ気づいた。瑞希は頭を抱えて、カウンターに突っ伏す。オーバーリアクション。わかりすぎる態度。自分とは正反対の女。ポーカフェイスならぬ、ニコニコの笑顔をしているランジェは、悪魔も黙るような含み笑いをもらした。
「うふふふっ。少々怒っていましたよ~、名前を聞いていただけなかったと……」
ランジェはここに話を持ってきたかったのである。知っているはずだ、ランジェは瑞希がビールを飲んだ時は誰だったのかを。わざと、誰かと聞き返したのだ。
しかも、瑞希はランジェの思惑通りに、自身の情報を渡してしまっている。今の会話でわかった事実は以下の通り。
――瑞希は兄貴の名前を聞いていなかった。
――瑞希は記憶力がよくないという傾向がある。
兄貴の名前は、秀麗が言っていた。覚えていないのだから、やはり記憶力は崩壊気味なのである。
後悔というリングに沈められた瑞希は、あのアッシュグレーの鋭い眼光と藤色の長めの短髪の男に、心の底から詫びを入れた。
「あぁ~、兄貴、すみません。助けてもらったのに、名前聞くの忘れてしまって……」
瑞希がカウンタの上で伸びている隙に、ランジェは慣れた感じで注文した。
「僕はいつものをお願いします」
シャカシャカとシャイカーがリズムよく振られる音がし、ショートカクテルグラスが淡い琥珀色で満たされ、お待ちかねのケーキな酒、アレキサンダーがやってきた。
ランジェの前には、ミントの葉というグリーンの花が咲くロンググラスのモヒート。乾杯のグラスのカツンという音が響くと、ジャスの音だけになった。
グラスを傾けると、瑞希は感動で思わず目を閉じた。
(あぁ~、ケーキだ。甘くておいしい! ランジェさんのお陰で、これが飲めるなんて、幸せだ~~!)
色々あったが、生きていてよかったと思える瞬間。このおかしなタイムループでも、自分の願いが叶った瞬間。だったが、兄貴の時の失敗がある。酒に関しては。
(でも、アルコール度数はビールより高いから、気をつけないと……。また迷惑かけちゃうからね)
ラム酒を炭酸で割った、低アルコール度数のモヒート。女性的なマゼンダ色の髪の前で、ストローが綺麗な唇にくわえられる。カラカラと氷の鳴る音が涼しさを演出すると、凛とした澄んだ声がドS発言を放ってきた。
「僕は運びませんよ~。こちらに放置です~」
「ですよね~?」
瑞希はべったりと塗りつけるように同意した。この短い時間で、ランジェがどんな人か十分わかっていた。
だが、この会話がおかしかったことには気づいていなかった。瑞希は今、口に出して言っていない。それなのに、ランジェは答えてきているが、どうもさっきからおかしい。
さすがの瑞希でも気づくだろう。秀麗の時は突っ込んで聞いていたのだから。だが、それが起きないのには、何か別に理由があるようだ。
最初に会った時、ランジェは白いチャイナドレスで、ピンヒール。カラフルな化粧もしていて、指輪もプレスレットもつけていた。
だが、瑞希がそばに行った時には、白いブラウスと水色の細身のズボン。茶色のロングブーツ。化粧もしていなければ、アクセサリーもしていない。
瑞希の服を着替えさせたように、何か使ったのかというと、それも違う。彼は女装など最初からしていなかったのである。
隣の駅まで、金の細い糸が。行列を見つけた交差点では、金のオーロラが漂っていた。蜘蛛の巣のように、瑞希という蝶は誘い込まれて、ここまでに至っている。ある意味、この男が一番危険なのだ。
そうとは知らず、瑞希はケーキなカクテルで、脳裏という城の大広間で、宮廷楽団の奏でるワルツに乗って、右に左にステップを踏み続ける。最初は1人だったのに、勝手にランジェさんを拝借。桜色のタキシードに身を預けながら、右に左にスイング。
キラキラと輝くシャンデリアの下。ターンするたび、瑞希の白いスカートはフワッと広がる。月のように美しい顔をうっとりと見つめ返して、優美に踊り続ける。マゼンダ色の髪が自分の頬に寄り添うように近づいてきたかと思うと、耳元でふとささやかれた。
「僕と結婚しませんか?」
声は妄想ではない。本物。瑞希は一気に目をが覚めて、負けたがりの男性占い師に、あきれた顔を向けた。
「何で話が勝手に発展してるんですか?」
ニコニコの笑顔のまま、ランジェはこんなことを言う。
「僕は女性とまともに話したことがないんです~」
今何かが起きた。
どこからどう見ても、20代後半から30代前半に見えるランジェ。異性と話したことがないとは、また話を崩壊させる気なのだろうか。
「どう言うことですか?」
こうして、明らかになる。この男の日常が。あのデパートのまわりにとぐろを巻くように長蛇の列ができていた原因が。それは本当なのかと疑いそうだが、ランジェにとってはノンフィクションなのである。
「初対面の女性のほどんどが、僕になぜかプロポーズしてくるんです~」
「え……? さっきの人たち、全員知り合いじゃないんですか?」
「彼女たちには、どちらでも会ったことがないんです~」
あれは全員、知らない女だったのだ。それなのに、勝負服を着て、花束やプレゼントを持って、プロポーズをしにわんさか訪れる。奇想天外。
「どうして、そんな現象が起きるんですか?」
何かしないとあり得ないだろう。よほどのことをしているのかと思ったが、ランジェのニコニコの笑顔は消え去り、本当に困った表情をした。
「なぜでしょうね~? 僕は何もしていないんですよ。彼女たちに特別な感情を抱いているわけでもありません。罠を張っているわけでもありません。ですがなぜか、彼女たちが勝手に結婚を申し込んでくるんです~」
「はぁ?」
アレキサンダーを飲もうとしていた手を、瑞希は思わず止めた。ランジェはごくごく真剣に答え続ける。
「女性に関しては他にも、僕は少々困っているんです~」
プロポーズされるだけでも、怪奇現象として十分なのに。マジでおかしなランジェのまわりでは、ミラクル現象発生しまくりなのだ。
「まだ何かあるんですか?」
モヒートのグラスに手を添えたまま、凛とした澄んだ声が短くうなずく。
「えぇ。プロポーズをしてこなかった女性は、気絶するんです~」
あのギャグみたいな事件の真相は、これが原因だったのだ。瑞希は合点がいき、思わず椅子から落ちそうになった。
「あぁっ! それでか! さっき人が倒れてたのって!」
巻き込まれた女たちも大変だが、ランジェも頭が痛い限りだ。モテるからいいとは言えない。本人が知らないところで、起きてしまうのだから、どうにもならないのである。
しかし、悲劇はこれだけではなく。
「そちらにもならなかった方は、僕が望んだ通りの品物や金額を渡してくるんです~」
そういうわけで、ランジェが街角に立てば、金品が勝手に向こうからやってくるという仕掛けだ。これで、女は全員撃破となる。
「マジでおかしいの。は、このことだった?」
瑞希はランジェとは反対側に向いて、チビッ子の言葉をふと思い出し、方程式を簡潔にまとめ上げた。
マジでおかしなの=特異体質。
月から来た天使のような美しき男は、女性を惑わせる体質なのだ。ランジェは幼い頃からこんなので、相手は狂喜乱舞だが、自身は落ち着き払って、その様子を傍観しているのが日常。面白くもないだろう。自分の思う通りに動く異性など。
「ですから、僕は女性ときちんと話したことがないんです。そちらができる方が現れたら、運命の人かもしれないと以前から考えていたんです」
クリアしている女が隣に座っている瑞希なのだ。そんな背景があるとも知らず、断り続けていた彼女は、少しだけテンションが下がった。
「あぁ、それでですか……」
194cmのランジェ。高い丸椅子に座っても、足は有り余るくらい長く、床を軽く蹴り、瑞希の方へ正面を向けた。
「ですから、僕は君に恋をして、結婚を申し込んでいるんですが……」
女性的な柔らかな物腰。負けることが好き。自身の生き方を知っている慈愛を持つ男。そんな彼のヴァイオレットの瞳は邪悪だが、その奥深くを瑞希はのぞき込むように、4つの瞳は真摯に交わった。
そこに嘘偽りはなかった。冗談でもなく、本気で言ってきている。ランジェは瑞希に愛の告白とプロポーズを。
それならば、誠意を持って返事をしなければいけない。だが、瑞希はもっと前でつまずいてしまった。
「結婚ってそう言うものですか?」
「どう言うものが結婚なんですか?」
2人とも首を傾げて、見つめ合う。
「…………」
「…………」
どんな縁があって、お互い出会い、今ここにいて、こんな話をしているか。そんなことはどうでもよく。相手が聞いているから答えたい。だが、説明がうまくできない。
「…………」
「…………」
どこまでも、2人きりの時間が続いてゆくようだったが、マゼンダ色とブラウンの長い髪が、室内のはずなのに、サラサラと風に舞い始めた。
「やはり、見つかってしまいましたか~」
ニコニコの笑みに戻り、おどけた感じで、凛とした澄んだ丸みがあり儚げな声が響いた。何かによって破壊された静寂。
「ん? 何が起きて――」
瑞希とランジェは気がつくと、都会の海を従えた全面ガラス張りの部屋ではなく、バーテンダーもおらず、カウンタと丸椅子だけが、荒野の中にポツリと現れたように、別世界へ飛ばされてしまっていた。
「僕が君を命をかけて守りますよ~」
失敗することが大好きなランジェに、ゆるゆる〜とした語尾で言われると、身を預けることははばかられる。それがいい感じで瑞希の記憶の引き出しに電流を流し、なぜあの長蛇の列に並んだのか、やっと思い出した。
「あっ、そうだ! 霊感で聞いて欲しかったんだ。何から守るん――」
不動のランジェなのに、被せ気味にこんなことを言ってきた。
「ですが、僕は戦闘系ではないので、一緒に死んでしまうかもしれませんね~」
負けるの大好きなランジェさんと一緒に、ここで力果てて土となる。それも人生だろう。ツッコミがいがある言葉だが、瑞希は両手を大きく頭の上で振り、ここを拾った。
「いやいや、また、会話が崩壊してます! 何ですか? そのミイラ取りがミイラみたいな話は! 守るって言って――」
目先の会話に気を取られたしまった。もっと重要なところがある。
戦闘系? それでは、ランジェは何系? というか、それは何で決まるのだろうか。しかも、さっきすでに死んでいると言っていた。また死ぬとはどういうことだろうか。
「先ほどから、場所を移動して、巻いていたんですが、居場所が知られてしまいましたか~。前のターンでも、ループさせれていましたからね」
策士に無駄な言動など何1つない。ただ、頭の回転が早いのは確かで、瑞希がついていけなくなっていた。
「何の話? っていうか、話がどんどん先に進んで――」
混乱している間に、ランジェの腕は瑞希の背中にいつの間にか回されており、何かの危険から守るために抱き寄せた。
瑞希はこんなことでは、もう驚かないのである。秀麗にすでに抱きしめられた事件に遭わせられているからだ。
女性的な印象なのに、力や骨格はやはり男で、白いワンピースは桜色のタキシードの腕の中にしっかりと埋もれた。
ヴァイオレットの邪悪な瞳は、さっきから瑞希を見ていなかった。彼は彼女の背後にいる何かと話していたようだ。
「うふふふっ。おいたをする子は地獄行きです~」
いつの間にか手にしていたダガーの鋭い刃が、瑞希の頬ギリギリのラインを狙って、カウンターを突き刺すように素早く落ちていった。
「グアッ!」
「え……?」
ランジェの腕の中で、瑞希は首だけで振り返ると、思ってもみない光景に驚き、息をつまらせた。
「っ!」
彼女の背後にいたのは人ではなく。血のようなおどろおどろしい赤い目が2つ。岩のようなゴツゴツとした肌と、頭には雄牛のようなツノが2本。鋭く
カウンターテーブルには鋭い爪をした手が、ダガーの刃物で串刺しにされたまま、緑の血が吹き出し、瑞希の服にまで飛んできていた。
低い声と高い声を混ぜたようなそれが、ランジェに問いかける。
「貴様、何者だ?」
「月のリオンです~」
兄貴が呼んでいた、リオン。ここで登場。だったが、瑞希は抱き寄せられているにも関わらず、敵とは反対側の右人差し指を立てて、顔の横に持ってきた。
「月野 リオンさん。よし、名前ゲット!」
兄貴を逃してしまっている以上、彼女も必死だった。悪魔から即行ツッコミ。
「そこの女、間違っている」
「え……?」
マゼンダ色の髪の横で、瑞希は間の抜けた顔をしたが、どこかわざとやっているようだった。
「前半分は名前――」
戦闘中だというのに、出てきた敵も敵で、どうも抜けている感が否めない。リオンの瞳は今や邪悪一色で、どっちが悪者だかわからない、おどけた声が含み笑いとともにやってきた。
「おや? よそ見をするとは、そんなに僕に殺して欲しいんですか~」
ダガーの刃元は敵の腕を真っ二つにするように、縦の線をえぐり取るように描いた。
「っ!」
「ウギャァァッッ!」
1本だった手は2本に簡単に分かれ、敵がうめき声を上げている隙に、次の攻撃が容赦なく襲いかかる。
「っ!」
真っ赤な目は刃先で突き刺して、くり抜くように潰されてゆく。
「ギャアッッ!」
悲鳴が上がるたび、瑞希の白いワンピースは緑色に染まり、飽和状態になった布地から血が乾いた大地に落ち始めた。
片手と両目を負傷した敵がひるんでいるうちに、リオンはダガーを瑞希を間にして、彼女の左側、カウンターと反対へ持ち手を変えて、縦に3回空中を突き刺す仕草をする。すると、武器は3本に分身し、横向きに発射されるミサイルが待機するようになった。
「っ!」
柄の背を上から順に勢いよく押すように、手を下へ向かって振り落とすと、敵の体深くへ太い杭でも打ち込んだように突き刺さり、
「ゲフッ!」
岩のようなゴツゴツとした悪魔は猛スピードで、荒野を土煙を上げて、横滑りで吹き飛ばされてゆく。
遠くの切り立った丘に、めり込むほどぶつかると、衝撃でガラガラと爆音を立てて崩壊し、地鳴りがしばらくしていたが、それがやむとガレキの山ばかりで、敵は跡形もなく消え失せていた。
次の瞬間には、2人は元の平和なバーにいた。瑞希の白いワンピースは、さっきのことが嘘みたいに純白一色だった。
いつの間にか降り出していた雨が、ガラス窓を優しく叩く。瑞希を離すタイミングがわからず、彼女を抱きしめたまま、リオンはニコニコと微笑んだ。
「君のお陰で、倒しやすかったみたいです~」
「どういたしまして。わざとボケました~」
誰が守られるだけの存在になどなるものか。守ったり守られたりが、瑞希の信念なのだ。名前を聞き間違ったふりをしたのだ。
だがここで、ボケのふりという手を使ったため、瑞希はランジェがリオンだと覚えられないという代償を背をうこととなった。また見逃しである。
モヒートのグラスを桜色のタキシードへ引き寄せ、ランジェは一口飲み、珍しく表情を曇らせた。
「しかし、残念でしたね~」
抱き寄せられている瑞希の、ケーキなアレキサンダーは今や、斜め後ろにあった。だが、負けじと彼女も、カクテルグラスの小さく繊細な三角をわしづかみし、淡い琥珀色をガブッと飲んだ。
「何がですか?」
雨粒が透明な模様を作るガラス窓には、どこからどう見ても恋人同士みたいな2人が映っている。ランジェの特異体質が、恋愛の順番を狂わせて、寄り添ったまま会話は続いてゆく。
いい感じの雰囲気なのに、ランジェの綺麗な唇から出てくる言葉は極悪非道だった。
「先ほどの相手は、1万年ほど地獄から出てこれないかもしれません。ですが、あと10倍ほど罪を重ねさせてから、地獄に突き落としてもよかったかもしれませんね~」
「いやいや、だから、どっちが悪者だかわからなくなってます!」
瑞希は思いっきり突っ込んだが、これがランジェなのだ。真っ黒に塗りつぶしたような至福の時の中で、含み笑いに続いて、彼の秘密が暴露された。
「うふふふっ。僕は他の方からいつもこう言われるんです。人を人とも思わず、残虐な遊びに酔いしれる中世ヨーロッパの貴族――――」
キャーッと、悲鳴が聞こえた気がした。ホラー映画でも見たような気分になって、瑞希はそんな貴族的な男の腕の中で、思いっきり叫んだ
「冗談にならないんで、やめてください! ランジェさん、本当にしそうです!」
「うふふふっ」
肯定も否定もしない。含み笑いだからこそ、本気である、なのだ。だが、子供たちのために身を呈して生きているランジェ。大人には厳しいが、子供には優しい。ある意味これが、この男のギャップであり、それが心地よく、瑞希は珍しく声に出して笑った。
「ふふふふっ」
一段と強くなった雨が叩きつける窓ガラスの前で、ランジェの人差し指はこめかみに突き立てられた。この仕草は今まで彼は何度もしていた。ヴァイオレットの瞳から見ると、こんなものが実は見えていた。
それは、腕時計の数字盤。
「どのようにしたら、君は僕の手中に落ちるんでしょう? 困りましたね~? 僕の初恋を実らせたいのですが……拘束して監禁してみましょうか?」
SM。容易に想像できる、ランジェさんが鞭を振るっている姿が。瑞希は盛大にため息をついた。
「はぁ~、もう、本気で言ってる……。どうして、恋愛するになったんで――」
聞こうとしたが、最後までできなかった。
「おや~? 時間切れです~」
「え、どういうことですか?」
時間まで計算して、ランジェが言動を起こしていたなど、瑞希は知らなかった。しかも、そんなルールがタイムループにあるとも気づいていなかった。
携帯電話でしか時刻を確認しない瑞希。
「深夜0時までなんです~、僕の時間は」
「ん? 急に眠くなって――」
それっきり、瑞希は意識を失って、ランジェの胸の中に無防備に身を預けた。彼の桜色のタキシードの腕の中から、彼女は光る粒子となり消え去ってゆく。
「君は可愛い人ですね。ですが、明日でお別れかもしれません。ですから、僕は急いでいたのかもしれない……」
会葬の雨のように、夜色を背景にして、銀の線をさらに激しく窓の外で描き始めた。ガラスに映るランジェの服と背丈は、点滅するライトのように、白いチャイナドレスを着た164cmの女性の姿となり、桜色のタキシードに身を包む194cmの男性となるを繰り返していた――――
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