第十九話:旅行者Nの献身

 旅行最終日。荷造りをして、もう一度温泉に入りたい人は温泉に入って、お土産屋さんをみんなで回って食べ歩きなんかもしながら、昼の三時を迎えた。猿芝居を観ながら温泉せんべいを食べているときに、杏が空に手を伸ばしながら体を伸ばし、体の中の毒を空気中に放出するようにひと言放った。




「また来たいねぇ、みんなで!」




 本当はみんなじゃなくても良いと思った。昨日の夜のことを何もなかったように振る舞う杏がちょっぴり寂しかった。




 晩御飯の薬膳カレーをカフェで食べて、いよいよ車に乗り込む。行きのときと同じ車に乗ったが、乗る場所は変わっていた。杏は助手席に座り、蘭が俺の隣に来た。別に大した変化じゃないけど、杏が今度は俺に対して気まずい思いをしているのかなと思うと、少し申し訳なかった。




 走り出した車で、杏はまた張り切ってマネージャー癖が出た。




「ふたりとも寝てていいよ。マネージャーですから。最後まで起きて、二人を起こしてあげるよ」


 余計なお世話だ。ここで寝たら大川兄と杏の二人でまた良い雰囲気にでもなってしまったらたまったもんじゃない。俺は最後まで寝ないと決意した。






 四人を載せた車は、昨日通った高速道路の道筋をなぞるように、なめらかに滑っていく。月は全く動かないのに、高速道路沿いの街灯はビュンビュン後ろに飛んでいく。トンネルに入ると更にそのオレンジ色の光が帯となって顔の横をすり抜けていく。




 とっくに日が落ちた海が見える。真っ暗な空と真っ暗な海の境界線がはっきりしない。満天の星空が見えるかもしれないと思ったが、街灯に邪魔されて何も見えなかった。そこにあるのはただ真っ黒な空間。窓ガラスに映る俺や杏や蘭の顔。行きとは違ってみんなそれぞれ違う方向を向いて静かになっている。




 杏や蘭と俺は今同じ空や海を見ているはずなのに、それぞれで方向が全然違っている。なぜか同じ方向を向けずにいる。運転に集中している大川兄意外はみんな、何かを見ているようで何も見ていないのかもしれない。意識を外の景色に向かわせてみるが、やっぱりこの二人の様子が気になってしまう。




 杏と蘭は女子部屋で、足湯で、どんなガールズトークをしたのだろう。その中に少しでも俺の存在はいただろうか。もしそうなら、杏や蘭は俺のことをどう評価し、どういう目で見てくれただろうか。二人で見合ってコソコソ話をする様子を想像し、ムズムズしてきた。




 そうしているうちに、とうとう自分たちの街に帰ってきてしまった。晩御飯を食べてから帰ったので、だいぶ夜遅くになってしまっている。結局車内では何も話さないまま、ハナ高の近くまで来た。




 大川兄は最初に杏を家の近くまで送ってそのあと蘭を送り、車内は俺と大川兄の2人だけになった。杏も蘭も普通に遊んだ後みたいに軽く挨拶して、まっすぐに歩いていった。一度も振り返ることがなく、俺を見ようともせず。本当になかったコトにされたんだ。そう思うと虚しくて仕方がなかった。




 ここで俺は大川兄に杏のことを聞きたくなってきた。あんなに仲良くしやがって、あてつけなのか、と。でもそこまで強く言えないので、少しはぐらかすように聞いてみた。




「大川」


「ん?」


「杏のことだけどさ」


「うん?」


「どうなの?」


「どうなのって……別に何にもないけど」




 これが元彼の余裕というものなのだろうか。ひょうひょうとしている。その態度が少々癪にさわるが、まあいい。もう“元”であって、今は俺のほうが杏と近いはずなのだから。俺ももっと余裕を持たないと。




 しかし俺だって胸を張れるようなことはひとつもできていない。杏には告白できなかったし、杏の近くにいられるようにはなったが、それ以上はなかなか前に進めずにいる。こんな状態で元彼である大川兄に対して何を勝っているというのか。いつも自分自身で自問自答して、実際には何も動いていないではないか。それに気付いてまた弱気になる俺を、もう一人の俺はどう評価するだろう。




「本当に杏には未練がないのか?」


「無いよそんなもん。あるわけないじゃん。あったら今こんな風になってねえわ。杏も俺も」


「そっか」




 本当に無さそうだった。それが不思議だった。少しくらいあってもいいのに、全くのゼロという感じ。高校の頃はあんなにベストカップルだったのに、これほどまで綺麗サッパリと忘れ去ることが果たして出来るのか。そんな感覚味わったことがないので分かりかねるが、俺には大川兄が嘘をついているとは到底思えなかった。




 球場で、グラウンドで、部室の横で、廊下で、俺が杏の横顔と出会う時、杏はいつもこいつを見ていたんだ。そして今、バッティングセンターで、温泉地の足湯で、車で、俺が杏の横顔と出会う時、それはいつもなんにもない空間をぼんやり眺めているだけであって、それがなんとなく大川兄を探しているようであって、それを見る度になんとも言えない気持ちになる。




 もしも杏が俺を見ることになったら、俺は杏の横顔を見られなくなり、そのかわり真正面から杏を見るだろう。杏の横顔を、もう見たくはない。俺だけを見て、俺も杏を正面から見たい。決意は固まったかと思われた。




 それからすぐ、俺の家の前までたどり着いた。お礼を言って大川兄の車が行ってしまったのを最後まで見送って、部屋の中に入ろうと鍵を探している時、暗い廊下に向かって光がポケットの中から漏れ出た。見ると、意外な人物からの連絡だった。




『助けて。良に会いたい。また抱きしめて。温めてほしい』




 純奈からだった。


 純奈とはあれ以来会っていないし連絡も取り合っていない。というか、話を切り出す勇気がないどころか話す内容すら頭の中には浮かんでこない。純奈とはアレっきりだと自分では思っていたから、まさかその純奈から連絡が来るとは思っていなかった。




 急に身体がゾクゾクしてくる。さっきまで旅行気分だったのに、もうそんな気分は完全に抜けきっていた。“都合が良い女”からの誘い。優しく接しさえすれば欲求を解消できる。杏にも蘭にもない魅力、それは一歩飛び越えてしまったがゆえに生まれたハードルの低さ。胸に太いガマガエルが入っているような、ぬめっとした感じ。身体の芯がそのガマガエルに支配されているような感覚。砂場に出来た凸凹の影が顔みたいに見えてずっと見つめられているような、心地悪いような心地良さ。嬉しいけど嬉しくない、ワクワクするけど中止したい。相反する自分が、それぞれで葛藤を繰り返す。




 この時俺は、旅行から帰ってきた後でよかったと思った。もしも旅行の途中で純奈から連絡が来ていたとしたら、杏や蘭に見つかっていたかもしれない。そうすればたちまちイジられ、俺は眼中に入れなくなる。相手されなくなってしまう。そこだけは本当にタイミングが良かった。




 そう思う一方で、なんて自分はひどい男なんだとも思った。まだ付き合ってはいないけど、杏にも蘭にも純奈の存在をひた隠そうとしている。純奈がこれを知ったら傷つくだろう。俺はなんてずるいやつになってしまったんだと愕然とした。




 これをうまく隠し、うまく立ち回り、スマートにこなすのが大人なのだろうか。だったらそんな大人にはなりたいとは思えない。ただ、もうすでに片足を突っ込んでしまっていることも確かだ。




 崖で片足を外に出したらどうなるか。バランスを崩して海へ真っ逆さま。今まさにそんな立場にいるのである。底なし沼ならまだ這い上がれそうだが、空中では何も出来やしない。ただとことん落ちていくだけである。




 いいや、身を任せてやれ。少々投げやりかもしれないが、身体は正直者らしく、罪悪感で塗り固められた理性を本能が力技で押しのけようとしている。お断りの返事をしようとする神経を邪魔するように、足を自転車の方へ動かす信号が音をかき消そうと大声で叫んでいる。




 もう深夜だというのに、ひんやりした真夜中に自転車で突っ込んでいく。ブラックホールに飛び込むように、放射状の何かが俺の身体の跡をつけるように。風を切って走るのは清々しく爽やかで気持ちが良いはずなのだが、どうもそうでもなかった。土手沿いのランニングコースを息が切れるほど 力強く漕ぎ続ける。少年時代のあの爽快感を取り戻したいがために。しかしいくら踏ん張ってももうあの頃の感覚は取り戻せない。真っ暗な土手道に、自転車のライトが右に左に伸びていくだけだ。




 土手から一本だけ伸びたススキの長細いフォルムを思いっきり蹴り上げ、足でラリアットを食らわし、土手の終りを示すオレンジ色の塗装が剥げた金属の通行止めのなにかを思いっきり踏みつける。ワイルドなライオンかゴリラになった気分で、この真夜中を支配する者のように振る舞う。なんとことはない、ただ“都合の良い女”に身を任せる事ができるというだけで大きくなっている心。酔っ払っていい気になっているのと同じ。これならまだ酔っ払っていても、道端で嘔吐している方が素直で良い。




 結局男というのは簡単に野生に帰るのである。あの前回のホテルの前で、純奈が寂しそうに立っていた。掛ける言葉もなく、そばに自転車をおいて、アイコンタクトで中に入る。階段で腕を組んでくる純奈。身体の柔らかさと洋服同士が擦れる音で心臓の鼓動は早くなり、皮膚が敏感になっていく。なんて素直で正直なんだ俺の身体は、と思った。心の中で笑えてきた。かと思うと、本当に表情に現れそうで、怖くなって必死に隠した。純奈とヤレることに何を喜んでいるんだ、と自分で自分に問うが、回答は帰ってこない。ただ単にヤレるということしか脳が処理をしないのだ。




 そのまま部屋について、電気もつけないまま純奈を押し倒した。引き剥がすように服を脱がせ、全て身を委ねているようであり、誘っているようにも見える純奈の表情を見ながら、身体の輪郭を指先でなぞる。純奈の冷たい身体に、ダイブしていく。やがて意識は遠のいていき、本能が完全に理性に打ち勝って、自分じゃない自分がどこから持ってきたのかわからない有り余る体力を純奈にぶつけていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る