第二十話:赤い目のうさぎ

 カーテンを開いても、見えるのは真っ黒な、ススだらけの空だけ。下の方にピンクや黄色のネオンが光っているが、それもなんだか淀んでいる。後ろにいる純奈にどんな顔をすれば良いのか分からず。俺はただ真っ黒な世界に目線を逃している。




 まるで使い古されたぬいぐるみのようにダラっと垂れた、疲れ切った様子の純奈。今日は特に激しく求められた。何かをかき消すような、記憶に残るような、メイク・ラブとは程遠いもの。何がどうこうなってしまったのだろう。そんな興味は湧くが、心の奥深くでは実はそんな事でもよかった。ただ純奈とヤれた。それだけだった。




 純奈とはこんなにも体を合わせることが出来るのに、杏や蘭とはこんなこと想像することも出来ない。蘭はまだ体が完全に女子になっていないから仕方ないとして、杏にそんな感情がまるで湧いてこないのは、やはり一番大切にしたい相手だからだろう。大切にしたいあまり、ぞんざいに扱えない。別に純奈をぞんざいに扱っているというわけではない。でも。向こうからそれを望んでいるからと、それを言い訳に、心の奥深くではぞんざいに扱っていたのかもしれない。なんてひどいんだ俺は。




 純奈といると、確かに発散出来るが、それ以上はなにもない。それどころか罪悪感や自己嫌悪でダメージのほうが大きい。純奈といるとだめになってしまう。それに気付いてはいるけどどうしようもない。そんな自分がまた嫌いになる。




 純奈はまだベットで横たわっている。長い髪が白いシーツの上でばらばらの方向に伸びている。毛先がくるんと丸まっていて、それを指先でカールさせながら、まだ無言を貫いている。別に話したいわけでもないから構わないのだが、今日の純奈はこの前と表情が違って変だ。なんだか心配にもなってしまう。




「どうした?」




 その気がなくなった俺は、その裸体を見てなんでこんなところでこんなことしちゃってるんだろうと腐った本能丸出しで思わず聞いてしまった。純奈は体を起こさないまま、そのままの姿勢で、待ってましたとばかりに言葉を俺にぶつけてきた。




「この前と違って頭の中に違う人がいるね、誰?」




 ドキッとした。それは良い意味ではなく、悪い意味で。純奈としている最中は頭が真っ白になっているのだが、体位を変えたりするちょっとした時間でふと冷静になってしまう自分がいて、そんなときは必ず杏のことを思い出すのだ。別に杏の裸体を想像したりとか、それを純奈の姿勢に合わせるとか、そういうことはない。ただ、ふと冷静になったときに思い出すのは高校時代の杏や草野球の練習中に買い出しに行く杏、そしてこの前二人で歩いたときの浴衣姿の杏、そんなのばかり。それに気付くなんて、純奈は俺にはわからないなにか特別な感覚を持っているのか、それとも。




「君とは関係ない人だよ」




 いないとは言えなかった。はぐらかすように嘘をついておいた。今の俺が出来る精一杯の回答がこれだった。




「好きなんだね」




 好きだけど。好きだけど、そんなの純奈の前で言うのは残酷な気がした。純奈がもし俺のことを本気で恋愛として好きだったら、必ず傷つけてしまう。




「……かもな」




 またはぐらかすしかなかった。ずるいやり方だとは分かっている。また純奈の前で自己嫌悪に陥る。純奈は俺の悪いところを俺自身で発見させる天才だ。そんな皮肉めいた言い方しかできなくなってしまっている。




「そっか。だよね。私なんか簡単に股開く女だし、ね。結局いつも誘うのは私からで、そっちから誘ってもらったことなんてなかった。だから気付いてた。なんとなくね。ごめんね、無理やり呼び出しなんかしちゃって。バカみたいだよね」




「いや、そんなこと……ごめん……」




 ため息をつき、前髪をかきあげる純奈。髪は乱れたままで、梳かすこともない。魂が吸い取られたみたいに灰色になって、目は常に瞳孔が開いているかのようだ。一気に老けたと言うか、生気を失ってしまっている。




「愛されてないのは分かってたけど、愛されてるかもしれないって、愛されるのをちょっと期待してたんだ。ばかだよね。ちょっと考えれば分かることなのにさ」




 突然泣き出す純奈。それは喚くような泣き叫ぶようなものではなく、静かに、涙が流れたのを本人でさえ気づかないくらいなめらかに。滑り落ちていく涙が顎のところで一旦止まって、点滴のようにひと粒ずつ、純奈のついた手にポトリと墜ちていく。女の子を泣かせてしまった。しかも俺を必要とする女の子をそんな風にさせてしまうなんて。




「ごめん、別に純奈が悪いわけじゃなくて、俺が悪いんだ。俺がちゃんとしてなかったから純奈を傷つけることになっちゃったんだよね、きっと。ああ、ごめん。本当にごめん」




 別に純奈が悪いわけじゃないんだ。純奈よりも杏って言うわけじゃないんだ。でもどうしても比較が必要ならば、そっちになってしまう。ただそれだけなんだ。モテているわけでもない男がこんな風に“遊ぼう”とするからこうなってしまう。自業自得なのは分かっている。




「あぁあ、また振られちゃった。こうなること分かっててこうなっちゃうんだよね、いっつも」




「純奈……」




 上手くフォローが出来ないまま、純奈の話は続いていく。




「なんかまるで高校時代みたいな振られ方だなぁ。同じように私を振った人がいてねーー」




 蘭のことだと勘付いた。アイツは今女になっていて、バイト先で君の先輩だった蘭だよ、とは言い出せなかった。でも本当は言いたかった。蘭、いや又田は単に自分自身の又田としての自分を本当の自分とは認識していなかっただけなんだ。そんな自分を好きになってもらうなんて我慢できなかったんだと思う。だから、純奈は悪くないんだ。




「出会うタイミングが悪かったのかな? もっと早く出会ってたら私だった?」




 なんとも言えない切なさがあった。前にも振られているから、今回は俺が救ってあげないといけないんじゃないか。俺だけが純奈を救ってあげられるんじゃないか。そう思った。こんなに俺を頼りにしてきているし、俺も純奈のことを別に嫌いではない。純奈が可愛そうで仕方がない。そう思ったが、それはおそらく俺の傲慢だろう。上から目線で純奈を下に見てしまっている。そんな自分は最低だと思った。




「そんなことないよ」




 これが精一杯の返事。どちらの問いにも正直に答えられる。これ以上でも以下でもない。格好良い捨て台詞でも吐けたらハードボイルドな男にでもなれただろうか。でもそんな自分は本当の自分ではない。自分らしくないものにはなりたいと思えないし、なれない。拒絶反応しか起こらない。




 シャワーもせずに、服を着て帰り支度を始める俺。それを虚ろな目で眺めるだけの純奈。これ以上はだめだ、ここで下手に優しくしても尾を引くような気がする。無責任だと罵られるかもしれないが、それはそれで受け止めよう。話を切り上げて、逃げるようにこの場を去ろうとした。




「ごめん、帰るわ」




 純奈はハッとしたような顔で急に電源が入ったようにこっちを向いた。その感じが下手な操り人形みたいに怪しく見えて、仕方なく引いてしまった。だめだ、だんだん怖くなってきた。ホラー映画をVRで目の前で見ているような感じ。無理。




「だめ、今日は一緒にいてくれるって言ったじゃん」




 それは囁くような小さな細い声。あの大声を張り出して呼び出しをするアルバイトの様子を知っている俺からしたら、考えられないような弱々しくか細い音。それはあの種の洗脳をされているかのように部屋中に反射して耳に残る。それがなんともいえない肌寒さを感じる要因になっている。




「ごめん、埒あかないから」




 逃げたい。この場から早く去らないと。蟻地獄に吸い込まれる蟻の気持ちは例えばこんな感じなのだろう。と、その時、純奈の冷たい手がガシッと俺の腕を掴んだ。さっきの弱々しい声とは似ても似つかない力強さ。いや、力強いというより執着しているといったほうが正しいか。真っ赤なネイルの爪が食い込んで痛いのだが、振り払えない。まるで呪縛のような、金縛りのような、なんとも言えない感覚が身体を包み込んで離さない。食虫植物の中にいるみたいだ。




「だめ! 今日は一緒にいてくれないとダメなの!」




 とうとう叫んだ。隣の部屋にまで聞こえそうな純奈の叫び。純奈からしたら、これが最後のあがきということか。必死に叫ぶ様子に心が揺れ動く。ここまでにしてしまったのは俺のせいだ。どうしよう、このままだと良くないことが起きてしまうかもしれない。でもこれ以上一緒にいても自分が自分じゃなくなってしまう。自分を大事にするか、それとも目の前の純奈を大事にするか。どちらを選べば。




「ごめん!」




 俺が選んだのは自分だった。自己中心的な選択なのかもしれない。女を放っておく最低な男なのかもしれない。でも、もうこうするしかない。そんなジコチューな俺を、純奈が必死で引き止める。なんで俺みたいなのを引き止めるんだ。実際は俺じゃなくても良いはずなのに。




「行かないで」




 それは叫びではなく、弱々しいつぶやきのようだった。最後の悪あがき、そんな風にとらえるしかできない。声にならない声を、必死に絞りだしている。俺はもうひと言も発せず、心の中でごめんごめんごめんと連呼した。




 そのまま荷物を持って部屋を出て、階段を急いで駆け下りた。後ろを振り向かないように気をつけたが、どうしても純奈が気になってしまって一度振り返ってしまった。三メートルほど離れたところで泣きじゃくりながらずっと俺を見る純奈。違う、本来の純奈はそんなんじゃない。俺はそう思いたい。だから今は、ここを去らないといけないんだ。ごめん、純奈。




 ホテルを出て細道を抜け、国道まで出た。ふと振り返ると、やはり同じように後ろで純奈が泣きながら立ちすくんでいた。朝方の薄暗い藍色の街の先に、黒い影がぽつんと。もう見ていられない。自転車のペダルを強く踏んだ。そこから先は、一度も振り返らなかった。


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