第十八話:有馬温泉午前零時

 秋の虫が密かに鳴き始める頃、男子部屋では恒例のあれが始まっていた。みんなで枕を中心に寄せて、お互いの顔を見合うわけでもなく、全員が天井を向いてヒソヒソ話し合うことといえば。




「お前誰が好きだった?」




 修学旅行といえばこれだ。しかし今回はちょっと一味違う。現在ではなく過去形。高校時代に誰が好きだったかという話。大川兄がガハハと笑いながらひときわ盛り上がって仕切っている。こういうのはこっそりやるから風情があっていいんじゃないか。まあいいか。




「ほら、お前は誰なんだよ! 早く言えよ!」


「うるせえよ、お前は良いよな。恥ずかしがることないもん、公認だったんだし」




 そういったのは円。たしかにそうで、この中で唯一当時彼女がいて、しかもその彼女が杏というチームのマドンナ。何もやましいことがないし、恥ずかしがる必要がない。ずるいやつだ。




「うるせ! 円、早く答えろよ!」


「……石川さんだよ」




 おおーと静かに盛り上がる一同。円も杏のこと好きだったんだ。まぁ仕方ないよな。チームのマドンナなのだから。




「当時は、だからな! おい橋田、お前はどうなんだ?」


「え、つぎ俺?」




 みんな橋田の発言までだんまりを貫く。橋田も覚悟を決めたようで、ゆっくりと話し始めた。




「俺も石川だった。ていうかあの状況ならみんなそうなるだろ。まともに話せる女子なんて、当時はマネージャーくらいしかいなかったし。クラスメイトと遊んだこともなかったしさ」




 結局、実はその場のみんなが高校時代、杏のことを好きだった。最後に俺だけが残ったが、もう言わなくても分かっているというような微妙な空気が流れている。




「長澤は? やっぱ石川杏?」


「いや絶対そうでしょ。結局みんな杏なんだよな」


「ていうか良は今もだろ」




 誰かがからかって言った言葉にドキッとした。図星だ。なんで知ってるんだ?




「今ではここみんな彼女いるもんな。良だけいないし、今まで全然そういう話聞かないしな」




「え、お前らみんな彼女いるの? まじかよ……」




 そんなことを聞いてしまうとなんだか少し焦ってしまう。しかもそんな中、大川兄がだんまりしているのがあんまりだと思った。話しづらいのは分かるが、こういうときに吐き出さないでいつ吐き出すんだ。大川兄から杏と別れたときいたら驚くだろうが、次の瞬間にはもしかしてみんな俺の背中を押してくれるかもしれないのに。なんて。 






 みんな寝静まった頃、俺は目がギンギンに開いたまま寝付けずにいた。晩飯を食べた後にしっかり深く眠ってしまったせいもあるし、この旅行自体に興奮状態になってしまっているのだろう。寝ようとしても全く眠気が襲ってこなかった。




 外の空気でも吸おうかと布団をめくり、静かに部屋の扉を開けた。ひんやりしている廊下に出ると、長い廊下の先に自動販売機と人影があった。俺もなにか飲みながら散歩するか、と思い近づいていくと、そこにいたのは杏だった。




「杏?」


「お、長澤」




 ちょうどお茶の缶を自動販売機の下のポケットから取り出すためにしゃがんでいた浴衣姿の杏は、ビクッとして俺の方を向いた。驚かせてしまったことに一瞬だけ申し訳なく思う。さっきまで全員が高校時代に好きだったという、あの杏が目の前にいる。それだけで意識してかまえてしまう。




「杏も、喉乾いたの?」


「ああ、うん、まぁ、そんなとこ。長澤は? 長澤も喉乾いた?」


「うん、まぁ、そんなとこ」


「あ、ごめん最後の一本取っちゃった」




 見るとたしかに赤いランプが全てのサンプルの下で灯っている。




「あ、まじか。まぁいいや、外にも自動販売機あるっしょ」


「え、今から外出るの?」


「うん、眠れないし。散歩しようかなと」


「へー、じゃ、私も行こうっと。……選手がいなくなったり怪我しないために見張ってなきゃいけないからね」




 へえへえそうですか、と返したが、内心ガッツポーズが止まらない。ウキウキ気分でますます目が冴えた。






 群馬県の草津、岐阜県の下呂温泉と並ぶ、”三名湯”のひとつが有馬温泉。赤い欄干の”ねね橋”が街灯に照らされて、昼に見たときとはまた違う妖艶な雰囲気に包まれている。その手前でねね像が遠くの方を見て立っている。こっちを向いて孤立無援な俺を少しでも助けてくれたら心強いのに。向こうの方に見える温泉街のライトアップが、ぼんやりぼやぼや霞んで見える。




 温泉街の街灯を目印に、ゆっくりと歩いていく。飲み物のために自動販売機を探すことはとっくに忘れて、隣というか少し斜め後ろにいる杏の存在を確認しつつ、なんでもないふりをする。思い出話に花が咲き、あの頃はこんな事する余裕なんて無かっただの、修学旅行の散々な思い出や、野球部のときの記憶が蘇ってくる。




「練習終わりのグラウンドとかでみんなで時が経つのも忘れてたわいもないどうでもいい話してたよね。あの頃の話題なんて今は全然覚えてないけど、みんなで座って話をしている感じは絵に描けるくらい覚えてる。話題なんて本当はどうでも良くて、ただあそこにみんなでいた事に意味があったんだよね。みんなで一緒にいたあの頃が懐かしいね」




「確かにそうかもなぁ。何を話してたっけなぁ。多分本当にどうでもいいことばっかりだったんだろうなぁ」




 今だって実はそうなのかもしれないと思った。何の話をするかじゃなくて、誰と話をするか。それが大事なのだろう。俺は今、杏と二人きりで話をしている。あのみんなが恋愛感情を持っていた杏を、独り占めしているんだ。




 夜の静けさが、だんだんそういう気分にさせてくる。杏に言いたいこと。でも、言っても良いのか分からずに黙っていること。今以上のチャンスはないかもしれない。だったら最高のコンディションで絶対に成功させないと。




「なんか最近、杏と一緒にいること多いよな」




 ドキドキする胸の鼓動を直で感じながら、勇気を出して話を切り出してみた。なんでこんなことをわざわざ切り出したのかと言うと、それにはちゃんとした理由があって、どこかで誰かが“男性は一瞬で恋に落ちるけど、女性は積み重ねで想いが募って、あふれるのを恋だと思う”ということを聞いたからだ。その積み重ねを自己暗示させたくて、こんな事を話した。ストーカーだと思われたらどうしようかと一瞬だけ後悔したが、もうどうにでもなれ、とも思った。




「確かに。最近長澤と一緒にいる機会多いね」




 杏はさっき自動販売機で買ったお茶の缶を両手で口元に持っていき、ひとくち飲んだ。




「長澤といるとなんか落ち着くんだよね。気楽でいられるっていうか。別に何もしてもらわなくても助けられてるっていうかさ」




「そ、そうかな?」




 これは!


 自分の中で用意していた数々のブレーキがどんどん外されていく。もしかしたら今、俺と杏がこころの奥深くでシンクロしているのかもしれない。そんな気がしていた。積み重ねられているのかもしれないと、自信が出てきた。しかし。




「フラワーズはね、第二のハナ高野球部だと思ってるの。ハナ高野球部にいるときは、なんかこう、安心感もあれば適度な真剣さもあって、毎日楽しくって居心地が良かった。又田……いや、蘭ちゃんがみんなを集めてくれて、あの頃が蘇ったみたいで本当に嬉しいんだよね。またちゃんと自分のしたいことができるんだって思って」




 あれ?


 雲行きが怪しくなってきた。これは、俺が、というより、チームが、フラワーズが落ち着く場所であって、杏にとっての帰るべき家のような存在だということだろうか。だとしたらまずい。さっき杏のことが好きだったアイツらが全員その対象に含まれてしまう。そうなると話を進めるのに圧倒的不利だ。とおもいきや。




「大川くんとのこと、長澤は実は気にしてくれてるよね。何となく分かるよ。大川くんとは、喧嘩したりとか楽しかったこととか色々思い出はあるけどさ、きっと前までの二人に戻れるって、私は信じてるから。心配しないでね」




 心配しないでね、とは一体。何の心配なのだろう。きっぱり別れたから思い切り告白してこいって言うことなのか、それとも単に友達としてもう気にしなくても良いということだろうか。しかしさっき外れてしまったブレーキは物事を良い方向へと自動的に考えてしまっていた。怪しくなった雲行きも、それを越えられるだけの勢いがあるから大丈夫だと、自分の中の誰かが強く言い聞かせてくる。




 そこで思いがけず、焦ってしまってつい思いが溢れた。積み重ねではなく、ぽっと出の焦りの塊が。




「てか本当に綺麗になったよね」




 なんでそんな事を言ったのか自分でもよくわからない。こんな台詞、一生言わないと思っていたが、なぜか出てきた。それはもはや無謀なギャンブル。有り金全部、万馬券につぎ込んで玉砕するのみ。お先真っ暗。これこそ後悔の対象だ。




「え、突然どうした?」


「いや、そう思っただけで……」




 思ったけど、このタイミングで言うことじゃないんだ。




「今すっぴんだしそんなでもないよ」


「いやいや」




 早く話題を変えないと。目に見えているものは、木造住宅と、ぶら下がっている看板と、街灯のオレンジ。えっと、えっと……。




「本当にどうした?」


「いや、別に。なんでもないよ」




 なんでもないことを、なんで言ってしまうんだ。なんで今、こんな事を言ってしまったんだ。




「そう……」




 何が何だか分かっていないような表情の杏を目の前に、結局、告白できなかった。するべき空気にならなかった。というより、自分で自分の首を絞めてしまった。コントロールが効かなくなった。告白までにどうやって持っていけば良いのか、この年になっても分かっていなかったなんて。本当に自分は25歳なのかと疑ってしまいそうになる。社会人とか学生とかに関わらず、この歳にもなってなんで自律することも出来ていないんだと、自分で自分が憎らしい。




 杏がいつの間にかお茶を飲み干して、空き缶をゴミ箱に捨てるのをそばから見ていて、俺もこの空き缶と一緒だなと思った。ゴミ箱の横の亀の置物が、なんとも言えない表情でこちらを見ていた。

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