第十七話:足湯で待ちわびて

 開けっ放しの扉の方から、突然杏の声が聞こえてきた。




「晩御飯までは自由時間だから、温泉入っておいてね。晩御飯の時間と大広間の場所は修学旅行のしおりに書いてあるから見逃さないように!」




 まるで先生みたいな言い方の杏。わざわざ隣の俺らの部屋まで教えに来てくれた。早速着替えの準備をして、お待ちかねの温泉タイム。ホテルの中にも温泉があるけど、やっぱりせっかく来たから外の本温泉に入らないと。俺らは『金の湯』を目指してホテルの先の階段を下った。




 有馬温泉には有名な外湯がふたつあって、それぞれ『金の湯』と『銀の湯』がある。杏の作った修学旅行のしおりによると、濃いオレンジ色の濁った金泉は保湿効果が高いので絶対に入るべし、らしい。なんとも女子らしい視点だ。多分チームのほとんどは疲労回復のためだと思ってきているだろう。




 しかも『金の湯』は安くて、無料の足湯まで別に用意されているらしい。俺らは早速『金の湯』に入り、1階で手続きを済ませて早速2階に上がろうとしたとき、杏の後ろからひょっこり顔を出した蘭が、申し訳なさそうに口を開いた。




「じゃ、あたしはここで……」




 蘭だけが急に手を振って離れようとした。すかさず大川兄が止めようとする。




「え、どうした? ……あっ」




 大川兄は何かに気づいたようで、それ以上は何も言わない。俺も地雷だと分かっているので、無言を貫く。杏は、フォローするように話し始めた。




「本当は蘭ちゃんも入りたいって言ってたんだけど、さっき二人で話し合って、蘭ちゃんには足湯のところで待っていてもらうことになったの。蘭ちゃん髪長いし可愛い女の子らしい顔や仕草になっちゃってるから今さら男湯にはなんとなく入り辛いし、かといって身体はまだ男の子だからもちろん女湯にも入れないし」




 そう、蘭は顔や声は変えられたが、身体は男だ。これはある意味仕方がない。温泉に来たのがまずかったのかもしれないが、杏と蘭で決めたことだから今さら口出しなんて出来ない。多分、杏は高校の修学旅行でも温泉宿に泊まったからそうしただけで、悪気はないはず。トラブルにならなければ良いけど。




「いや、でも髪長い男なんていくらでもいるし、顔が可愛らしい男だっているだろ。大丈夫だよ」


 橋田がフォローしようとするが、蘭は苦笑い。余計なことをするなとも言い辛い。




「いや、タオルの巻き方も違うしね……」




 なるほど、それも確かにある。一人だけ胸まで隠して大勢の他人から変な目で見られることを想像すれば、入りづらいだろう。




「カミングアウトのタイミングもっと遅くしとけば男湯に入れた可能性あったパターンだよね!? うわぁ損したぁ」




 蘭は明るく振る舞って笑いを誘うが、なんとなく反応に困ってしまい、俺は作り笑いした。別に蘭が悪いわけでもないし、どうしようもないことなんけど。




「海外みたいに温泉もみんな水着でってなったら話は別だけどさ、まぁ、無理なもんは無理だってわかってるから! じゃ、足湯で待ってるからねぇ。のぼせるなよぉ」




 そう言って明るく振る舞いながら、蘭は早足で向こうの方へ去っていった。俺らは目で合図し、切り替えるしかないな、と気持ちを入れ直した。触れないほうが良い、これ以上深く突っ込んじゃいけない。そんな気がした。


 週末だからか、中は人で溢れていて大人気。俺らは『一の湯』、杏は『ニのゆ』に向かい、風呂からあがったらすぐに足湯に向かうことを確認しあい、それぞれに分かれた。




 太閤さんをもてなすための湯、それが有馬温泉の濁った金泉。岩に囲まれた泥のようなにごり湯は、濃いオレンジ色のチョコレートを溶かしたよう。普通のお湯なら透明で全身が見えるが、下の方は全く見えない。こんなところで眼鏡でも落としてみようものなら、湯を全部抜かないと見つかりっこないだろう。




 息を止めて、ゆっくり恐る恐る腰をかがめていく。鳥肌が立ったように刺さるような熱さが皮膚を刺激すると、徐々に温度に慣れて、座れるようになった。疲れ成分が泥のような湯に混ざっていき、息を吐くごとに体がゆるくなってくる。疲れが抜けきるまで、10分位浸かっていたかもしれない。浴衣に着替えるとき、するするっと肌を滑っていく感触がなんとも言えない快感だった。




 蘭をあまり待たせるのも悪いと思い、足湯の方にささっと移動すると、もうすでに杏が蘭と一緒に仲良く話をして盛り上がっていた。足湯の方も先程入ってきたばかりの湯と同様に濃いオレンジ色で、ドロドロしているにごり湯である。木造の屋根に守られて、細道沿いの屋外の足湯は、足元をしっかり温めてくれると同時に優しく吹いてくる風が心地よく、それが無料で楽しめるとあって大盛況だった。杏が俺に気付くとこっちこっちと手招きしてくれ、それに素直に招かれて、蘭とともに杏を挟むように座った。




「早かったねぇ。何話してたの?」




「秘密。女の子同士の秘密ですぅ。ねー」


「ねー」




 そうやってお互いの顔を見合う杏と蘭。女子は本当におしゃべり好きだな。もしかして、万が一、俺のことを話してくれていたら。女子の間で話題になれたらどんなに幸せか。でも実際には違うのだろう。きっと杏は蘭にも大川兄のことを相談しているはずで。ガールズトークといえばそういう類の話をするものだろう、きっと。なんだか二人の世界の中に混ざってみたい気もするが、俺はその一歩を踏み出せずにいた。




 浴衣に着替えた杏は裾を膝のところまであげて、お湯につかないようにしている。それが妙に色っぽくて、ついついわざと目線を他のところに移してしまう。蘭は俺のことを意識してか、悪ふざけでしきりにスカートめくりみたいにしようとするため、俺は蘭にしっかりと目で合図しようとしたが、蘭はウインクをするだけで一向にやめようとしない。俺は諦めてよその方の変な標識や置物なんかを見るしかなかった。




「あ、そうだ。これ長澤の」




 杏の声に振り返ると、ほっぺに小瓶が当たった。有馬サイダーてっぽう水。青白い透明の小瓶に入ったそれは、レトロな商標のシールが貼られていていかにも美味しそう。ちょうど風呂上がりでのどが渇いていたところ。そういえば杏も蘭も、座っている横に空き瓶を置いている。鉄砲水の小瓶は多少時間が経ってキンキンに冷えているわけではないが、それでも頬に当てれば冷たさが伝わってきた。蓋を開けてひと口。強烈な炭酸が喉を直で刺激してきて、思わずむせてしまった。それを見てふふっと笑う二人は、きっとこのことを知っておきながら何も言わなかったのだろう。笑い方にいたずらごころが見える。その後はゆっくりと飲んでいき、その都度爽やかな味を堪能した。




 続々とチームメイトが足湯に集まってくる。大川兄はよほど気持ちが良かったのか、のぼせて顔が真っ赤になっていて、それをまたみんなで笑いあった。ふらふらよたよたと歩く大川兄を数人で支えながらなんとかホテルの大広間に着くと、そこには準備が整ったご馳走が待ってくれていた。




 長く続く白い布の上に、鍋やビール瓶、蟹や肉、お弁当箱のような木の箱に入った綺麗なおかず。特別な神戸ワインまで置いてある。今回の予算の大部分を占めると思われるこのご馳走に、たちまちテンションが上がる。従業員の方々が協力して鍋の準備をしてくださる中、俺らは蘭を中心にビールで乾杯した。




 神戸牛は柔らかく、すぐに口の中で解ほどけていく。野菜と一緒に食べても全く落ちないどころか深みが増すため、肉は一瞬で空っぽになった。その次の標的は蟹。しかし食べようとしても遠すぎて箸が届かない。気付いたら全部向こうの方に座っている奴らに食べられてしまった。悔しくてグラスのビールを一気飲みすると、小箱の中にちょこんと座っている箱寿司をひとくちで頬張った。




 鍋底に眠っているきのこや野菜まで全部みんなで平らげた頃には、もうけっこうお腹いっぱいになっていたが、また新しい小鉢が次々と運ばれてきた。しかもその後はわざわざデザートまで用意してくれていた。そうして全員が全員腹一杯でもう動けないという感じにまでなり、大満足で大広間から自分たちの部屋に戻った。




 本来ならばここからは夜のレクリエーションである枕投げや枕野球が始まるはずだったが、予想外な満腹加減にしばらく休憩時間を挟むことになった。テレビを付けて適当に鑑賞し、将棋組はまた新しい勝負を始めた。俺はすることもないのでテキトーにもう一度散歩するか露天風呂にでも入りにいこうと思った。外を見るともうすでに日は落ちてぼやっとしたオレンジ色の街灯が並び始めていた。






 気付いたら畳の上で大の字になって眠っていた。先ほどのご馳走と温泉でポカポカ温まったおかげか、深い眠りについてしまっていた。起きようとしたその瞬間、なにか重たいものが顔面に激突した。




「大丈夫? あ、起きた?」




 杏の声がする。まばたきを何度かして目をこすると、全員が立っていて俺を見下ろしていた。しかもみんな俺を見て笑っている。どうやら顔に直撃したのは枕だったようだ。鼻に直撃して鼻血でも出たのかと思い顔をなでてみると、そうではなくて顔の左半分に畳の跡がついていた。




「ほらぁ、だからそっちには打たないようにって言ったじゃん」


「わりいな良、おはよー」




 大川兄がガハハと笑いながら、杏の注意を軽く受け流す。どうやら俺が寝ている最中に枕野球を先に始めていたらしい。寝ているからとそこを避けてはじめたらしいが、大川兄の腕力なら俺のところまで飛ばすのも余裕だったようで、それに直撃してしまったということだった。




 だったらその借りを返してやろうじゃないか、ということで俺も参加し、わざと大川兄の顔をめがけて打ったりした。パイプまくらが縦横無尽に飛び回る。みんなが笑顔でその行方を追う。いつしか大川兄と杏の間にも気まずい雰囲気がなくなって、ハイタッチまでしちゃってる。それにほんの少しだけ妬いたりしつつ、体力が果てるまで一生懸命に枕を打った。


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