第十五話:片思い延長戦

 打席につながる半開きのドアから、北風がびゅうっと吹いてきた。俺に向かって急に態度を改めて話そうとしている杏は、なんだかもごもごしている。言いたいけど言えないことなのだろうか。それとも、言ってしまうとなにか危険が及びそうなのだろうか。それが何なのかわからないとどうしようもない。じっと待つ俺もどうしたら良いのか分からず、不安は募っていくばかりだ。




「実はね、大川くんのことなんだけど」




「う、うん」




 なんだ? 大川がどうした? 元カレのことをわざわざ俺に話すってことは、復縁したいから協力してっていうことか? 良い方の想像は時間がかかるのに、悪い方の想像は秒速で押し寄せてくる。




 もしそれが本当ならば大惨事である。気持ちがそっちにある以上、俺は自動的に脱落ということになる。青春モードに完璧に切り替わったタイミングでそうなったとしたら。事態は最悪だ。




「実はね、捨てられたんだよね」


「はぁ?」




 まずは過去の整理というわけか。こういう状況だったけど、今はこうだからこうしたいみたいなキラキラした未来を語られるのかもしれない。世界で一番悲しい分析を高速でしてしまっている自分がいる、なんともいえない心地悪さ。




「まぁ、捨てられたっていうか、自然消滅みたいな感じ? 長澤も知ってると思うけど、高校卒業して私と大川くんは同じ大学に入ったんだ。はじめの頃はあの頃と同じようにちょうど良い距離感でお互い尊重しながら付き合えてたんだ。だから、私、結婚まで考えてた」




「お、おう……」




 結婚まで考えていた。この言葉だけで事態の重さがよく分かる。結婚なんて俺にとってはまだまだ先だと思っていて、現実的な言葉とは認識していなかった。でも目の前で同級生が、しかも自分が狙っている子がその二文字を口にするとは、夢にも思わなかった。そして同時に、大川兄と結婚しようとしていた事実に、俺はどうしようもなく打ちのめされた。なんせ結婚だ。これでもう入り込める隙はないと悟った。どうせここからは、でもこうして同じチームメイトになってあの頃と同じ気持ちになれたっていうのは運命だと思うとかなんとか言って復縁のためにはどうするのかっていう話をするはずである。あいかわらず負の計算が早くて自分でも怖くなる。




「でもね、大学に入るとキャラが変わっちゃって。大学デビューっていうの? なんかそんな感じでさ。髪も伸ばして染めたりして、なんか、いなくなったんだよね、元の彼が」




「まぁ確かに若干雰囲気は変わったかもしれないね」




 相変わらず縦にも横にも幅がある大川兄。まさか大学デビューとは、あいつもなかなかキャラにないことをするものだ。チャラくなった大川兄を想像してみるが、なかなか痛い。大川兄は硬派な漢と書いてオトコと読む、みたいな世界がお似合いだと思う。少なくとも杏はそういう男の彼女がよく似合う。だから俺には似合わない。正直そんな事はわかっている。わかっているが止められないのが恋である。しかし、そんな恋が無理やり止められそうになっている。もの寂しげな杏の横顔によって。




「実は私達、お互いにすれ違っていたのは分かっていた。向こうも新しい友達ができたみたいだし、私に使う時間はどんどん減っていった。私もそれに強く抗議することができなかった。私にだって新しい友達くらいはできたからね。新しい友達が魅力的なのはよく分かっちゃってるからさ。だからかな、お互いに別れが切り出せなかった。別れのタイミングが分からなかった。だからダラダラと付き合って、連絡しなくなって、付き合ってるのかどうかもわからなくなって、気づいたらいなくなってた」




「そうだったのか……」




 としか返事ができなかった。いよいよ復縁のためにどうこうっていう話が来るはずだ。そう思うとなんだか身構えてしまう。ストレートで来るのか、ぼやかしつつ変化球で来るのか。どちらにしろ心の防具がない俺には同じことである。




「でさ、こういうふうなタイミングで再会することになって。自然消滅って気づいてから数年ぶりだよ。でもね、なんか安心したんだよね。ちゃんと生きてたって」




「うん……」




 変化球で来たか。その安心したという言葉が全てを物語っているような気がした。つまり、安心して復縁できるって言うことだ。数年ぶりにあって、大学デビューっぽさがなくなった大川兄と、改めてやりなおす気持ちの整理ができた。そういうことだろう。




 雲行きはどんよりとして怪しい。さっきまでの日差しが嘘のように、灰色の雨雲が空を占拠していく。マシンが俺らの手の届かないところでボールを整理していくギリギリというモーター音が、暗く重たい雰囲気を更に怪しげに演出している。




 それにしても大川兄も意外とひどいやつだ。自然消滅なんて一番男らしくない。何も知らされずにずっと待たされていた杏が可愛そうだ。そういう意味では自然消滅が一番残酷だ。スッキリしたのか、していないのか、よくわからない杏の横顔に、どうしようもなくだんまりを決め込む。同じところに目線を持っていくが、あとは何もしてあげられなかった。




「ごめんごめん、なんでこんなこと長澤に話したんだろうね。自分でもワカンナイや。ごめんごめん」




 ひとつ大きなため息を付いて杏は立ち上がった。そして、さっきまで俺が使っていた打席に入って素振りを始め、それと同時にマシンが轟音を立てて動き出した。杏は何かに取り憑かれたように全力の空振りをし続ける。10球、20球、30球。全てのボールにかすりもしなかった。


 これが杏なりの自分への慰めなのかな。仕事終わりによく来ているというのも、ストレス発散のためで、相当なにか抱え込んでいるのだろう。杏はその後も何度もマシンに向かって空振りをし続け、とうとう全球空振りで疲れて帰ってきた。




「疲れたぁ。全然当たんないね。下手くそだね。全然ついていけないや」




 どかっとベンチに座り直し、残りの飲料をすべて飲み干す杏。なんだかさっきの話を聞いてしまうとこんな一言の中にも裏の意味があって、何か伝えようとしているんじゃないかと勘ぐってしまう。ついていけないという言葉に反応し、大川兄の変わりようについていけないんじゃないか、だったら俺にももしかしたらチャンスは有るんじゃないか、いやだったらさっきの話は何だったんだ、と頭の中は大忙し。研究書の内容や研究結果の考察は得意なのに、ことそこから離れてしまうとなぜか情報量をうまく処理できない。そしてまた、他愛もない、誰でも言えるようなことことを言って“その他大勢”か“引き立て役”に成り下がってしまう俺である。




「下手くそは練習あるのみだよ!」




 俺はそんなふうにしてはぐらかすくらいしかできなかった。杏は俺の大したことでもない言葉に優しく微笑んでくれたが、きっと表面で滑り落ちて内側まで響いてはいないだろう。無難、安牌、高校ではそうやって他人の邪魔にならない範囲でおさまるように抑えることで安全な日々を過ごしていた。しかし最後には達成感が得られるような高校生活とは言えなくなっていた。若さに任せて突っ走る、そんな青春からは程遠い日々だった。青春はやり直しがきくものなのだろうか。もし出来ることなら、あの頃やもっと昔に戻って、杏に少しでも響くような言葉が言えるように訓練を重ねたい。もっと杏の視界に入れるような人間になっていたかった。




 俺と杏以外に誰もいないバッティングセンターの中で、テレビから流れるバラエティの笑い声だけが虚しく響いている。




「ねぇ、今度みんなでどっか出かけない?」




 さすがに気まずくなったか、杏から話を振ってきてくれた。




「え、いいけど。突然なんで?」




「だって思い出してみてよ。修学旅行でもせっかく温泉旅館に泊まったのに、その後バット振らされて野球づくしだったじゃない? 大会練習のために一日早く帰らされたりさ。高校生の思い出って言う感じのイベント楽しめなかったじゃん? だから、やろうよ修学旅行! 今回は素振りとかそういうの無しで、普通の高校生っぽいことしようよ!」




 確かに散々だった。当時の3年生は7月の地区大会予選が迫る中、5月の修学旅行にグローブとボール、バットを持っていって、全日程が終了した後、宿舎の前で一緒に素振りをしたり、早朝から駐車場で朝練をしたりと野球から離れることができなかった。もちろん野球部の活動は充実したものだし楽しかったが、だとしても修学旅行でまでそんなことをさせられるとは思っても見なかった。クラスメイト達が窓から顔を出して駐車場で素振りしている俺らをニヤニヤ見たり、そいつらに見送られる形で最終日の前の晩にみんなで帰りのバスに乗り込んだりと、なんとなく恥ずかしい思いもした。心の底から修学旅行を楽しんだとは、お世辞にも言えない。そんな、ある意味失った青春を、取り戻せる機会がある。願ってもないチャンスだった。




「そういうことか! 良いね」




「でしょでしょ! しおりとか作っちゃってさ、あ、マネージャーらしくいろんな手配はやってあげるからさ、そこは安心して!」




 いつも以上に張り切っている杏。それを見て、なんとなく安心した。杏らしさみたいなものが帰ってきたような気がした。




 フラワーズの活動で高校野球もやり直し、杏の提案で修学旅行もやり直し、しかし高校時代の恋愛だけはどうもやり直しがきかないようで。そこだけが心残りではあるが、でもこうして高校時代にできなかった青春っぽいことを取り戻せている今に、俺は十分充実感を感じていた。




 バッティングセンターを出てから、そこで解散した。杏は早速家に帰って連絡としおりの制作をするらしい。本当は家についていって手伝ったりして出来るだけ離れたくはなかったのだが、さすがにそれはやめておいた。雨雲は依然として雨を降らさない。はっきりしない嫌な天気。早めに帰ろう。家の近くの牛丼屋で少し早めの夕食をとって、すぐに自分の部屋に戻った。


 着いた頃には、少し熱がぶり返していた。

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