第十四話:バッテラー

 間が良い人と悪い人の差ってなんだろう。きっと間の良い人は積極的で知識も豊富でスーパーマンみたいな人のことだろう。相手投手が持っている球種や配球パターンを知っていたり、打つことに絶対的な自信がある選手だけが活躍し続けられるのだ。そう考えると、消極的でなんでも手探りで、しかも嫌われることを恐れてしまっている俺は真反対の人間だ。




 間というものは詰めていくものである。間詰めなんていう言葉もあるくらいだ。野球でも、間はしっかりとってから一気に近づかないと、ボールが飛んでいかない。その間をどう取るのかが大事なのである。そしてきっと恋愛においても、どう間を詰めていくのか、それが肝心なのであろう。隣同士から、向き合うように座り直すと、さっきまでよりも距離感がわからなくなる。大きなテーブルが頭の中の計算を邪魔するように間に立っている。そしてまた、間を詰めなければならない勝負の時が来るのである。しかしタイミングが悪く、指の隙間から逃してしまった。




「本当に下手なんだねぇ。初めて見たよ、回転寿司の皿を直前でスカしちゃって取れない人」




 そう、間を詰めるのが下手過ぎて、回転寿司の皿を取るのが下手なのである。




 あれからお腹も空いてきたので少し遅い昼食に来ている。杏が教えてくれたのだが、ここの回転寿司は昼過ぎから夕方までが安くなるらしい。午後二時を過ぎて入店した俺らの後ろには長蛇の列が続いている。最高のタイミングで入店したようだ。




「これもシンクロしないと。お皿が来るスピードに手を伸ばすスピードを合わせると……ほら、取れたよバッテラ」




 はいはいどうも、と受け取ると、杏はまるで自分の子供にいばるようにエッヘンと腕組みして上から俺を見下げてきた。




「しかし回転寿司のひとつめにバッテラ取ろうとするなんて、珍しいね」




「まぁ、好きだからね。他の人に取られちゃったら悔しいじゃん」




 杏は俺にとってはこのバッテラみたいなもので、今逃せば他の誰かに取られてしまう可能性が高いのだ。恋は早いもの勝ちなのだと誰かが言っていたのを思い出す。




「バッテラってそんなに取り合うほどのものじゃないと思うけど? 焦りすぎだよ」




 バッテラでもなんでも、正直店員さんに頼めば出してくれるだろうが、恋愛はそうはいかないのである。杏は取り合うほどの美人なんだ。その杏を取り合う戦争が、近い将来いつか起こるはずなのだ。だからこうしてその時のために、好きなものを好きなときに取れるようにしておくことが肝心なのだ。お寿司だって勝負なのだ。そういう風に自分に言い聞かせている。




「勝負の世界にいた事、そして今いる事、忘れたの? 勝負勘っていうのはいつ何時でも鍛えられるもんなの。もう、マネージャーの私がこんなで選手の長澤がそれでどうすんの」




「へぇ、すんまへん」




 バッテラをつまみながらお説教をテキトーに聞き流す。ていうかこのバッテラ俺に食べさせるためにとったのか。えらく下に見られたもんだ。こんな状況で杏にアピールしても相手してくれそうにない。まずはこの立ち位置をどうにかしないと。唯一、格好良いところを見せられる場所といえば。あそこしかない。






 回転寿司で腹ごしらえした俺と杏は、そのままその足でバッティングセンターに向かった。この前みたいに二人きりの時間を過ごせる。格好をつけるための格好の場である。




 軽く体を動かして、ネットの先の軽いドアを開く。視界がひらけ、ホームランボードが日陰になっているのが見える。素振りを数回したあときちんと後ろに杏が見ているかどうか確認し、目があったのを確認してからゲーム開始。マシンが動き出す重低音のモーター音を感じながら、画面の中の投手を睨みつける。シンクロ打法。投手の動きに合わせてこちらも動作を始める。さあここで投手が投げてくるタイミングだ。そう思った途端、画面の中の投手が最後まで腕を振り切ったところでやっと100キロの白球が投げ込まれてきた。完全にタイミングがずれて空振り。第一球目はなんとも格好悪い崩された形の空振りとなった。




「こらぁ! 全然あってないじゃないか!」




 後ろで野党のように野次を飛ばしてくる杏。いや、これはどう考えても店側の調整ミスだろう。しかし言い訳している時間はない。白球がリズムよく飛んでくる。それをがむしゃらに打ち返していくしかなかった。




 その打席が終わり一息つこうとネットをくぐったら、目の前に杏が腰に手をやり仁王立ちしていた。ため息を付いて一言。




「いやぁ、まだまだですねぇ。よし、長澤のためにシンクロ打法の手伝いをしてやろう。いつか役に立つかもしれないからね」




 はいおねがいします、とシュンとなるしかなかった。この頃の杏は妙にコーチのように振る舞ってくる。マネージャーではなかったのかとも思いつつ、杏が俺のためにいろいろ考えてくれているんだと思ったら、それはそれでなんだか二人の共同作業のような気がしてきて、不思議と悪い気はしなかった。




 それはそうと、いつか役に立つかもしれないという言い方には少々引っかかるものがある。根本的に期待されていないような気がしたのだ。杏にとっての俺は打者としてはそんなに期待できないような人物なのだろうか。素人同然の、ボールにあたったら拍手されるような選手だと思われているのだろうか。だとしたら少々まずい。このままだと唯一アピールできる野球でさえアピールポイントとして使えなくなってしまう。




 なんとかして格好をつけなければならない。俺はそんな不純な想いで目の前の白球と向き合った。意識のほとんどは後ろにいる杏に向いている。杏からの野次も自分に向けられている声なのだと好意的に受け止め、内容の一切は聞き流すことでモチベーションにうまく変えていった。




 そのせいなのかどうかは分からないが、徐々に後ろ足に重心を溜められるようになってきて、しっかり骨盤で噛めている状態を作れるようになってきたかもしれない。これは思わぬ収穫だった。後ろにいる杏を意識しているからこそできる後ろ重心。まさに杏との共同作業。なんだか杏に導かれているような、リードしてもらってしまっているような気もするが、これはこれで悪くない。徐々にモーター音に金属製の快音が混じってきた。






 杏の指導方法はもっぱら野次だった。足を取るタイミング、手を出すタイミング、体の角度までとにかく野次る。国会議員でもここまで根気強く言ってこないだろうと思うほどだ。しかしさすがに野球部のマネージャー、しかも本気で野球、高校時代の俺、そしてフラワーズの俺と向き合ってきた杏だからこそ出来る的確な助言ばかり。なぜか杏の言うことを聞くとうまくいく。こんなに簡単なことならば、もっと試合中に色々野次ってくれればよかったのに。しかしそれは難しかっただろう。当時は彼氏の大川兄がいた。他の部員に熱心になっていたらとんでもないことになっていたのかもしれない。しかしまぁ、大川兄もこのパワーを貰っていたのかと思うとうらやましくなってくる。




 最後のゲームを消化して、ヘロヘロになりながら打席から離れると、杏はまた仁王立ちになって俺を待っていた。後ろで手を組んで前かがみになって、なんともあざといポーズをしている。




「ちょっと目をつむって」


「なんで」


「いいから早く!」




 はいはい、と目をつむる。他の客がいない二人きりのバッティングセンターで、目をつむり、しかもあざといポーズをしている。こんな状況、なかなかない。もしかして、もしかするかもしれない。しっかり汗をかいてしまっているのでそれを袖で強引にしっかり拭き取り、何が起きるのかドキドキして待つ。バッティングセンターに設置されている小さなテレビから流れてくるよく知らない番組の音と、遠くに聞こえている自動車の走る音以外は何も聞こえない。鼻を伝う汗のしょっぱい匂い。乾いた唇に思い浮かぶのはただ一つ、杏の唇だけだ。そんな映画みたいなこと、起こるわけ無いか。いや、もしかするともしかするかもしれない。限りなく低い確率の最高の結果を期待して、じっと待った。




 待った。


 待った。


 あれ?


 まだ?


 恐る恐る目を開けたその瞬間。


 急激に首筋を冷やされた。




 そう来たか。変な声を出してしまってのたうち回る俺を、杏は腹を抱えて笑っている。俺もつられて笑えてきた。こんな古典的なことする奴がまだいたのか、という可笑しさ。くだらないけど、青春っぽくて嫌いではない。




「ああおかしい。座って一緒に飲もうよ。休憩休憩」




 杏はまだ笑いが収まらないようで、何度も思い出し笑いをしている。あの瞬間、俺の顔がそんなに変だったか、そんなに変な声を出したか、それとも動きが変だったのか、いずれにしても恥ずかしいことに変わりはない。でもなんだか充実した。高校時代にはこんな事なかったなって、また高校生みたいにくだらないことで笑えるんだって、それがなんとも嬉しかった。




 高校時代にできなかったこと、高校時代にやろうとしなかったこと、それを今、やっとすることができる。できるようになった。それはまるでタイムカプセルを開いたようなもので、開いたが最後、もう一度埋め直すことはできないパンドラの箱。あの頃と同じようにはさせない。青春を全力で取り戻す。これはきっと、神様がくれた最初で最後の大チャンス。タイムマシンで高校時代に戻ったような気分で、杏に向かって一直線、突っ走るしか無いと思った。




「あのさ」


「あのね」




 不意に二人の声が重なる。どうぞどうぞと譲り合うが、埒が明かないのでレディファーストとして杏に先に話してもらうことにした。目線を少し俺の目とはずらしながらも、こちらを見ながら言い直そうとする杏。改めて正面を向き合うと、なんだか変な感じがする。さっきまでの野次を飛ばしていた杏はどこかへ行ってしまい、真剣モードの杏がそこにはいた。




「あ、あのね、ちょっと聞いてもらいたいことがあるんだけど」


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