第十一話:ギラギラひかる
やってしまった。股間の辺の感覚がまだ麻痺している。先にシャワーに行った純奈が蛇口を捻って一気にお湯が噴き出してきたときに、やっと我に返った。罪悪感しか無い。好きになりかけていたとはいえ、まだ正式にお付き合いもしていないし結婚も考えていない。そんな相手と一夜をともにしてしまったのである。窓の外はすぐ繁華街が広がっておりまだ明かりも灯っているが、時計を見ればもう夜の十時半を過ぎている。今から急いで駅に行ったって終電には間に合いそうもない。今夜はこのまま泊まっていかなくてはならない。それまでの間、どう過ごせば良いのか俺には分からなかった。
シャワーから帰ってきた純奈は素っ裸のままバスタオルで頭を片手でゴシゴシ拭きながら、もう片方の手でスマホをいじっている。
「あ、もうこんな時間なんだ」
「うん……もう終電には間に合わないね」
俺は自転車で来ているから帰れないこともないが、問題は純奈の方だ。ここで帰るから送ってなんて言われても、自家用車はないし、二人乗りだって今は法律で禁止されているしそもそもしたことがないから困るし、タクシー料金なんて出せるほど余裕はない。貧乏学生にとってはここの延長だって簡単な決断では無いが、タクシー料金よりはマシだということくらいは知っている。
「じゃあ、泊まっていこうっと。フロントに連絡しとくね」
やっぱりこういうことに慣れているのか、手際が良い。純奈は部屋に備え付けの電話からフロントに電話をかけ、あっさりと時間を延長した。
俺がシャワーから上がると、純奈はしわくちゃになったシーツの上で、まだ素っ裸のままスマホをいじっていた。俺に気付くとまた掛け布団を肩までかぶって、俺に手招きしてきた。俺はそのままそれにしたがい、まるでヤる前にタイムスリップしてきたかのように、二人で並んで天井を見ながら、純奈が話しはじめた。
「どう? スッキリした?」
「うん……まぁ」
こういう場合どう答えるのが正解なのだろう。
「気持ちよかった?」
「うん」
「反応薄いね」
「いや、えっと……どう答えれば良いのかなって考えちゃってさ」
「考えすぎだよ」
知ってる。よく言われる。なんでもかんでも考え込んで、結局答えも出ないのに悩み続ける。過去にこだわらない、あっさりとした純奈のほうが、性格的にはずっと男らしい。もちろん良い意味で。
「ちょっと……聞いてくれる?」
「ん?」
「昔話」
「どんな?」
数秒の間が空いて、純奈がゆっくりと話し始めた。
「実はあたしね、ちょっとだけ野球部にいたことあるんだよ」
「えっ?」
予想外の発言にふさわしい回答が見つからない。同級生唯一の女子部員は杏であって純奈ではない。蘭も、今は女子だがあのときは男子部員だった。純奈は同じ高校だったのにその存在も忘れてしまっていたくらいだ、野球部にいたなんてありえない。純奈がなぜそんな事を言うのか理解できなかった。
「一年生の時、ちょっとだけだけどね。友達と一緒に野球部のマネージャーになろうと思って入部届出して、何日かだけマネージャーしてたんだよ」
「もしかしてその友達って……」
「石川杏。なんか野球部のマドンナ的存在だったんでしょ? 最初は仲良かったんだけど、どんどん野球部の活動が忙しくなっていって、そっちばっかりになっちゃってさ」
やはり杏が一緒に入部した友達が純奈だったのか。だとしたら大川兄と純奈はもともとそういう関係で、そこで杏が大川兄を奪ったからやめたのだろうか。純奈が退部したタイミングと、大川兄と杏が付き合ったタイミングがほぼ同時だからこそ、疑ってしまう。しかし、こんなこと聞いてしまっても良いのだろうかと迷ってしまう。
「で、そのときに好きな人がいてさ。一目惚れだった。なんかかっこいいなーって思ってさ」
「へぇ」
大川兄のことだろうか。だから付き合ったのか。
「告白したら振られちゃったんだよね。まさか振られるなんて思ってないからテンションガタ落ちでさ。なんか気まずくなっちゃって、野球部にいづらくなっちゃってさ。そのまま退部しちゃったの」
「そうだったんだ……」
あれ? 振られた? ということは大川兄と付き合っていたわけではないっていうこと? ということは杏は全く関係なかったってこと? 予想が大きく外れ、一旦頭の中が真っ白になる。それと同時に杏を疑っていたことに罪悪感を感じた。
やっぱり杏はそんな奴じゃなかったんだ。俺が考えすぎていただけなんだ。安心というか、ホッとした。
しかし昔の失恋を俺に向かって語るということは、その一目惚れしたという相手はまさか、俺? そう考えるといても立ってもいられず、純奈にはっきりとした答えを求めた。もしかしたらそういう縁なのかもしれないから。
「その相手っていうのは……」
「又田必人くん。ずっと片思いだったんだ。顔もいいけど、一生懸命で、打ったときの感じとか、すごくかっこよかった。でも、恋愛対象じゃないからって言われちゃって。眼中にないですよみたいな感じでさ。今となっては懐かしい思い出だけど、そのときは本当にショックだったんだ。今、何してるんだろうね」
切なそうに語る純奈に、何も返すことが出来なかった。それは自分が運命の相手ではなかったからではない。純奈の片思いだった相手が蘭だったということに驚きを隠せなかったと同時に、どこまで話せば良いのか分からなかったからだ。
確かに又田だった時代から顔は良い方だったと思う。整形して化粧をして蘭になっても、全くの別人になったというよりは、バージョンアップしたというような印象のほうが強い。打ったときの感じなんか、高校時代そのまんまだ。でも今は性別が変わっているし、恋愛対象は変わっていないのだ。
純奈が知っているのは格好良い高校球児としての又田の側面と、ほぼ別人になった蘭の側面。その間で何があったのかを知らない。まさかこの二人が同一人物だとは思ってもいないだろう。
この場で蘭のことをいうのはとりあえずやめておいた。蘭は性別が男から女に変わって、恋愛対象は男だったから純奈を愛することは生理的に無理だった、なんて口が裂けても言えるはずがない。これはきっと俺から教えるべきことではない。
だとすると、蘭は純奈と、バイト先で再会しているということになる。きっと自分が又田だとは言い出せなかったのだろう。自分が生理的に受け付けないからと断った相手が、新しく生まれ変わった自分の目の前に現れて、何も知らずに接してきていたのである。一体蘭はその時、どんな気持ちだったのだろう。それを考えるだけでも気持ちが複雑に絡み合う。そして、蘭も純奈も、どちらの情報も分かってしまった以上、純奈を抱いたことに少し罪悪感を覚えた。別に誰が悪いということではない。仕方のないことなのだ。
脳内でシナプスが繋がっていくと同時に、大きな黒い塊がそれを端へ端へと追いやっていくような気分だった。
「あいつも今はどこかで元気にしてるんじゃないかな」
「連絡先とかわからないの? 連絡網とかさ」
「どっか行っちゃったんだよね、連絡網。携帯の番号も変えたっぽいしさ。まぁでもアイツのことだから大丈夫だろうよ」
「だねぇ」
結局言い出さなかった。又田のことは諦めて、目の前にいる俺に集中してほしかったというのが本音ではあるが、蘭のことを思うとこうしてはぐらかしてグレーゾーンに流し込むのが一番だと思った。
「ごめんね、こんな話、急にしちゃってさ」
「いいよいいよ、全然気にしてないし。話したいだけ話してよ」
「そう? じゃあ……」
純奈は嬉しそうだがどこか儚げに色々な思い出話を教えてくれた。俺らの最後の夏の大会もスタンドで応援していたこと、又田と一緒の大学を受けたかったけど結局どこの大学も受からずに派遣社員していたこと、ほとんど又田のことばかりだった。その中に俺が入る隙はなさそうだった。
じゃあなんで今こうして一緒に寝ているのだろう。ただ寂しいだけなのか、それともまた他に理由でもあるのだろうか。考えすぎてしまう俺は、どうしても純奈からの誘惑はなにか深い理由があるのかもしれない、絶対に理由があるはずだと深入りしてしまう。
しかしここに来るときや来てからの慣れた手付きをみていると、本当はもっと単純に又田の代わりになる人間を探していただけなのかもしれない。さっき抱き合ったのだって、本当は俺のことを見ていなくて、又田とのソレを想像しながら俺を使っていたのかもしれない。
そう考えると、俺はなんて都合の良い便利なおもちゃなんだと自分で呆れた。性欲に負けてここまで来て、結局は又田の代打か。縁だの運命だの、そう思っていた自分が急に恥ずかしくなってきた。俺にとっての純奈は俺を好きになってくれる可能性のある唯一の女性で、これから大切にしていきたい人だと思っていたのに、純奈にとっての俺は又田の代わりとして欲求を満たしてくれる人形だったのかもしれない。もうどこにもいない男としての又田に勝てない俺。高い壁なら乗り越えられる。でも、その壁が天井まで伸びていたら、もう乗り越えられない。せっかく純奈を好きになりかけていたのに、この時間も無駄だったのである。
しかしこれで逆にスッキリした。もう思い切り性欲にかまけていられる。恋愛の駆け引きももう必要ない。一度寝てしまえば、次にこうなるためのハードルもぐっと下がる。純奈にとって俺が都合の良い男なら、俺にとっての純奈も都合の良い女である。俺は何も考えず、目の前にいる素っ裸の女に覆いかぶさった。さっきは勢いに押されて主導権を握られていたが、二回戦は俺が主導権を握ってやる。又田の事を忘れなくてもいいから、今からのこれだけは俺だけを見てほしい。ただそれだけの思いだった。
「可愛そうだな、純奈。俺がいるからな」
こう言ってほしいのだろう、と純奈にせまる。まんざらでもない様子で純奈もそれに応えてキスしてきた。また二人で掛け布団と敷布団に挟まれながら抱き合った。罪悪感や複雑な感情は結局、性欲には勝てなかった。
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