第十二話:一瞬の風邪になる

 また朝帰りだが、今回の朝帰りはあのむさ苦しい朝帰りとは全く違い、頭痛があるのは変わらないが比較的スッキリしている。いや、スッキリというか、ハッキリというか、脳は疲れているはずなのに目だけがバキバキで意識をはっきりさせられているような、そんな感じがする。




 結局一睡もせずに何度も抱き合ったせいで、疲れは抜けていないどころかアルバイト終わりの数倍もの疲れがホテルを出てからどっとのしかかってきていた。達成感は皆無だが、なにかとんでもないことをしてしまったのではないかと一人で勝手にドキドキしている。そしてなんとなく二人の間に流れる気まずい雰囲気。酔いもしっかり冷めてしまい、若さと勢いが通用しなくなっている。そのまま駅まで二人で歩き、電車で家まで戻ることにした。




 純奈とは駅の構内で分かれてそれっきり。帰りの電車の中でも、別に連絡を取ることはなかった。音楽を聴く気にも動画サイトで動画を見る気にもなれなかった俺は、外の景色を見るわけでもなく空っぽになって、朝日が差し込む長い座席にじっと座っていた。とにかく体が重たい。このまま座席の中に沈んでいくのだろうか。多少の仮眠は取れたが、熟睡することも出来ないまま通勤ラッシュの黒い塊の中を分け入って改札を出た。




 あんな感じでよかったのだろうか、昨晩は。純奈とは急接近して一夜も共にしてしまって、なんだか達成感もなく充実感もない。中学生か高校生みたいに、もっとゆっくり知り合って、何回かデートして、告白して、付き合って、それから、という過程を踏んだほうが良かったのだろうか。ゆっくり又田を忘れさせてからこういう関係になった方が良かっただろうか。いろいろ考えてしまう。このスピード、この肉体を求める感じ、これが大人の恋愛なのだとしたら、俺にはまだ早いのかもしれない。中高生のような恋愛もうまく行っていないのに、大人の恋愛をしてしまったような気がして、なんだか複雑な気持ちになる。




 しかも、この件で純奈にとっての俺は、もしかしたらただの身体の欲求だけを満たすような扱いになってしまったかもしれない。それは心が伴っていない、空っぽの感情。もしも段階を踏んでいれば、そんな扱いではなくて、きっともっとはたから見ても綺麗な、純粋な、祝福されそうな恋愛関係になれた可能性だってある。その機会を潰してしまったのかもしれない。白かった俺に、青や紫や黒が混ざってしまったような感覚。一度混ざってぐちゃぐちゃになってしまえば、もう元の白には戻れない。




 時間を戻せたとしても、純奈と一夜を共にする前の気持ちにはもう戻れない。それはきっと純奈も同じだろう。前を向くしか無いが、純奈はどうしたいのか、どう俺ら二人を発展させたいのか、それとも発展なんてなくてただ欲求を満たすだけの間なのか、俺には見当がつかなかった。




 改札を抜けて歩き出したところでハッとした。自転車をあのホテルに忘れてきていた。まったく頭が働いていない証である。あとあと取りに行くともう盗られているかもしれないから、もう一度通勤時間真っ只中の電車に乗って自転車を取りに行くことにした。往復で一時間もかからないが、やけに時間が流れるのが遅く感じた。




 ダルい、早く家に帰りたい、帰って寝たい。そういえば今日は試合がある日だった。こんなコンディションで試合に行っても良い結果は出ないだろう。しかし俺がいないと欠員で試合ができない。これは行くしか無いが、どうしよう。とりあえず家に帰ってから数時間仮眠し、その後ギリギリまで寝てから最終決断をしよう。






 ようやく家の玄関につく頃にはフラフラになっていた。それにしても頭が痛い。それに体もダルいし、なんだか熱っぽい。体温計が家にないので確かめようがないが、もしかしたら風邪でもひいてしまったかもしれない。慣れないことをしたせいか体調を崩してしまったようだ。




 このままでは今日の練習試合には参加できそうもない。試合の前日になれないことをするんじゃなかったと軽く後悔した。




 やけに遠くに感じるスマホを震える手で手繰り寄せ、蘭に体調不良でいけないことを伝え、そのまま仰向けで動けなくなった。こんなときに誰かいてくれたら良いのに。そう思って最初に思い浮かんだのは純奈ではなく杏だった。あのおせっかいな杏なら、お母さんみたいにブツブツ文句を言いながらかもしれないが、きっと俺の介抱も喜んで引き受けてくれるだろう。仰向けで動けないまま、意識だけが遠のいていった。




 気づいたらもう十二時になっていた。深く眠れたおかげか夢も見なかったし、なにより体調が嘘みたいに回復している。飛び跳ねても大丈夫なくらい体が軽い。今からでも試合に行こうかと一瞬思ったが、試合があるのは午前中。もうすぐ終わる頃だろう。それ以前に俺が体調不良になっていたせいで、きっと中止になっているだろう。試合に出られるメンバーが九人ちょうどである我がフラワーズにとって、欠席は直接試合中止を意味する。しかしグラウンドの使用料はもう支払っているはずなので、きっと数人はグラウンドに残って練習という名の軽い運動をしているかもしれない。




 そう思い、俺は異常なほど軽くなった身体をシャワーで一旦綺麗にし、先週からベランダに干しっぱなしのユニフォームを物干し竿からおろしてすぐさま着替え、家の中にあったお菓子をテキトーにつまんでから、自転車に乗って第一縹川グラウンドへ向かってみた。




 まだ休むことをしない太陽が空気を温め、ぬるい風が一瞬で自転車の横を過ぎていく。縹川沿いの土手道の草は相変わらず元気に上へ上へと伸びており、風が通り抜ける度にザワザワと揺れている。ひび割れたアスファルトのせいで時々跳ね上がりつつグラウンドを目指すと、目の前に鶫橋とハナコウが見えてくる。昼休みなのか、ユニフォーム姿の小柄な少年達がグラウンド整備をしながら汗を拭っているのが見える。あんな時代もあったよな、と思いつつ対岸の第一縹川グラウンドに到着した。




 しかしそこには誰もいなかった。それはそうだ、試合は中止だし、遊びでやっている草野球なのだから真剣に自主的に練習しようというやつがいるほうが珍しい。しかしどこか寂しい気もした。対岸で頑張っている後輩たちと自分を重ね合わせてみると、なんだか情けなく思えてきた。




 しばらく岸辺のアスファルトに座って、対岸の後輩たちの様子を見ていた。ネットを動かして次の練習の準備をする下級生に、マイペースに調整する上級生。買い出しから戻ってくるマネージャーに、椅子に座ってメモをしている監督さん。高校時代の思い出が蘇ってくる。入ったばかりの頃はこき使われて、上級生になれば後輩をこき使い、監督さんに怒鳴られながら、そこそこ頑張っていたあの日々。もう当時の監督さんは転勤されたのか姿が見えないが、今の監督さんは優しそうな人でうらやましい。




 そしてなんといっても対岸のグラウンドにはマネージャーが四人もいる。俺らがいる間は二年半の間に杏しかいなかった。大川兄が早々に彼女にしてしまって、それ以来女子高生とまともにそんな関係になれたことはない。今は四人もいるなら、“彼女を作る”ことが第一目標になる高校生にとっては、チャンスが四倍もあることになる。実にうらやましい。あの頃も四人くらいマネージャーがいたら、その中の誰かと付き合えていただろうか。もしそうだったとしたら、杏には何の感情も湧いていなかったのだろうか。考えるだけ無駄なのは分かっているが、ふとそんな事を考えた。あのときの俺にとって杏っていうのは“彼女がほしいから好きだった”のか、それとも“杏と付き合いたいから好きだった”のか。どっちだっただろう。




 今だってそうだ。彼女がほしいから杏が気になったり、蘭が気になったり、純奈とあんなに焦って寝たりしてしまったりしているのは、結局彼女がほしいからなのか、その時その時で好きな人がコロコロ変わってしまうからなのか、どちらなのだろう。




 そもそも好きってどういうことなのだろう。俺は今の杏を観ているのか、昔の杏の姿を思い浮かべているだけなのか。蘭に対してただの好奇の目線をしているだけなのか、本当に心から女性として好意を持てるのか。純奈に対する純粋な恋愛はあるのか、それとも体だけ、性欲だけを求めてしまっているのか。好きってなんだ、恋ってなんだ、愛ってなんだ、恋愛って一体なんなんだ。




 考えても答えが出ないのは分かっている。でも考えてしまう、考えすぎてしまう。それはやっぱり自分が答えを求めているからで、自分が答えを急ぎすぎているせいなのかもしれない。まだまだ子供で、大人になりきれていない未熟者。一丁前に経験だけはしているけど、空っぽの成人男性。なんでこんな風になったかな。対岸の高校生に高校時代の自分を重ねる。あの頃から、何が変わったというのか。少なくとも良い方向に変わったという自覚はほとんど探し出せなかった。




 しばらく考え事をしながら昼過ぎの土手の空気を吸っていたら、心理的にはモヤモヤしつつも、頭のてっぺんが物理的にスッキリとしてきた。そのおかげかどうかは知らないが、そういえばこの第一縹川グラウンド以外にも、バッティングセンターという練習場所があったことを思い出した。もしかしたらみんながいるかもしれない。なんで思いつかなかったのだろう。俺はすくっと立ち上がり、そのまま自転車を反対側に向けて、バッティングセンターに向かおうとした矢先、グラウンドへ降りる階段と真っ青な空の境界線に、誰かが立っているのが見えた。




 肩まで伸びている髪、黄色いパーカー、大きな手提げかばん。高校時代のきっちりしたポニーテールや、アイロンがけされているジャージ姿、エナメルのマネージャーバッグと重なって見えた。形は変わったが、本質的には何も変わっていない。あの頃と変わらない面影の。




「長澤!?」




 石川杏だった。

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