第四話:ぼくらは昼にしか会わなかった

 平日の午前中最後の電車は空いていて容易に座ることが出来た。横並びのフカフカの長椅子に座って、何を捉えるでもなくぼうっと外の流れる景色を眺める。次々に流れてくる赤や白や黒のマンション。そしてたるんだ電線が永遠に続くすべり台のように上がって降りてを繰り返している。




 あんなに久しぶりに体を動かした後に酒まで飲んで今日出勤しないといけない奴らがさっきのメンバーのほとんどだなんて想像もつかない。蘭のようなユーチューバーの生活はどうなのか想像はつかないが、少なくとも俺みたいに学生でいられる幸せっていうのはこういうところなんだろうと素直に思った。社会人だからこその優位点もあれば、学生だからこその優位点もある。とはいえやっぱり杏みたいなしっかり社会人してる女性は俺みたいなのを好きになるわけないよな。そう思うとため息が出た。




 それにしても懐かしいメンバーだった。よく懐かしい面々と会うと、その場で過去に戻った気分になれるというのは本当なのかもしれない。あの野球と真正面から向き合いながらもたまに時間を浪費したり、それを後悔しつつもでも結局は良い思い出となった、あの日々。こうして電車から外の景色を眺めていると通学していた頃を思い出す。




 一番セカンド又田。飛距離は全然ないけど、とにかくボールに当てるのがうまいから空振りしない。そういえば当時から大川の筋肉がすごいだの他の部員との距離も近くて誰かにトコトコついていくようなやつだった。あの時からずっと隠してきたのかと思うと、やはり演技派だなぁと思う。昨日の練習でも実力は健在。見た目は全然違って蘭になったとしても、野球をすれば又田の面影が濃く残っている。




 二番は韋駄天の橋田。とにかく足が速い。先輩や監督からの逃げ足も速かった。三番は大川弟。一個下なのに生意気でいつも兄貴の後ろについてちょこちょこしてたっけ。なのに野球になると性格が変わって追い込まれると絶対に打てない。兄貴の存在が大きすぎて、俺らが引退するまでほとんど投手としてプレートを踏む機会はなかったような気がする。技術はあるのに惜しいやつだな。杏にとって大川弟は、本当は邪魔な存在だったんじゃないのかなとも思った。もしも大川弟が兄貴と一緒にチョロチョロしていなければ、もっと話す機会が多くなっただろう。そんな細かいことはどうでも良いくらい他の時間はずっと一緒にいたことは間違いないのだが。




 四番はもちろんピッチャーの大川兄。エースで4番。チームの大黒柱。そして杏の元彼。イイトコドリしすぎだ。そういえば高校時代、打撃練習で対戦しても結局一度も安打を打てなかった。球速は百三十キロを何度も記録し、パンパンに張っているぶっとい脚から重たいボールを投げてくる。筋肉の塊のようなやつで、そういう意味ではたしかに女子から人気はあったような気がする。




 その次が五番の俺。五番ファースト長澤が定位置だった。流し打ちなんて芸当はできないから、いつも思い切り引っ張って強い打球を打とうとしていた。とにかく野球は上手ではなかった。でも練習はきっちりやっていたつもりだ。自分から何かをしようとはあまり思わないが、人から何か指示されれば全力でこなす。いわばロボット。だから今だって、自分からは何をすればいいのかわからないが、他の人から手伝ってほしいと言われれば率先して手伝いに行く。この草野球チームだってはじめはそんな気持ちで入ったのだった。チームの中心人物になりたいわけじゃない。むしろそういうのは大川兄や蘭がよくお似合いだ。俺は高校時代から、大川兄が大きな当たりを打って盛り上がってる間に凡退して帰ってきて気づかれないことが多々あった。大川兄が光だとすれば、俺は完全に影の存在。ファーストというポジションも、大事ではあるがピッチャーやショートのように華があるわけでもない。そんなに足が早くなくて守備範囲も狭いからファーストをやらされていただけ。そんな俺が中心人物になれるはずがなかった。




 そしてマネージャーの杏。杏は数人いるマネージャーの中のひとりで、入部当初は話してみたいただの憧れの人だった。二年半の高校野球生活でしっかり話ができたのは最後の一年くらいだろう。もちろん自分から話しかけることなど出来ない俺だから、一番最初は杏から話しかけてきたはずだ。練習中は忙しくて話す機会がなかったから、怪我をしたときにマネージャーの手伝いをするときくらいしか話せなかった。男子部員の中にも同じ石川がいたから、杏のことは自然とみんなが杏と呼ぶようになった。聞いた話によると、杏は一年生の頃、友人とともに軽い気持ちでマネージャーになったそうだ。その友人は早くにやめてしまい、少し孤独な時間を過ごした時期があって、そのときに優しくしてくれて、それから付き合っていたのが大川兄だったらしい。投手として体力をつけるために外周を走ることが多かった当時の大川兄とは私語をするチャンスはいくらでもあったと思うので、あの二人はその時からだろう。部内でも抜け駆けだの色々と影で言われていたようだが、結局学校で一番お似合いのカップルとして黙認されていたから、俺ら大川兄以外の他の部員は手出しできなかった。告白するタイミングも隙もなかったのだ。




 しかし当時から気になることは一つだけあった。杏と大川兄が付き合ったタイミングと、杏と一緒にマネージャーになった杏の友人が退部したタイミングがほぼ一致していて不自然だなと思っていた。もしかして大川兄とその友人が付き合っていて、杏が奪ったのだろうか。いやしかしそういう子ではないと思うが……。結局真相は明らかになっていない。ただ単に大川兄と杏が仲良く付き合っていたということだけが明らかな思い出として残った。




 午後一番の風が川の水面をギザギザにして、橋の上を通り抜けていく電車の影を揺らしている。両岸の土手を軽く越えると、電車は急カーブして川沿いの道路のひとつ奥の線路をひたすらまっすぐに走った。俺は川を越えて二つ目の駅で降り、アパートまで歩いた。




 筋肉痛と酒酔いで身体の調子は最悪。そのまま布団の上に寝転んでしまっては汗が染み付いているTシャツが布団を汚してしまうので、まずはシャワー。暑さの塊と、こびりついた杏と大川兄のあの記憶を洗い流すように髪をゴシゴシ洗い、ついでに洗顔と歯磨きもして部屋に戻る。どうせこの調子なら読まなければならない論文も課題も手につかないので、今日は自主的に完全オフ。さて、何をしたものか。




 布団に横になりクーラーの電源を入れ、なんとなく動画サイトにアクセスし、面白そうな動画をチェックしていく。これといって面白いものはなく、すぐに飽きて、目をつぶった。




 気がつくともう夕方。昼過ぎから三時間ほど昼寝をしてしまっていたようだ。背中や腕の筋肉痛がさらに重たくなったような気もする。首だけ動かして横に目をやると、スマホに数件の通知が来ていた。ひとつは蘭、もうひとつは杏からだった。美女から一気に二件も連絡が来るなんて、キャバクラか風俗くらいしかチャンスはないと思っていたが、まさかこんな身近で奇跡が起こるなんて。一気に目が覚めた。




『良、大丈夫?』




 蘭からはたったこれだけ。これだけだけど、なんだか嬉しくなった。連絡をくれるというだけで繋がれている感じがする。まるで女子高生みたいなことを考えてしまったがそれはまさに本心で、誰かと繋がっているということに現代人は安心するのだろうなと思った。




『呑兵衛の長澤は今後飲み会では三杯までに限定します。マネージャーより』




 杏からはこんな感じ。やっぱりマネージャーらしいマネージャーだな。蘭と違って苗字で呼んでくる辺り、明確な立場の違いを感じる。壁がある気がする。蘭はもともと一緒にプレーしてきたチームメイトだったが、杏はチームメイトながら選手とマネージャーという立場の違いがあって、仲良しで、しっかりと仲間意識はあるけど、特別な感じがして、壁というか溝というか、目に見えない物理的ではない何かの距離がある。




 蘭には『ご迷惑をおかけいたしまして大変申し訳なく御座候』とかいう訳のわからない文章をふざけて返信して軽い雰囲気にしておいた。杏には『杏様には頭が上がりませぬ』とこちらもふざけて返信しておいた。どちらもふざけた文面だが、意味合いはちょっとだけ違う。これもやはり元男と元好きな人だった人の意識が働いていて、蘭には男同士の軽いノリのような感じで返信し、杏にはちょっと笑いを誘えるような、イメージが悪くならないように配慮してそうな感じで返信した。杏に対してはどうしても嫌われたくないと思ってしまって、高校時代のように慎重になりすぎてしまうようだ。




 そんな杏は、高校時代は話ができる唯一の女子だったからそのせいで距離があるのかなと思っていたけど、実はそうではないのかなと思いはじめている。女になった蘭にはそれを感じないからだ。蘭は元男でしかも俺と一緒に野球をしてきた、一緒に汗水たらしてやってきたという“男の友情”というような何かがあって、たとえ女性になったからと言ってその感覚は抜けていない。たしかに、それはまだ蘭として会ってから一日しか経っていないからなのかもしれない。でも、だからこそ女性だから緊張するというような、そういう感覚はまるでない。杏と違って接しやすさを蘭には感じている。




 ということは、杏は俺自信は接しづらい人物だととらえてしまっているのだろうか。そんなことは無いはずだけど……でも実際、杏と一緒にいると緊張するし目に見えない距離感は確かに存在している。やっぱり女性として意識し過ぎなのだろうか。ただの一人のマネージャーとしてみれば、こんなこと起こらないのだろうか。混ざり混ざった自問自答は終着点を見失い、底なし沼にハマっていくように螺旋階段を下降していくようだった。


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