第三話:君に何度目かの恋をする

 笑い声であふれる店内。オレンジ色の照明に満たされた木目の長机の上には、次々に居酒屋メニューが運ばれてくる。唐揚げ、枝豆、刺し身、もつ鍋、焼き鳥……。ビールや梅酒との連携プレーが素晴らしく、箸が止まらない。それと同時に口の方も止まらなくなっていった。




 話題は尽きなかった。蘭は蘭で今の野球ユーチューバーのフィーバーぶりに乗っかる形で今度雑誌に取材を受けるらしく、高校時代に野球では誰も見向きもしてくれなかったことを思い出すと感慨深いものがあった。橋田や円は理系の大学に進んで同じ会社に偶然務めているらしい。大川弟はまだ大学生だが大川兄はすでに営業マンとしてバリバリ働いているらしい。杏は高校時代からの保母さんになる夢を叶えて、今は子供相手に奔走中だとか。みんな社会人になっている中、俺だけが大学院に進み、バイトをしながら学生をしているということをここで初めて知った。




 みんな次のステージにいるのに、自分はまだ学生としてぬるま湯につかっている。そういうふうには直接言われることはないが、無言の圧力を勝手に感じてしまう自分がいる。今の経歴なんか本当は草野球をする中では関係ないはずなのに。




 話題は高校時代の恋愛事情に移った。なんといっても大川兄と杏の禁断のシークレットラブについては特に盛り上がりを見せた。ハナコウ野球部は野球に専念するために恋愛は禁止だった。しかし思春期の多感な高校生にそんな規則は事実上通用しておらず、エースでキャプテンの大川兄とマネージャーが付き合うという漫画みたいな展開が実際に目の前で黙認されていたのだ。誰もがうらやむ完璧なカップル。俺ら“その他大勢”からしても、悔しいけどお似合いの二人だった。




 しかし今の二人はどこかよそよそしくて、壁がある感じがする。なにか理由はありそうだが、深入りするのは避けておいた。あんなに完璧だった二人に何があったのか、そこに入り込む隙間があるのではないかと俺は考えた。もしかしたら、俺にもチャンスがあるかもしれない。そう思うと杏の存在はもうすでに過去の“昔好きだった人”ではなくなった。今度は俺が、杏と一緒になれるのではないか、そう考えてしまう。急にさっきまで見ていた杏の顔が気になりだした。お酒を飲んで赤くなっている耳。それは百発百中アルコールの影響だとは分かっていながら、俺と会えたから、俺と話せたからだと都合よく解釈したくなるような、そんな気分だった。




 杏と大川兄のよそよそしい感じを変えようとしてか、蘭が話題を変えた。




「カミングアウト第二弾! 実は、あたしぃ……この中に好きな人がいまぁす!」


「ぇえー?」




 タイミングよくハモる一同。確かに微妙な雰囲気を吹き飛ばすほど爆発力がある話題ではあるが、これはこれで微妙な雰囲気になりそうな気がする。




「もしかして高校時代からずっと好きな人的なやつ?」


 俺のこの一声から、他のチームメイトもがどんどん続いてきた。


「橋田だろ! 今思えば、いっつも一緒に行動してたような気がする!」


「大川兄だろ! デカいしゴツいし、筋肉すごいのが人気って言うじゃん!」


「大川弟のちょこまかしてる感じも母性本能をくすぐるんじゃね?」


「いや、ここは変化球で杏じゃね? 心は女で、恋愛対象は男ではなくて女だから……なんかややこしいな」




 繰り広げられる蘭の好きな人予想大会。というより押し付け合いのような気がしなくもない。そしてその中に全然俺が入ってこないのはそれはそれで恥ずかしいものがある。美しい女性になった又田の存在がまだ頭の中に残ってしまっているためここで告白されたとしても女性に思えないと言うか恋愛対象にはなれないとは思うが、実際に目の前にいる美女からそういう対称として見られないというのも小さなプライドがちょっとだけ傷つく。他のみんなはどういう風に蘭のことを見ているのだろうか。もちろん女性だから女性として見るのは当たり前なのだが、やはり素直にそこまでいけないのがなんとももどかしい。




「教えないけどぉ、ヒントいくね! ヒントは……野球してる人ぉ!」




 それ全くヒントになってないじゃん、の大合唱。アルコールが回ってハイになっている蘭の言うことだから本当かどうかはわからない。だが、もし本当だとしたら大事件である。ひとつひとつ思い出をさかのぼって、又田時代の蘭の姿を頭の中で追っていく。だが、そういう対象として見てきていないため、それらしい言動は全く思い出せない。それどころか男らしいキャッチャーだったという印象すらある。もしかしたら違和感との反動でわざと男らしい素振りを見せていたのかもしれないが、真相は全く予想もつかない。




 もしも無理をさせていたとしたら、なんだか悪いことをしていたような気もする。なんであの頃言ってくれなかったんだとも思ったが、誰に相談すればよいのか分からなかったのだろう。もし俺が同じ状況なら誰にも相談できそうにない。


 結局答えは最後まで見つからないまま、蘭に答え合わせを懇願するが、酒の力も蘭の前では通用せず、結局秘密のまま居酒屋トークは次の話題に移った。






 そこから先は全く覚えていない。酒が回って楽しくなって……気づいたら俺は知らない部屋の中で、暑かったから脱いでしまったのだろうか、半裸で横になっていた。汗だくの体に当たるフローリングが冷たくて気持ち良い。テーブルの上においてある誰のか分からない炭酸水をとりあえず一口飲んで、ぼんやりする視界を無理やりこじ開けた。




「おう、起きたか」




 野太い声に振り返ると、そこにはパンツ一丁の大川兄がコップの中に注いだ水を飲みながら立っていた。なぜパンツ一丁なのか。しかも少しスカッとしている表情にも見えないこともない。昨晩何があったのか覚えていないが、もしかして、そういうことなのか?




「え、パンイチ? お前、まさか? 俺の服を剥ぎ取って?」


「ばーか! んなわけあるかいっ!」


「ですよねぇ」


 はあ、とため息をひとつ付いた大川兄。そりゃそうか。ここで肯定されても困る。大川兄はまた一口水を含んで話を続けた。


「昨日は大変だったんだぞ。飲みすぎだお前。男子総出で担いでここまで運んでやったんだ。運送料と宿泊料払えっての。まぁ、ゆっくりしろな。今日仕事が休みのやつがいてよかったな、学生くん」


「大変ご迷惑をおかけいたしました」


 ふざけて土下座してみる。疲れた体に調子に乗ってお酒を入れすぎたみたいだ。泥酔してヘロヘロになった姿を杏に見られたかと思うと、どうかしてしまいそうだった。頭が痛い。とりあえずキッチンのシンクの所まで行って水道水をがぶ飲みし、ついでに顔も洗った。




 大川兄か。エースでキャプテンの大男としっかり者のマネージャー。確かに絵に描いたような完璧な二人。俺とは格が違う気がしている。俺がもしも杏と付き合えたとしたら。あいつらは俺と杏が並んでいるのを見て、お似合いだと思うのだろうか。完璧な二人だとは絶対に思われないだろう。そんな相手と、付き合いたいと思ってくれるものだろうか。そう考えるとだんだん杏が遠のいていくような気がした。周りから認められるということは、やはりなにか特別なものを持っていなきゃいけないのだろう。俺にはそんな物ひとつもない。顔も中途半端でお世辞にもかっこいいとは言えないし、実績もなければ同世代のアイツラと比べて収入もない。そんな奴、好きになってくれるわけがない。大川兄と付き合っていたというだけの事実が重たくのしかかってくる。




 そもそも杏とこのタイミングで再会できたのはただの偶然なのか、運命なのか。もしこれが運命だとしたら、起きたときに声をかけてくれるのはやはり杏であるべきじゃないのか。そう考えると、このタイミングで再会したことはただの偶然だったのだろう。どんどんネガティブの沼にハマりつつある自分自身を鼓舞するため、やはりこういうときは野球を一途にもう一度頑張ろうと決意した。杏は過去の好きな人なんだ、今じゃないんだ、そう言い聞かせることに決めた。決めたが、やはり美化された思い出は美しく、簡単には消えてくれない。沼底の深いところにある美化された高校時代の杏の姿を想像すると、どうしても自分から潜ってしまいたくなる。思い出が俺自身を飲み込んでいく。




 いつまでも大川兄に世話になることも無いと思ったので、シャワーを借りてさっぱりした後、すぐに帰り支度をした。


「お、もう帰るのか? 一人で大丈夫か?」


「大丈夫大丈夫。ゼミでも飲み会とか結構頻繁にあるから、こういうの慣れてるんだよ。じゃ、また次の練習でな」




 驚いた表情で大川兄が引き止めてきたが、俺はなんとなくそれをかわし、逃げるように外に出た。本当は杏のことを聞きたい気持ちもあったが、なんとなく聞き出せなかった。もしかして触れちゃいけない地雷があるのかもしれない。大川兄からすればそんなこともうどうでも良い過去のことだったかもしれないが、俺からすればその過去は現在につながる大事なキーワードであって、酔いが冷めたばかりのフラフラの院生には持ち帰られないほどのものかもしれないと思ったのだ。




 男の家から朝帰り。思ってもみない展開だが、とりあえず無事に帰路についた。あくびとともに背伸びすると、背筋や肩周りの筋肉がつりそうになった。久々の筋肉痛から高校時代を思い出した。もう若くないと実感しながら、コンビニでおにぎりを数個買って、駅まで歩きながら頬張った。さすがに夏休みが終わる頃になると、朝だけは涼しい風が吹いている。これから日が登る頃には日差しも強くなってまた夏に逆戻りすることだろう。そうなる前に家について、今日はゆっくりする。泥と汗にまみれたユニフォームを洗濯しないといけないし、グローブの手入れもしないと。なにより杏やみんなとの再会、そして蘭になった又田など、色々あった昨日をゆっくり整理したい。おにぎりを全部食べ終わって、駅前のコンビニの前に設置してあるゴミ箱に亡骸を押し込んだ。


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