永遠に眠りたかった者

水神竜美

永遠に眠りたかった者

 死にたくて睡眠薬を大量に飲んだのに、目が覚めた。

 目が覚めたら、母がいつもの笑顔で私を見下ろしていた。

「駄目でしょ?そんな事したら会社が悪いみたいじゃない」

 にこにこといつもの表情を崩さないまま続ける。

「そんな事して会社に迷惑かかったらどうするの?ほら、早く準備して会社行きなさい」

 そう言って私の部屋から出ていった。

 いつも通りだ。

 母はいつもそうだ。

 私がどれだけ会社で苦しんでいるのか、どれだけ辛いのか教えた所で。

「どこの会社にもそんな人はいるんだから、気にしないで頑張りなさい」

 それしか言わない。

 何を言ってもそれしか言わない。

 どこの会社も同じ。なら今の会社で無理な私はどこの会社でも働けないという事なのか?

 まるで人の話など聞き流しているかのように同じ事しか言わない母は、その言葉が私をどれだけ絶望させているか分かっているのか?

 分かって言っているのか?

 何を言っても返事は同じなので、その内何も言うのを止めた。

 やがて感情は磨り減り、笑う事も泣く事も無くなった頃、私は死を決意した。

 だがもし失敗した時の為に、結局明日の仕事の準備はしっかりした上での自殺だ。こんな死に方ってあるだろうか。

 そして結局、その準備は役に立ってしまった。

 時計を気にしながら、いつものスーツに袖を通す。

 何も変わらない。

 死のうとまでしたのに、誰も何も変わらない。

 部屋から出て台所に行くと、いつものように母が準備した朝食が並んでいた。

 医者からはストレス性胃腸炎と診断されて、胃が空っぽの状態でも吐く程食欲は無かったが、食べなければ仕事にならない。

「食べるの辛いって言ってたから、柔らかくしたレバニラ炒めにしたわよ」

 母はそう言ってにこにこしている。

 またか。

 はっきり言ってぎとぎとしたものを食べる気にはなれなかったが、他におかずも無いので無理矢理口に詰め込んだ。

 苦しみながら食べていたせいか、いつもより更に時間がかかってしまった。

「ほら、早く行かないと遅刻するわよ?」

 言いながら母は押し付けるように鞄を渡してきて、私の背中を玄関へと押していく。

 玄関のドアを開ける。

 その向こうはまるで溶岩煮えたぎる火口の入り口のように見えた。

「ほら、早く行きなさい。今日も頑張ってね?」

 いつも通りの言葉を発して、いつものように私を火口に押しだそうとする。

 お母さん、この溶岩が見えないの?

 それとも、見えてるのに無視してるの?

 分かって送り出してるの?

 もはや顔にも声にも出ない疑問が、胸の中だけで虚しくリピートする。

「…………」

 足元に向けていた目を母に向ける。

 母はいつも通りだ。

 いつも通り、私を送り出そうとする。

 心配事など何も無いかのような、いつも通りの笑顔で。

「…………」

 その顔を見ていたくなくて、火口へと足を踏み出した。

「いってらっしゃ」

 そこまで言った所で、母の笑顔が真っ二つに裂けた。

「――――!?」

「あああああああ!?」

 脳天から縦に分かれた母の顔は、一瞬だけ目が見開かれたと思った次の瞬間、墨のように真っ黒に染まった。

「あああががががあああ!」

 悲鳴ともとれないような母の絶叫は、やがて野太い男の声に変わっていき、裂かれた顔はうぞうぞと縦に伸びて、自分より低かった筈の母の身長の倍、いやそれ以上の高さへとみるみる大きくなっていった。

「……お母……さん……?」

 さっきまでいつも通りの母だったものは、体長にして五メートルはありそうな真っ黒な"何者か"に変わっていた。

 頭と胴体、両手と両足のようなものはあるが、その全身は影のような漆黒に包まれ、皮膚を持った生き物なのか、或いは幻影なのかも分からない。

 その形は間もなく、顔のような部分から全身へと裂けた箇所が広がっていき、そのまま全体が真っ二つになった。

「ああああああ……」

 獣じみた絶叫はやがて途絶え、巨大な影は空気が抜けた風船のように潰れ、跡形も無く四散した。

 その跡に、大きな鎌のようなものを持った男が一人立っていた。

「……!?」

 見覚えの無いその男は、中途半端に伸ばした金髪に白いスーツといういかにもチンピラのような出で立ちをしていて、私は思わず警戒して後ずさっていた。

「……あ……?」

 気が付いたら、足元にあった筈の火口は無くなっていた。

 火口だけでなく、さっきまでいた筈の玄関も、家全体までもいつの間にか影も形も無くなっていて、周りは何も無い真っ白な空間になっていた。

「大丈夫ですか?怪我とかさせられませんでした?」

 私が混乱していると、目の前のチンピラが声をかけてきた。

「……え……今のは……お母さんは……?」

「さっきのはお母さんじゃないですよ。貴女が死のうとしたのを見計らって貴女の意識を体から切り離した夢魔です」

「……は……?」

 むま?意識を切り離した?

 チンピラが何を言ってるのかよく分からない。

「あー、夢魔ってのは要するに化物ですよ。眠ってる人間の意識を連れ去ってひたすら悪夢を見せるんです。意識を切り離された体は外から見ると何をしても目を覚まさない状態になるんで、あいつらは事故とか病気とかで意識を失った人間をよく狙うんです。そういう人間が目を覚まさなくなっても不思議がられないですからね」

 よく分からない。

 よく分からないが、気になった事はあった。

「悪夢を……見せる……?」

「あ、はい。これは夢ですよ」

「……夢……?」

 思わず周囲を見回した。

 相変わらず四方は真っ白で、どこまで続いているのかも分からない。

「貴女が一ヶ月も目を覚まさなかったんで、運ばれた病院経由で俺が呼ばれたんです」

「一ヶ月!?」

 いつの間にそんなに経っていたというのか。

「お母さんが部屋で倒れてる貴女を見つけて救急車呼んで、一命はとり止めた筈なのにずっと目を覚まさなかったもんで、人の夢の中に入って悪夢を退治するって仕事をしてる俺が呼ばれたんですよ」

 また何を言っているのか分からなくなったが、途中までは理解出来た。

「……じゃあ……これは夢で……私は病院にいるの……?」

「そうですよ。俺はご両親から正式に依頼を受けて夢に入ってきました」

「……え……?」

 ご両親。

 その言葉に胸がざわめいた。

「特にお母さんは憔悴してる感じでしたよ。目を覚まさなくなったのは夢魔のせいだったけど、貴女が自殺しようとしたのは自分の意思だったみたいだから」

「お母さん……が……?」

 チンピラは長い鎌を肩に立て掛けながら続けた。

「『一人でこんなに悩んでいたのに気付けなかったなんて』『今思えば何度か話してくれていたのに』『私も追い詰めてしまっていたのかもしれない』って泣きながら言ってましたよ」

「…………!」

 胸が熱くなったのを感じた。

 酷く久しぶりの感覚に思えた。

 凍りついたと思っていた感情が、こんなに動いたのなんていつ以来だろう。

 伝わっていたのだ。

 母は私を心配してくれていたのだ。

 気が付いたら頬にも熱いものが伝っていた。

「お母……さん……!」

 思わずその場に崩れ落ちる。

「会いに、行ってもらえます?」

 安心したような口調でチンピラが呟いた。



「恵!」

「恵!良かった……!」

 ゆっくりと瞼を開くと、涙を流しながら私の名前を呼ぶ両親の顔が飛び込んできた。

「ごめんね、ごめんね、恵……!お母さん何も分かってあげられなくて……!」

 言いながら母がしがみついてくる。

「……お……かあ……さん……」

 掠れた喉で何とか発しながら、様々な管が繋がれた手で母の腕に触れた。

 母が反対の手を重ねて握り返してくれた。

 たったそれだけの事で、酷く安心するのが分かった。

 随分長い間、夜眠って朝目を覚ますのが嫌で仕方なかったのに。

 こんなに嬉しい目覚めがあるなんて、初めて知る事が出来た。

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永遠に眠りたかった者 水神竜美 @tattyi

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