報告書G 敏腕すぎる上司

 やべぇ、やべぇんだよマジで。20代にして生涯最大の危機じゃねえか。何はともあれ落ち着こう、と思ってキャラメルラテに手を伸ばすも、咥える寸前でストローがクルリと逃げて半回転。そして勢いよく瞼に突き刺さり、やり場の無い怒りが増大する惨事となる。私が一体何をしたというのか。有り体に言って情報漏洩、あるいは名誉毀損の類か。


 レイン君の大活躍により3機もの戦闘機は撃墜され、ゴミ屑と化す。それだけで終わっていれば私も拍手を持って迎えたい所だが、事態は全く予期せぬ方向へと捻じ曲げられた。バラバラに四散した機体の残骸が、何故かセクハラの証拠写真へと変貌し、世界をひとときだけ猥褻物で染め上げてしまったのだ。


 当然だがそれは視聴者の目に触れる。事件よりものの数分の間で、早くもSNSは祭りのような賑わいを見せ初めていた。今となっては揉み消すなど夢のまた夢だろう。


「ちくしょう! 何でこうなっちまうんだ!」


 頭を抱え、額をデスクに打ち付ける自分を止められない。同僚の目なんか、この凄まじいまでの後悔の念に比べたらあって無いようなものだ。怪我でもすれば同情を引けるかもしれない。しかし、この石頭は呆れる程に頑丈だった。


 だから髪を引っ掴んで思いっきり引く。派手に引き抜いてしまおう。こうして自作した500円ハゲを晒しながら謝罪をすれば、上層部も仏心を見せてくれるかもしれない。私も一応は20代の女。多少なりとも効果はあるはずだ。


 しかしこの毛、手強い。束で滅するどころか、数本の抜け毛を掴むのがせいぜいだ。こんなチョロ毛で何が出来る。命が惜しくば抜くべし。抜いて抜いて散らかすしかないんだ!


「やったらぁオラ! 死にたくねぇんじゃコラァァ!」


 全力で挑む。しかし成果無し。これは非力なる細腕が原因か、それとも割と剛毛である事が災いしたのか。母よ、なぜ柔い髪質に産んでくれなかったのか。そんな八つ当たり気味の想いが心を過る。などと考えているうちにも事態は刻一刻と悪化するばかり。急げ私。無意味な現実逃避など後で好きなだけやれば良い。とにかく謝罪に向けての準備を進めようと再度髪を掴みにかかる。すると、誰かが私の傍へとやって来た。


 足元は黒い光沢が目立つ底の高いヒール、同じく黒をベースに茶のラインが入った細身のパンツ、そして純白のレース付きノースリーブというモノトーンスタイル。その上には冷徹女の見慣れた顔が添えられている。課長だ。満面の笑みを浮かべた課長だ。普段の仏頂面からは想像も出来ないほど、凶々しさすら感じさせる笑顔を私に向けてきた。笑顔で恐怖に凍りつくという稀有な経験は、生まれて初めての事だ。


「ショーコ、よくやってくれたな!」


「いや、その、課長! これは不可抗力というか、不運が重なった末の事故と言いますか……」


「危険を承知の上で、ハラスメントの件を明らかにしたのは賞賛に値するぞ。それにしても痛快だ。お前も胸がスッとしただろう?」


 風向きが何やらおかしい。てっきり臓器でも売られかねない程に叱責されると思ったけども、課長は妙に上機嫌だった。これは安心して良いもんだろうか。胸がスッとしたとは、「まずは心臓と肺から抜き取って、物理的にスカスカにしてやる」という隠語ではないのか。その業界に詳しくないので、どうにも判別がつかない。こんな事になるのなら、闇社会の常識について勉強しておくべきだったと思う。


 しかし課長。私の疑心暗鬼など気づいたようではない。それどころか、矢継ぎ早に指示をまくしたてた。


「さて、いつまでもボンヤリしているのも良くない。今日は早退しろ。自宅には戻るなよ、危ないからな」


「早退……ですか?」


「そうだ、ここのホテルに向かえ。部屋の名義人は私だ。フロントに話は通しておくから何も心配しなくて良い。それから無用な外出は控えておけ。暇だというなら先客が既に居るから、そいつと積もる話でもしてろ」


「えっと、待ってください。話が見えてこないんですけど」


「やり残した事は無いな? あったとしても今は忘れておけ。まずは身の安全を確保する事が最優先だ。手荷物を持ったら急ぎ退社しろ」


「課長。何の事だかサッパリ分からなくてですね……」


「グズグズするな! ここは私に任せて早く行け!」


「わ、わっかりました!」


 バトル漫画さながらの言葉を吐かれては、こちらとしても応えない訳にはいかない。バッグとジャケットを引っ掴み、課長からのメモを受け取ると、放たれた弾丸のように駆け出した。学生時代に陸上競技で鳴らした足は50m走で6.8秒。メタボ爺が逆立ちしても追い付けない速度で、閑静な通路を駆け抜けた。


 エレベーターで1階へ降り、贔屓のカフェを横目に通り過ぎ、大通りでタクシーを拾う。道路状況は快適そのもので、みるみるうちに会社のビルが遠ざかっていく。これで安全圏まで脱出できただろうか。息が落ち着くと同時に、気持ちも平静さを取り戻そうとしていた。


 ささやかな安堵感から、ネットで世間の様子を確認してみる気になった。各所をザッと眺めただけでも大荒れである事がわかった。SNSでは事件のキャプチャ画像やショートムービーで溢れかえり、早くも会社を糾弾する動きを見せている。公式ページのフォーラムや掲示板も、普段の10倍以上のユーザーが怒りを顕(あらわ)にし、全容を明らかにしろと声高に叫んだ。


 意図しなかった事とは言え、発端は自分なのだと思うと、全身に酷い震えが襲いかかってきた。騒ぎが大きくなればなるほど、居場所を奪われてしまうような気がして。後部座席で丸まる身体。人目を避ける為じゃなく、心がヘニョッと折れ曲がった結果だった。


「やべぇぞコレ……まずすぎるわ」


「お姉さん。大丈夫け? 良かったらコレ使って」


 運転手は何を思ったのか、エチケット袋を差し出してきた。傍目からしたら具合の悪い人に見えるのか。見当違いも良いとこだけど、その小さな気遣いというか、私という人間に優しくしてくれた事が嬉しく感じられた。


 もちろん吐きはしなかった。目的地に着くとお金と袋を手渡し、下車した。目の前には何の変哲も無いホテルの入り口がある。


「ここか、課長の言ってたホテルって……」


 メモに記載されていたのは、車で小一時間程の距離にある、極々平凡な宿泊施設だった。質素なロビーでは観光客らしき一家がテーブル席に腰掛け、コーヒー片手に談笑している。フロントには宿泊客らしきスーツ姿の男女も複数名、その立ち振る舞いや表情に不審な点は見当たらない。


 恐らくここは安全な場所だろうと思う。それどころか、入り口で怪しい挙動を見せている私の方がよっぽど不審者だろう。意を決して中に入る。ここまで来たら、ジタバタ騒いだところでどうにもなりはしない。そんな気がしていた。


 ともかくは受付だ。フロントで課長の名前を出せば、何とかなるだろう。そんなフンワリした思考のまま、列の最後尾で順番を待つ。すると建物の奥から、私の名を呼ぶ声がした。


「黒羽さん! 黒羽さんだよね!」


「えっと……伊東ちゃん!?」


 伊東メル。例のセクハラ事件の被害者だ。知った顔に会えたのは嬉しいけど、どうして彼女がここに居るのだろうとも思う。狼狽(うろた)える私に対して抱き締めんばかりに駆け寄ったのだから、悪感情を抱かれてはいないようだけど。


「鍵なら持ってるから、さっさと行こうよ。私と相部屋だけど平気だよね?」


「あ、うん、たぶん……」


 要領を得ないまま話だけが進む。今、私はどんな状態なんだろう。何に所属し、どこへ向かわされているのか。自分で自分が分からなくなる。私は黒羽ショーコ。よし、名前までは見失ってないな。


「さぁ入って。と言っても、借り物の部屋だけどね」


 愛嬌溢れる仕草で通されたのは、良く片付いたツインルーム。整頓されたシングルベッドが2つと小さめのテレビ、窓はビルに遮られて日当たりが悪い。入り口すぐの締め切られたドアはユニットバスだろう。


 伊東ちゃんが尻からベッドに着地すると、もう片方に手のひらを向け、着座を促した。理解の追い付かない私は、とりあえず荷物を抱えたままベッドの端に腰かけた。


「郷座さんから聞いたよ。黒羽さん、危険を省みずに会社と戦ってくれたんだってね。本当にありがとう。感謝してもしたりないよ!」


「お、おうよ。どんなもんじゃい!」


 ゴーザさんって誰だ、としばらく考えていると、うっすらと課長の顔が浮かんできた。郷座課長。いつも鉄面皮だの冷徹女だのとコッソリ呼んでいたから、本来の名を忘れかけていた。


 伊東ちゃんはどうやら課長と繋がっているらしい。それにしても何故、と思う。どちらも部署は違うし世代も別で、親しくしていたという話も聞いたことが無い。彼女が課長と連絡を、しかも自宅ではなく外泊先で取る理由は何なのか。


「伊東ちゃん。最近見かけなかったけど、その、今までどうしてたの?」


「あはは。会社は辞めたよ。クビになったって言うべきかな」


「ええッ! クビに!?」


「黒羽さんがウチのマンションに来た事あったでしょ、それからしばらく経った頃かな、社長直々に呼び出されてさ。セクハラの件を黙っていれば臨時ボーナスをやる、引き下がらないなら……って詰め寄られてね」


「それで、後者を選んだと」


「うん。その日で無職。しばらくは貯金を切り崩さなきゃなーなんて考えてたらさ、郷座さんが声をかけてくれてね。こうしてお世話になってるの」


「マジで!? ここ奢り?」


「チラッと聞いた話だけど、ご実家がお金持ちらしいんだよね。あぁ、黒羽さんもタダで良いってさ」


「何者だよあの人……」


 簡単な状況確認が終わると、腹ごしらえをする事になった。ルームサービスも奢りとあって、もはや遠慮する気は霧散。さらば、借りてきた猫。ビールやワインは自重、というか下戸なので遠慮したが、ナポリタンにコンソメに手羽先盛りにタピオカティーで食卓を満杯にしてやった。


 退屈しのぎにテレビをオン。平日働く者には縁遠い、午後のワイドショーが各局で放送されている。長期休暇のような気分を感じるも、それは瞬時に塗り替えられた。


 速報として取り上げられていたのは、例のセクハラ流出騒動だ。私の管理するハコニワで暴かれた映像が、各局でこぞって報道したのだ。この白熱ぶりは想定外だ。日本のマスコミの優秀さ加減には胸が詰まる思いであり、ついパスタ麺を喉で逆流させてしまう。


「午前の話がもうメディアに。随分と早いねぇ」


「ゲホッゲホ! どんどん大事になってんじゃん……」


 ちなみにだが、ウチの会社は早くも見解を示したようだ。広報を名乗る男が取材に答え、根も葉もない中傷であると一刀両断した。悪質な合成写真をもって騒ぎを起こした人物について、早急に調査し、場合によっては法的措置を取るとの事だ。そんなもんアカウントを辿れば5秒で知れる。さよなら現世の私。こんにちは身元不明体で見つかる私。


「へぇ、この期に及んで嘘つき呼ばわりするんだ。ほんと酷い連中だね」


「伊東ちゃん。アンタは不安にならないの? アタシがやらかした騒ぎだけど、一緒に居る事を知られたら、伊東ちゃんも共犯だと疑われかねないじゃん」


「全然怖くない。心強い味方がいるからね。そう言えば、郷座さんがここに来てくれるって。会社終わってからだってさ」


「そ、そうなんだ」


「追跡の心配なら要らないよ。電車とかには乗らないで、ロードバイクで来るみたい。裏路地みたいなとこ走り回って、向こうの人たちを撒いてくれるってさ」


「いや、あの人は何者なの、マジで」


 これまで知り得た課長の情報をまとめてみる。会社で有能(あるいは冷血)な手腕を振るう傍らで、伊東ちゃんのような性被害者を匿ったりもしている、しかも経費持ちで。資金源は家の資産。だけど良家のお嬢様的かと言われれば、御自らペダルを漕いで長距離を走破する気概を見せたりもする。


 うん、わからん。考えたところで答えなんか見つかるものか。事実を知りたければ本人に聞くしかなく、こうしてヤキモキするのは人生の浪費だ。ベッドに体を預けて、動画でも眺めている方がよほど建設的だろう。


 こうなると室内はダラけたムードが漂いだし、ちょっとした旅行やお泊まり会の様な雰囲気となる。こんなニュースがあった、変な動画見つけたと話に大輪の華を咲かせていると、唐突にドアがノックされた。


「えっ、誰!?」


「郷座さんでしょ。もう19時だし」


 言われてようやく気づいた。窓の外はトップリと暮れ、夜の帳(とばり)が降りていた事に。潜伏先でも過ごし方が普段の土日と変わらないなと、自嘲気味な笑いが込み上げてくる。


 やってきたのは課長だった。昼に見たパンツスーツ姿は変わっていない。変化と言えば、うっすらとブラウスに汗の跡が読み取れるくらいだ。


「待たせたな。ショーコにメル。変わりは無いか?」


「郷座さん、問題ありません。お気遣いありがとうございます」


「そうか。何か不都合があれば言ってくれ。できる限りの事はしてやる」


 涼しげな顔の課長は、普段の厳めしさなんか感じさせなかった。固い口調は相変わらずだが、まるで古くからの友人とでも話すかのようで、声に人を安心させる響きがあった。


 そのまま彼女は室内に入ると、椅子に腰かけたりはせず、壁にもたれかかった。差し出された飲み物も丁重に断った上で、『では本題に入ろう』と口にする。いよいよ消化不良の疑問が解消されるのか、と期待したのだけど、告げられたのはまた見当違いな言葉だった。


「ショーコ、家の鍵を貸せ」


「は? 家って、私のマンションのですか?」


「そうだ。疑問に思うのも無理はない。だが時間が惜しい。ここは私を信頼して、一晩だけ貸してはもらえないか?」


「ええと、何をする気かだけ聞いても?」


「もちろん罠を張る為だ。連中が狡猾で慎重ならば、私たちの戦いは長期化する。しかし、逆にお粗末で短絡的に動いてくれたなら……」


「早期解決する、ですか?」


「そうだ。上手くいけば一網打尽にできる、かもしれない。そう言う訳だ。貸してもらえないか?」


 こうなったら、まな板の鯉、毒を食らわば皿まで。散らかし放題で他人見せたくもない部屋だが、鍵を課長に預ける事にした。彼女はそれを受けとるなり、『上首尾であれば明日のニュースで知り得る』との言葉を残し、勇み足で去っていった。残された私たちは祈るような気持ちで見送るばかりだ。


 一夜明けて。目覚ましのコーヒーを片手に朝の報道番組を確認した。そこに写し出されたのは見慣れた光景で、どうみても私の住むマンションだった。


 そしてテロップには『会社員女性宅に侵入の男、強盗殺人の容疑で逮捕』という、背筋の凍るような言葉が全面に押し出されたのだった。

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