第21話 聖者伝説
船に乗るのは初めての経験だ。聞いた話によると、人によっては悪い酒に酔ったような不快感を感じるらしい。確かに、延々と揺さぶられるのは慣れないけども、そこにさえ目を瞑れば快適なものだった。甲板から見る景色と頬を打つ潮風。こんな経験は陸の上じゃ到底味わう事は出来ないだろう。見渡す限り地平線という景色も新鮮だった。
僕らは今、ムシケからの定期便で西大陸に向かっている所だ。東大陸は圧政の幕開けの為に混乱が激しい。そのせいで依頼も少なく、仕事にありつくことさえ難しいかった。だから皆と相談した結果、ひとまず場所を移すことにした。世話になった人たちを置いて街を発つのは後ろ髪を引かれるけども、いち庶民に出来ることなどたかが知れている。
「オリヴィエ、大丈夫かい?」
「あぁ神よ……私に奇跡を。奇跡の光を……」
「いくら神様が慈悲深くても、船酔い程度で頼られたくはないと思うよ」
オリヴィエは顔を真っ青にしてマストに寄りかかっている。震える二本足で立ち、視線はやや上に。その状態で固まったまま動こうとしないのだ。座る事を勧めたら拒否された。そうすると酔いが酷くなるらしいのだけど、僕にはサッパリ共感ができなかった。その様子をみかねてか、グスタフが苦笑ぎみに言った。
「リーダー。こういう時は気を紛らわせるに限るぞ。気分から酔うこともあるんだ」
「う、うん。分かったよ」
この旅には彼も参加している。そして、どんな心境の変化があったのか知らないけど、僕の事をリーダー呼ばわりするようになった。自分より遥かに強く、そして年上の人からの呼び名としては、だいぶ不釣り合いなもんだと感じている。
「気を紛らわせると言ってもなぁ。周りは海しかないし……」
「説法なんかどうだ。聖者伝説あたりが丁度いいんじゃないか?」
「こんな状態の人に頼めって言うの?」
「無理にとは言わんさ。まぁ、何もしなければ酔いに苦しむってだけの事だ。明日の昼までな」
「じゃあオリヴィエ。無理にとは言わないけどさ、聖者について教えて貰えないかな?」
「ほぇ……。聖者……さま?」
僕がお願いをした瞬間、オリヴィエの顔つきが別人のように変わった。虚ろな眼には強い意思の力が宿り、だらしなく開いていた口許は引き締まり、いつもの微笑みをたたえる。その変貌ぶりは魔法でも発動させたかのようだった。
「そうですかそうですか。では浅学ではありますが、お話をさせていただきますね」
「う、うん。よろしくね……」
「今より遥か昔、西大陸のいずこかに一人の女性が降り立ちました。名をアリエンナと言い、出自は不明、常にボロを纏っていたそうです。その奇妙な在りように多くの人々は眉を潜め、あからさまに忌避しました」
そんな切り口で伝説は語られた。船酔いなど忘れてしまったかのように、滑らかでドラマチックな口調で。その長い長い話を要約すると次のようになる。
なんでもその人物は東西の両大陸を練り歩き、中傷や差別に晒されながらも、悩める人々を救い続けたのだそうだ。その活躍は日常的なものから、国家事業にまでと多岐に亘る。時には王公貴族を諌める事もあったというから驚きだ。そして迎えた終焉、今では神霊樹と呼ばれる木の根元で生涯を終えると、その亡骸には空から眩い光が降り注いだ。彼女の高潔な魂は神に認められ、天界で永遠の命を約束されたという。
これが聖者伝説のあらすじであり、よくあるおとぎ話のひとつだ。しかし僕は話を聞く間、一点だけひっかかるものを感じた。それは『いつもボロを纏っていた』という逸話についてだ。そんな感想を抱いてしまうのも、僕の特殊な境遇が原因だろう。
「ねぇ、そのアリエンナさんってもしかして……」
「はい。どのようなお召し換えをしたとしても、その装いは変わらなかったとか。かつての私は比喩的な表現だと解釈していたのですが……」
「リーダーの様子をみると、あながち物の喩えとは思えんな」
「何を着ても変わらないなんて、僕と同じじゃないか」
「そうなのです! つまり私の申し上げたい事は!」
「うわっ。急に大声出さないでよ!」
「レインさんこそ、聖アリエンナの生まれ変わりなのです! 伝説と同じ運命を辿り、神と対話をなさるお方が、どうして違うと言えるでしょうか!」
オリヴィエの顔が目前に迫る。僕は思わず仰け反ったのだけど、背中が船の縁に当たる。差し当たって逃げ場は無い。
「だからレインさん、頑張りましょう! ともに悩み苦しむ人々を救い、ゆくゆくは世界を変革させましょう! あなたはその為に遣わされたのでありませんか!?」
「そんな事は……」
そんな事は、ある。女神(きちく)さまは僕に救世主であれと言った。だけど正直なところ、言いなりになる気は無い。見知らぬ人から殺意を向けられるような境遇で、なぜ大志など抱かなくてはならないのか。仮に悩める人々を救う存在がいるのなら、真っ先に僕を助けて欲しいくらいだ。
聖者なんて大役が務まるはずはない。自分はあくまでも平凡な男。足枷がつけられている分、むしろ他の人よりも大きく劣っているのだ。それが僕という存在だ。
それにしても、だ。オリヴィエのヒートアップが止まらない。この子は興味のある事には猛進する癖がある。話を拗らせる前にキッパリと意思表示をしなくてはならない……そう思っていたのだけども。
「聖者に付き従い、世界を救う拳士……か。悪くねぇな」
「ちょっとグスタフ!?」
「頼むよ、オレも一行に加えてくれ。大人物の従者とあれば、プロポーズする時に箔が付くってもんよ」
「英断です。素晴らしいお考えですわ」
「待って! 僕はやるだなんて一言も……」
「ちなみにオレはこう見えて、西大陸じゃ顔が利く。少なくとも店から追い出されるなんて事にはならねぇぞ?」
その言葉には心が揺らいだ。ムシケに居るとついつい忘れがちになるけど、僕の試練(のろい)は今もなお健在なのだ。乗船中の今でさえ鋭い視線を感じる。本格的な争いに発展せずに済んでいるのは、グスタフが睨みを効かせているお陰だった。
「うーん。前みたいに、オリヴィエの恫喝が上手くいくとは限らないしなぁ。そもそも綱渡り的に決着がついたのだし」
「恫喝などしていません。説得です」
「どうだ? オレとなら、スラム街であっても快適に過ごせると思うぞ」
「じゃ、じゃあ、そこまで言うならやってみるよ。でもね、やっぱり無茶だと思ったら止めちゃうからね!?」
「レインさん、ご安心ください。あなたの偉業を達成できるよう、私が存分に補佐を……」
オリヴィエがそこまで言うと、不自然なタイミングで動きを止めた。アゴを大きく引いて、口がひん曲がる程に強く引き結んでいる。
「どうかしたの?」
「すみません。出ます。お昼ご飯が」
「昼ごはん? もうすぐ夕ご飯の時間だけど……」
「ポエッ ポエポエポエ」
「ちょっと!? こんな所で吐かないでよ!」
「あー、やっちまったか。後片付けはオレがやっておくから、リーダーは船室に連れてってやってくれ」
「ありがとう、助かるよ」
容体が落ち着くのを待ってから、申し出どおりオリヴィエを部屋まで担いで行った。窓のない窮屈な場所だ。年代物の2段ベッドの下段に寝かせた。こんな陰鬱な寝床で休ませでも快方に向かうどころか、より悪化しないだろうか。実際オリヴィエは居心地悪そうに横たわっている。子猫のミクロが彼女の顔の側で丸く寝転んだ。少し身を離しているのは気を使っているのか、それとも匂いが気になるのか、僕にはよく分からなかった。
「大丈夫かい? 夕ご飯は要る?」
「結構です。食欲など湧きそうにありませんし」
「そっかぁ。やっぱり揺れが辛いのかな」
「そうですね。数年前、務めで何往復か経験したのですが、一度として慣れた事はありません」
「肌に合わないんだね。ゆりかごみたいな物だと思えば楽になる……訳ないか」
「そんな事、考えた事もありませんでした」
オリヴィエはそう言うと、目を宙空に漂わせ始めた。それは甲板で見せた時の様子とは違う。どうやら記憶の奥深くに潜り込んでいるようだった。
「子供の頃を思い出してるの?」
「はい。修道院の記憶を遡っていました」
「そんな小さい頃から縁があったの?」
「私は捨てられたのですよ。幸いな事に、牧師様が親代わりをしていただけました」
「そうだったんだ。ごめんね、変な事聞いちゃって」
「いえいえ。出自について悩む時期は過ぎています」
その言葉を機に、室内には静寂が訪れた。オリヴィエの薄ぼんやり開かれた目は、すでに閉じられている。それからしばらくして、乱れがちな吐息は寝息へと変わった。顔色は悪くない。
「君は僕を聖者の生まれ変わりだと言うけど、本当にそう思うのかい? 僕にそんな大それた力があると思うかい?」
返事はない。聞こえるのは船の軋む音と、微かな息遣いだけだ。それにしても、彼女が孤児出身だとは少し意外だった。何でも無い素振りで話してくれたけども、幼い頃はだいぶ葛藤しただろうと思う。それこそ普段の堂々とした姿からは想像も出来ないほどに。
僕は自分の境遇に嘆き、見苦しくも騒いでいるけど、それが正しい在り方なのか分からなくなる。辛い事や苦しい事は、何も自分だけに降りかかっているのでは無い。苦悩や苦難に悩まされず生きる人など、果たしてどれほど居るだろうか。
ミクロが僕の様子を気にしてか、チラリとこちらに半目を向けた。だけど興味を強く引いた訳ではないらしい。頭の位置を変えるなり、また目を瞑って眠りだした。
「お前は良いよな、気楽そうで」
毛むくじゃらの頭を少し撫でてから、僕も隣のベッドで横になった。眠気を感じた訳じゃない。視界で揺れる天井を眺めながら、旅の行く末について延々と想像する事を繰り返した。オリヴィエの寝息を聞きながら、ただ延々と。
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