第15話 心の傷跡

 ムシケにやって来て既に10日が過ぎた。街の人たちとは相変わらず良好な関係を築けており、仕事も今のところ順調で途切れてはいない。だから財布もだいぶ暖かなものになっていた。


「ねぇオリヴィエ。そろそろ部屋をふたつ取らないかい?」


 1日あたりたった2ディナを上乗せするだけで、別々の部屋に泊まることが出来る。何かと窮屈な相部屋暮らしに終止符を打てるのだ。だけどオリヴィエは僕の提案に乗らなかった。まさに即答。迷う素振りすら見せようとはしない。


「どうしてその様な事を……私に何か不快な言動がありましたか?」


「いや、そうじゃなくてね。お金に余裕があるから部屋を分けようっていう話なんだけど」


「今まで通り1部屋で十分です。不測の事態に備える為にも、無用な贅沢は止めておきましょう」


「これが贅沢に入るのかなぁ」


「不相応だと常日頃感じておりました。むしろ、一番安い部屋に移りたいくらいです」


 今の部屋は2人用では最安値の部屋だ。それをオリヴィエが知らないはずはない。だから発言の意図が見えず、少しばかり考える時間を要した。


「もしかして、1人用の部屋に移れと言ったの?」


「ええ、もちろん。そもそもベッドも1人1台など贅沢です。身を寄せ合えば2人1台で事足りるのですから」


「それは流石にダメでしょ!」


「あぁ、すみません。私は神に仕える身。いくらレインさんであっても、体を許すことは出来ないのです。貴方の望みに応えられず申し訳ありません」


「僕の望みは部屋を分ける事だよ」


「ですがご安心ください。後ろからギュッと抱き締めたり、頭をナデナデするくらいなら許容としています」


「君は僕の事をなんだと思ってるのかなぁ?」


 それからも意見だけが分かれたままとなり、結局は現状維持となった。どんな言葉をもってしても無駄。彼女は頑として譲らなかったのだ。


 なので、昨日までと同じ部屋に戻る事となった。オリヴィエはどこか機嫌良さげにしていたけと、僕は違う。部屋割りの件が引っ掛かっているのではない。この時には既に強烈な睡魔に襲われていたからだ。最近は妙に眠りが浅く、満足に熟睡できていないのが原因だった。


「そういえば、もうすぐ『光珠の日』ですね」


「お祭りがあるんだよね。大通りじゃ準備を始めてたな」


「街をあげての祝事ですもの。子供だけでなく、大人もソワソワしていますね。グスタフさんにも会えるでしょうか?」


「さぁね。彼は今、山にでも籠ってるんじゃないかな」


「折角ですから、その日くらいは仕事を早めに切り上げましょう。レインさんも羽を伸ばしてはいかがでしょう?」


「うん」


「レインさん?」


 ここでとうとう返事すら返せなくなる。意識が沼に沈むかのように、深い所へと落ちていった。最後にオリヴィエが『おやすみなさい』と言った気がするけど、それも確かじゃない。


 視界が黒一色に染まる。そして手足は縛られたように動けない。この時になって僕は察した。あの夢が始まったのだと。


 暗闇に包まれていた世界に明かりが灯る。それは松明を手にした何者かが現れたからだ。一人また一人と集まり、やがて辺り一帯は昼間のように眩しくなった。ただしその色は赤々としていて、神経を逆撫でするようだった。


 僕は広場にいる。散歩といった平穏さはない。何せ磔(はりつけ)にされているのだから。両手足は縛しめられており、自由は微塵もない。そして足元には、よく燃え上がりそうな柴草が山のように積まれていた。火あぶりの為の準備は万端のようだ。


 この処刑台の周囲は大勢の人が取り囲んでいる。松明に照らされた顔は赤黒く、それを憎悪で歪めており、直視できない程に恐ろしい形相に見えた。


ーー殺せ、殺せ、この男を殺せ。


 誰もが同じ言葉を繰り返す。周囲から起きた叫び声はさざ波の様に広がり、それが遠くの人にまで伝播する。不揃いな声もやがて整然とし、僕への殺意で塗り固められた。


ーー殺せ、殺せ、殺せ!


 ヒステリックな絶叫だ。耳を塞ぎたくなる。それでも体は動かない。言葉で延々となぶられた。大人も子供も関係無く、僕に殺意の刃を投げ続けた。


 そして誰かが、僕の方へ燃え盛る松明を投げつけた。それは足元に落ちて柴草に燃え移った。紅蓮の炎が僕を焼き尽くそうと、火焔を天高くまで伸ばして、暗闇をさらに赤く照らだした。


「熱い、助けて!」


 僕の声は届かない。多勢の叫び声はちっぽけな嘆願など、手もなく飲み込んで闇に葬ろうとする。体が燃える。叫ぶ。誰も助けてくれない。笑っているヤツすらいた。


ーー殺しちゃえよ。


 その時不意に、全く温度の違う声が聞こえた。僕の声に酷く似ている。だけど、不気味なほど酷薄で、肝が震えてしまうほどの邪悪さが感じられた。


ーーこんなヤツら、殺しちゃえよ。

ーー人殺しになっても良いじゃないか、正当防衛だよ。

ーー殺らなきゃこっちが殺られちゃう。


 その声は間断無く耳に、頭の中で響いた。恐ろしいのは言葉そのものよりも、自分の心が傾きかけているという事実だ。頭の片隅に巣食う願望を見透かされたような気分になる。


ーー拳を握りなよ、目にもの見せてやろう。

ーーまさか。自分にその力が無いとでも思ってる? 

ーー平気平気。僕が君の望みを叶えてあげるよ。


 言葉が甘く誘う。抗い難いほどに甘美だ。思わず気を許してしまいそうになり、寸でのところで我に返る。声の主の言葉に耳を傾けてはいけない。そう思う事で水際で堪えた。


 そんな僕の努力を踏みにじるように、周りの連中は手を休めなかった。いつまでも松明を投げ込みやがる。口も馬鹿みたいに開け広げ、下卑た声で嗤う。火焔の向こうに、指差してまで騒ぐヤツすら見えた。


「何がそんなに愉快なんだ……!」


 右手の方から鉄の軋む音が鳴り、破片が頬に当たった。縛めの鎖に亀裂が入ったからだ。反対の手からも似たような音が聞こえる。


ーーそうだそうだ。我慢する必要などあるものか。

ーー人間など所詮こんなもの。下品で残虐で救いようがない連中なかりなのさ。


 眼前では嗤い声が止まらない。やめろ。やめろ。僕を嗤うな。追いつめるな。


ーー殺せ、殺せ!

ーー聞こえるだろう、連中の声が。可哀想になぁ。こっちは何もしちゃいないというのに。まぁこれも生存競争さ。

ーー殺せ!

ーー殺さなきゃ、生き延びられないね。

ーー殺せ!

ーー殺そう。

ーー殺せ!

ーー殺してしまおう。

 

 縛めが、鎖が崩れていく。体の自由を取り戻すのも時間の問題だ。体が熱い。渇きも酷い。それは火にくべられているからか、或いは途方もない程の怒りがそうさせるのか。


「そうだ。僕は、まだ死にたくない。こっちが殺らなきゃ、殺されてしまうんだ!」


 ビシ、ビシリと乾いた音が鳴る。間もなく鎖が砕け散る。そうなれば。そうなれば。


「お前たちに復讐してやる。僕の受けた恐怖を、痛みを何倍にもして……!」


 崩れる音がひとつ、続けてもうひとつが左右で鳴った。この瞬間をどれほど待ちわびたか。足の鎖も解き、前に踏み出す。連中の顔が近づく。嗤っている。その汚らしい顔を恐怖に染めてやりたくなった。


 拳を強く握る。力尽きるまで、腕が折れる程に殴り飛ばそう。歩みは遅い。一歩一歩と踏みしめる度に心は昂ぶる。この怒りによる渇きがようやく癒えるのだ。そう思うだけで、口からは別人のような嘲笑が漏れた。


 その時だ。何の前触れもなく白色に輝く光が現れた。それは球型をしており、目の前に浮かんでいる。そしてそれは一度眩く煌めくと、辺りを埋め尽くしていたもの全てを消し去ってしまった。憎悪をあらわにした人々も、赤々と照らす松明も、処刑台や縛めの鎖さえもだ。今は僕と球だけがある。眩しくて直視ができない。たった一つの灯なのに、太陽よりも強い輝きを放っているように感じた。


ーーどうか、心を穢さないで。己を強く保ってください。


 女性の声だ。心の中に染み込むような響きがある。そして、胸の中に充足感のようなものが広がり、渇きが消えた。


「君は、誰なんだ?」


 問いかけに返事はない。光球からは一方的に言葉が投げかけられた。


ーー私は貴方を、決して独りにはしません。


 君は誰なんだ。もう一度問う。オリヴィエなのか。その問いにも答えず、再び球が煌めいた。今度は先ほどとは比較にならないほどに眩しい。目を瞑る。それでも眩しい。意識は遠いていき、そのまま光に誘われるようにして眠りから目醒めた。


「おはようございます、レインさん。今日も良い天気ですよ」


 オリヴィエが木窓を開け放ち、僕に向かって微笑んだ。そちらからは朝日が差しており、1日の始まりを無言で告げていた。


「ねぇ、昨晩だけど……」


 あの光球のことを聞こうとして、止めた。いくら気心知れた相手であっても『僕の夢に出て来たか』だなんて聞きづらい。寝ぼけているのかと笑われてしまうだけだろう。


「昨晩もうなされていましたね。気の毒に思う程に」


「昨晩もって事は、別の日にも?」  


「ここ数日はずっと。怒っているような、嘆いているような、そんな呻き声を出し続けていました。私にできる事と言えば、何かを求めて彷徨わせる手を握りしめる事くらいでした」


「そうなんだ……。ごめんね、迷惑をかけちゃって」


「お気になさらず」


 この時、ハッとさせられた。オリヴィエが相部屋に固執したのは、僕の悪夢を見越しての事ではないのかと。節約のためでも、もちろん下心のためでもない。僕の事を慮っての決断だったとしか考えられず、何か思い知らされたような気分にさせられた。


「ごめんよ、オリヴィエ。君の深い考えに気づいてあげられなくて」


「突然どうされました?」


「昨夜の部屋割りの話だよ。もちろんそれ以外についてもだけど、僕は君の言葉を表面的にしか受け取めていなかった。君は僕よりずっと深いところを見ていたんだね」


「そうですか……ようやく私の想いが届いたのですね」


「ごめんね……って、何をしているの?」


 オリヴィエは僕の側に立つと、すぐに背中を向けた。肩越しに振り向いた顔が僕の方を見る。


「後ろからギュッと抱きしめてくださいますか。そして頭も優しく撫でて欲しいのです」


「唐突にどうしたの? それは特に深い意味合いなんか無いよね?」


「そんな事はありません。意味も深すぎて、その、天下国家に関わるほどの重大事でして」


「絶対嘘だ! 今すごく適当に言ったでしょ!」


 それからも他愛も無い軽口が続けられた。大した意味などなく、じゃれあうようなやり取りだ。それを続けているうちに心が解れていくのを感じる。少なくとも今日は良く眠れそうだと思った。

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