第6話 シスター・オリヴィエ

 僕は身の安全を確認してからも、森の中をひたすら歩き続けた。目星や目的があってではない。やり場のない怒りや捨て鉢な気持ちが僕を急き立て、足を止められないだけだ。


「何だっていうんだよ、チクショウ……!」


 湿り気を帯びた言葉が自然と溢れる。見苦しい姿だろうけど口を閉じる気にはならない。それよりも今はただ、町から遠ざかる事を優先させたかった。


ーー殺せ、今すぐに殺せ!


ーー逃がすな! あんな邪悪な男を生かしておくな!


 耳目にこびりつく狂気の殺意。謂われ無き罪で殺されかけた理不尽な一幕。先刻の事件は死ぬまで忘れられそうにない。一体僕の何を知って毛嫌いするというのか。分かり合おうとすらせず、感情の赴くままに誰かを憎むだなんて、短絡的すぎやしないか。やり場の無い怒りが歩みを更に速めていく。


 見覚えのある泉は素通りした。ここは便利だけど町に近すぎる。当ては無いけども、人の目が届かない場所に身を潜めたかった。


「待てよ。この子を巻き込んでしまって良いもんかな……」


 つい足が止まった。同行する猫をどうすべきか迷いが生じたからだ。巡りの悪くなった頭であっても、この先どれほどの苦難が待っているか、想像するのは容易い。


 僕は狩猟について全くの素人だ。動物を捕まえる術も、食べられる野草やキノコなんかも知らない。だから野垂れ死にする可能性が高い。そうなれば、魔物の蠢く森の中で、この子を独りぼっちにしてしまうのだ。


 それは流石に気が引ける。膝を着き、マントを開いて降りるよう促した。フッと肩が軽くなった瞬間、刃物で切りつけでもされたかのような痛みが胸に走った。


「ねぇ、ここでお別れしよう。君だけなら町でもやっていけるさ」


「ミャァーー」


「短い間だったけど楽しかったよ。今までありがとうね」


 黒猫は僕の顔色を窺うように見上げ、それから歩き去っていった。ただし、町とは正反対の方にだ。獣道すら無い、茂みの奥深くへと潜り込んで行ったのだ。僕はすかさず追いかけた。


「ちょっと、そっちじゃないよ! 戻っておいで!」


 しかし、それは迂闊だった。人里離れた森の奥で叫べば、どんな結果が待っているかをいい加減に学ぶべきなのかもしれない。


 この騒ぎがグリーンスライムを大勢呼び寄せてしまった。瞬時に数えただけでも8匹。数はさらに増えていく。僕は攻撃態勢に入るスライムに背を向けて、逃走も兼ねて子猫を追いかけた。そもそも対処できる数じゃない。


 「待って! ひとりじゃ危ないよッ!」


 声が聞こえないのか、聞こえても理解が出来ないのか、猫はひたすら奥へ向かって駆けていく。僕は見失わないように追うのがやっとだ。そして背後にはスライムの群れが続く。


 追いながら追われるという立場はややこしく、適切な逃走ルートを辿れない。子猫には適切な退路でも、茂みや枝の数々は僕の逃走を妨害した。手間取った分だけ背後のスライムが距離を詰めてくる。それは振り返るまでもない。


 明らかに窮地のど真ん中だ。それでも今はあの子の安全を優先しようと決め、無策に駆け続けた。体を枝葉で何度も汚す。方向感覚も狂わされた。そうやって駆け続けて、呼吸が荒くなりかけた頃だ。何の前触れも無く開けた場所へと飛び出した。


「民家が2軒……こんな所にも人が住んでいるのか」


 どちらも朽ちかけており、廃屋と言った方が適切だろう。狩猟小屋のようなこじんまりとした造りだ。ここの住民は……などと観察している場合じゃない。今も背後を脅かされたままなのだ。


 子猫は奥の小屋へと駆け寄り、窓からスルリと身を滑らせて、中へ入り込んだ。僕も急ぎ後を追う。すると、物陰から体の大きな男が2人現れ、行く手を遮った。


「なんだテメェは! もしかして町のモンか!?」


「シスターを離して欲しけりゃ、力付くで取り返せ……」


「ごめんなさい! 急いでます!」


 2人の間を滑り込むようにして突破し、小屋へと駆け込んだ。すぐに扉を閉めて入り口を塞ぐ。怒った男たちがドア越しに騒いだけれど、それも長くは続かなかった。


「開けやがれ! 死にてぇかコラ!」


「お、おい、あれを見ろよ!」


「ん? す、スライムじゃねぇか! 何だってこんな大群で!?」


「やべぇよ! こんな数を相手にしてたら死んじまうぞ!」


 聞こえたのは逃げ去る2人分の足音。それから追うようにして、雑多な音と振動が小屋を揺さぶる。しばらく息を潜めていると、これまでの騒ぎが嘘のように静かになった。


 2人の安否を気にしかけて、止めた。なにせ問答無用で襲いかかってきた相手だ。更には『シスターがどうの』と言っていた。察するに彼らは誘拐犯の一味であり、この末路も因果応報と言えなくもない。そう思うことにした。


「さてと、猫くんは居るかな……!?」


 改めて小屋の中を見たら驚かされた。目当ての子猫が見つかったのは想定内だけど、向こうの隅には見知らぬ女の子までもが居たのだ。装いからして聖職者だろう。彼女こそが誘拐されたシスターなのだと、遅れて気付く。


「あの、大丈夫ですか?」


 僕は距離をやや保ち、声をかけてみた。下手に刺激するのは得策じゃない。少なくとも僕のような特殊な人間に限っては。


 でも、彼女にとって僕は恩人のはずだ。だからもしかすると、町の人とは違う反応が見られるかもしれない。


 そんな期待があったのだけど……。


「きゃああ! 変態ッ! 途方もない変態ィ!?」


 瞬きする間すら待たずに悲鳴があがった。彼女はその場で跪(ひざまず)き、祈りの姿勢を見せたかと思うと、延々と独り言を呟いた。どうやら『神様、なぜ私にこのような試練を……』という問いをひたすら繰り返しているようだ。


「それはむしろ僕の方が聞きたいよ……」


 何の因果があって、こんな苦痛を背負わされなきゃならないのかと問い詰めたい気分だ。もし次に女神様(アレ)と対話する機会があったなら、報復すら恐れずに糾弾するつもりでいる。


 それはさておき、これが僕とオリヴィエの出会いだ。この時はまだ知る由もない。町の人たちと大差ない反応を見せた少女が、僕にとってかけがえの無い存在にまで成る事を。

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