第5話 決別
夜が明けて陽が昇っても子猫は傍を離れなかった。首輪は無い。もしかすると、コイツも独りぼっちなのだろうか。それとも捨てられたのかもしれない。自分と似たような境遇に自然と親近感が湧く。
「君も一緒に来るかい?」
顔の位置まで抱き上げて尋ねてみた。返ってきたのは尾の長い、いかにも眠たそうなアクビだ。とりあえず了承を得られたものと解釈して連れて行く事にした。
黒猫はマントの中が気に入ったようだ。僕の肩を占拠するなり、そこで体を丸めた。ゴロゴロと細かな振動が伝わってくる。居心地はそれなりに良いらしい。
こちらとしても道連れがいるのは有りがたい。たとえ会話の出来ない動物であっても、寂しさが紛れるからだ。のしかかる重みを心強く感じつつ、そんな事を考えていた。
「さてと。まずは食料品店に行ってみようかな。十分な量を買えるかは望み薄だけど……」
手持ちの10ディナだけでは、十分な食料を調達するのは難しい。それでも食わない訳にはいかず、店の中へと乗り込んだ。
しばらくして、僕は手ぶらで出てきてしまった。パンとリンゴひとつずつ買い求めたら90ディナ、相場の10倍を請求されてしまったからだ。抗議などやるだけ無駄。こうして、何度目かの絶望を味わっている。
「……水でも飲もうかな」
もはや考えるのも馬鹿馬鹿しくなり、体の求めるがままに足を向けた。せめて喉の渇きくらいは癒したい。幸いにも水だけはタダで手に入る。町中心の井戸までやってきた。そこでは年配の女性二人、足元に桶を置いて話し込んでいるところだった。
僕が近づくと、どちらも非難がましい目を向けつつその場を離れる。そして数歩分の距離が空けると、声を潜めて話を再開した。きっと僕の根も葉もない悪口だろう……と思っていたのだけど、話題の中心は全く別物だった。
「シスターはまだ見つかってないそうだねぇ」
「ペットと一緒に行方不明だなんておっかないね。あんな真面目な娘が、夜逃げや駆け落ちなんかするハズもないし……」
「やっぱり人拐いかい? 怖いわねぇ」
「本当だよ。これじゃ窓開けて眠る事さえできやしないよ」
どうやらこの町で誘拐事件が起きたらしい。可哀想だなとは思うけど、何かしてやろうという気にまではならなかった。他人の世話よりも、まずは自分自身を救わなくては。
浴びるようにして水を飲み、顔もついでに洗う。すると、少なからず気力が戻ってきた。何をするにしても意欲が無ければ意味がない。叶うことなら、今日の内に命を繋ぐ方法を見つけておきたかった。
マントの隙間から顔を覗かせた黒猫にも水を手で掬(すく)ってやる。舌を器用に操り、テチテチと飲む様が何とも愛らしい。2度、3度手を往復させる。すると舌の動きは次第に緩み、最後は顔を背けてしまう。
「もう十分かな。じゃあそろそろ行こう……」
井戸を離れようとしたとき、腿に小さな衝撃を感じた。何かがぶつかったらしい。振り替えると、小さな女の子が尻餅をついているのが見えた。空の桶も地面に転がされている。恐らく水汲みに失敗したのだろう。
「うぇ……ふぇぇ!」
「大丈夫? さぁ、僕につかまりなよ」
涙を滲ませる子に手を差し伸べた、その時だ。近くにいた女性が甲高い声をあげた。誰が聞いたとしても、悲鳴にしか聞こえないものを。
「だ、誰か来ておくれ! 人さらいだよぉ! 女の子が連れてかれちまうよぉ!」
「えぇっ? 僕が人さらい!?」
悲鳴に反応して方々でドアが、木窓が開け放たれ、何人かが勢い良く飛び出した。顔を憎悪で染め上げ、こちらへ向かって殺到してくる。その手には刃物や農具があり、予め準備していたかのような周到さを感じさせた。
「とうとう尻尾を出したぞ! 捕まえろ!」
「シスター誘拐もコイツの仕業のハズだ! 白状するまで拷問にかけてやれ!」
「いや、一刻たりとも生かしておくな! すぐにブッ殺せ!」
「そうだそうだ、殺してしまえ!」
平穏な田舎町が一転、殺伐としたものに変質した。老人から子供までが『殺せ、殺せ』と口々に叫ぶ。目の前で座ったままの少女も、調子を合わせて敵意を剥き出しにして、僕に向かって狂った犬のように吠え立てる。
唐突に噴出した憎悪の渦。僕は驚きよりも危機感を抱いた。もはや誤解を解いて回る猶予はない。狂気に目を血走らせる人々に背を向けて、即座に身を翻した。
「逃げるよ、捕まってて!」
肩で寛ぐ友達に断りを入れ、急ぎその場から逃げ出した。幸いなのは追手の武器が鎌やナイフばかりで、弓などの飛び道具が持ち出されなかった事だ。そして町の外周には、内外を隔てる壮大な壁など無い。だから足が動く限り逃げれ続ければいい。
前方に邪魔者は居ない。森に向かってひたすらに駆けた。集落から離れ、街道を外れて草むらの中へとなだれ込む。その時になって、背後からの圧力が消えた事に気付いた。
「……深追いする気は無いみたいだ」
彼らは町外れに陣取るばかりで、森の方へ動くことは無かった。でも怒りが収まったわけでは無いらしい。足を止めた今でさえ、口からは剥き出しの殺意が吐き出されている。
僕は全てが虚しくなり、そのまま森の奥へ歩きだした。2度と人里で暮らすまいと、心に誓いながら。
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