蘇る記憶

「一体ここは何なんだ……!」

 俺がそう詰め寄ると彼は静かに、それまでとは違う抑揚のない声で言った。

「ここは中陰、分かりやすく言うと生と死のはざまです。ここで人は生前の記憶を全て失い、その記憶は本としてここに残されていきます。あなたはここに来るのは初めてではない。もう何度も来ています。もっとも厳密に言うとあなた自身ではないですがね」

 彼の言う意味が分からず俺は率直に聞いてみる。

「……、俺は死んだのか」

「いいえ、本当の意味ではあなたはまだ死んではいない。だが、死んでいるも同然です。もはやその肉体は失われてしまっているのですから」

 肉体が失われている? それを普通は死というのではないか?

 首を傾げる俺に、彼はいったん言葉をきって続ける。

「ここにあるのは全て平行世界パラレルワールドのあなたの記憶です」

「パラレル……、ワールド……?」

「平行世界は通常、他の平行世界パラレルワールドと交わることはありません。ですがあなたの場合はいろんな平行世界パラレルワールドが交わってしまった。大切な人への思いが強すぎて」

 もう、この説明をするのも何度目ですかねと彼は皮肉な笑みを浮かべる。

「時間の渦に巻き込まれたあなたの世界は失われてしまいました。もうどの世界にもあなたの居場所はないのですよ。この生と死のはざまでたださまようだけです」

 わけが分からなくなり、力の抜けた俺はその場でがっくりと膝と肩を落とした。

 そんな俺を見下ろしながら彼はさらに続ける。

「あなたは何度もここきてはその度に記憶を置いて行きました。ですがいつもどうしても捨てられないものが残ってしまう。それさえなくせば私がこのままあなたを新しい世界に連れて行って差し上げるんですが……」

 言いながら彼はさっき俺が落とした手鏡を顎で指した。

「これ……、か? だが俺は……」

 俺は女じゃない。鏡にそんなに執着するとは思えないのだが……。

 彼はそんな俺の心を読んだかのように、首を横に振った。

「それはあなたのものではなく、あなたの大切な方のもの。ですが、それゆえにあなたは今までそれを捨てることができなかった。どうしますか? 今度こそ、その鏡と一緒にここにその方への思いを置いていきますか」

 俺の中に断片的に記憶が蘇る。

 降りしきる真っ白な雪。

 一面の銀世界。

 首に蝶の痣のある女性。

 その隣で笑う俺。

 二人で笑っているかと思えば、それがぐにゃりと歪み彼女の体に取りすがって俺が泣き叫ぶ。

 そしてつりさげたロープに首を入れて踏み台を蹴る俺。ズボンのポケットからはあの手鏡がのぞいていた。

 「俺は……」

 そうだった。俺はミキの死が受け入れられず自らも死を選んだのだった。

 そして暗闇をさまよい続け、ここに辿り着き、この男と会っていた。

 彼は俺が持っていたこの手鏡に気づき、それをここに置いていかねばどこにも行けなくなると俺に言ったのだ。

 俺はそれを拒否した。

 この手鏡はミキが俺と同じ時間を歩いた証。ここにこの鏡を置いていくということは、その時の俺にはミキへの想いも何もかも無になってしまうように思えたのだ。

 そして俺はこの館を飛び出し、暗闇をさまよいだすことになる。

 さまよう中で、俺は時々微かな明かりのともった玉をいくつも見つけた。その玉を一つ一つ覗いてみると、玉の数だけの俺が、同じだけの彼女と出会いそしていつも彼女をなくしていた。彼女はどうあっても俺を残して死んでしまう運命にあるようだった。

 彼女をなくした俺の選択肢はいつも違った。俺のように死を選ぶものもいれば、彼女の分まで生きると誓いその生を全うしたものもいる。

 そして、俺以外の俺はこの館に辿り着き、彼女への思いと記憶を全て残して新しい魂の旅路についていた。俺だけがそれをできずにこの暗闇をさまよい続けている。

 全てを思い出し、俺は泣いた。

 俺はただ、彼女と共に在りたかっただけだ。なぜこんな風になってしまったんだろう。

 手鏡を抱きしめて、俺はただ身体を震わせるしかできなかった。

 全てを思い出した今、記憶を、この鏡を、ミキへの想いも、全て手放すことなどできはしない。だが、このままここにいても俺はただこの暗闇をさまよい歩くだけだ。

 ひくことも進むこともできずにこの場にただ立ちすくむしかできない。彼女への思いをただひたすらに抱いて。

 紫苑色した髪の彼は、憐れむように俺を見てゆっくり言った。

「時間はあります。ゆっくり考えてください。あなたの思いはあなたが断ち切るほかないのですから」

 俺はどうすることもできずにただそこでうなだれているほかなかった。

 と、俺の手の中で何かが軋んだ。

 あっと思う間もなく、軋みは大きくなりピシリと鈍い音が耳に飛び込んできた。

 そしてそのまま、胸に抱いていた手鏡が真っ二つに割れ、驚いた拍子に俺の手から滑り落ちた鏡は床に落ちて粉々に砕け散る。

 破片が飛び散るその様はまるで降りしきる雪のようにきらきらと美しく輝いていた。

「ミキ……」

 それはいつまでも彼女への思いを断ち切れない俺の背中をミキが押してくれた瞬間だったのだろう。

 もう充分よ、と。

 あなた自身の道を進んで、と。

 彼女はそういう優しい人だった。

 彼女を鮮やかに思い出し、俺は再び涙した。



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