あるカップルの記憶

 よく晴れた日の午後。

 私はオープンカフェでミルクティーを飲みながら、本を読んでいた。

 ちらりと時計を見ると待ち合わせの時間を30分過ぎている。

 待ち人はまだ来ない。

 仕事の忙しい人だから、今もぎりぎりまで仕事をしているんだろう。まだ時間はあるしのんびり待つかな。

 ぬるくなった紅茶を口に流し込み、再び眼を手元に落とす。

 どのくらいの時間が経っただろう。

 待ち人の声が聞こえた気がしてふと私が本から目をあげると、まさに彼が息を切らせて走ってきて、目の前に立ったところだった。

「ごめん、ミキ、待たせたね」

 謝りながら片目をつぶった彼の目元には、印象的な二個並びのほくろがあり、それがいちだんとその魅力を増していた。

「もう、遅いよ。随分待ったんだから」

「ごめん、ごめん、何か埋め合わせするよ」

「何をしてもらおうかなぁ」

 笑いながら言う私に、彼はぐっと近付き、機嫌を取るように私の首筋の小さな蝶のような形の痣を軽くつついた。

「あまり、無茶は言わないでくれよ?お嬢さん」

「仕方ないなぁ。じゃあ、はい、この荷物持って。それでチャラにしてあげる」

 笑いながら傍のキャリーバッグを指すと彼は驚いたように眼を丸くした。

「そんなことでいいの? それくらい言われなくてもするけど」

「知ってるよ。それと……、仕事忙しいのに連休取るために頑張ってくれたのも。それで充分だもん」

 そうかと微笑み眼を細める彼。私は彼の優しい笑顔が好きだった。

 彼の笑顔を見ながら、今回の旅行のことを口にする。

「ね、楽しみね。雪国って私、初めて」

「南育ちだからね、ミキは」

「そう、だから北国って言葉にもう憧れちゃう」

 彼は私の言葉を聞きながら時計に目を移した。

「お、そろそろ行くか。飛行機に間に合わなくなる」

 それを聞いて私はあわてて本をハンドバッグに入れ、立ち上がる。

 彼は私のキャリーバッグと自分のボストンバッグを手にすると、行くかと歩き出した。

 待ってよと、私は彼の腕に自分の腕を絡める。

 彼が少し照れたように笑う。

「歩きにくいだろ」

「いいじゃない、久しぶりなんだから」

 道端に咲く紫苑の花々に見送られて歩き始めた私は、初めて行く北国を想像し、思わず満面の笑みを浮かべるのだった。

 




 ―俺は本を閉じる。

 胸の痛みは、ほんのりと柔らかい感情になっていた。その前の二つの悲痛さに比べて、この記憶はほのぼのと温かい。だが、やはりどこか懐かしさと甘い疼きを感じるのは否めなかった。

 紫苑色した髪の彼に俺はなぜこれを俺に見せたのかと聞いた。

 彼はこともなげにこう言った。

「それはあなたがいちばんご存知のはずですよ」

 意味が分からずに俺は首を傾げる。

「思い出しませんか……。まぁ、無理もありませんね」

 彼は俺の前に手鏡を置いた。

 俺に鏡を覗けということなのか。なぜこのタイミングで? いぶかしみながら恐る恐る手を伸ばし、鏡を手に取る。と、色々な記憶と感情が俺の中に洪水のように流れ込んできた。

 そのあまりの大きさと激しさに、俺は思わず鏡を落とした。その拍子に鏡が裏返り俺の顔を映し出す。

 鏡の中の俺の目元にある二個並びのほくろが軽くにじんだ涙にぬれていた。

 

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