ある老人の記憶
老人が歩いていた。
全身黒づくめの彼は、真っ白な世界に足跡を残しながらゆっくりと道を横切って行く。
何故初対面のあの若者に、妻の話などしたんだろう……、と考えながら。
彼もあんなところに花を手向けているのだから、きっと何か辛いことがあったのに違いないのだろうに。
悪いことをしたかな。
しかしあの若者……、どことなく若いころの自分に似ている気がするのは、自分と同じ位置にあった泣きぼくろのせいだろうか。
きっとそうだ。そのせいで親近感をおぼえて妻のこともつい話してしまったんだろう。
そう勝手に納得し、歩を進めながら、胸の内で亡き妻に話しかける。
「ミキ……、見えているか……? お前が見たいと言っていた本物の雪景色だ。随分遅くなったがやっと一緒に来ることができたな」
さっき散骨した妻の遺骨はいずれこの地の動植物と混ざり合い、この地が彼女そのものになる。憧れの地と溶け合い、ミキはここに在れるのだ。ここにくればいつでも彼女を偲ぶことができる。もう少し、もう少ししたら自分もここに住むのだ。そして近い将来自分が死んだら、この地に葬ってもらおう。そうすれば亡き妻と再び一緒になることができる。
今回彼がこの地に来たのは妻の骨を散骨し、最後の別れを告げるためというのももちろんだが、移住の準備のためでもあった。
数ヶ月前にこの地は、自分のような人間が多く住むと言う噂を聞いたのだ。彼の気持ちはその話を聞いたときにすでに移住をすると決まっていた。
ようやくバス停に着いた彼はまず時刻表を確かめる。どうやらあと数分でこの日最後のバスが来るようだった。
運がいい、と彼はベンチに腰を下ろした。
今日はこの地に泊まるつもりだが、時間的にはまだ早い。不動産屋と役所に寄って情報を集めなければな。
バスを待ちながら彼はまた考える。
そういえば、ミキを亡くしたばかりのころ、北国に行ったな。あれはどこだったか……。
その時は仕事ですぐに帰らなければならなかったし、ミキの遺骨も写真も持っていかなかったが、彼女の菩提を弔いながら住みついてしまおうかと真剣に考えたっけ。あそこはこの地と同様にそういう人間の多い街だった。あの頃は若かったな、俺も。そういえば、あの頃に似たような境遇らしい老人に会ったような気もするが……。
もう昔の話だ、よく覚えてはいないが、しかし、まるで今日の自分と彼のようではないか。
奇妙なこともあるものだ。だがまぁ、それは偶然の一致という奴なのだろう。この広い世界にそんなことが一つ二つあってもおかしくはない。
そんなことを考えながら彼はバスに乗り込んだ。
―本を閉じた俺の眼は二冊目の本に注がれていた。
なんだ、この内容は。
この二冊の本は内容が重なっているじゃないか。しかも続いている。記憶の持ち主が老人か若者かの違いだけだ。
これはたまたまなのか。
背中を冷たい汗がつっと流れた。
だが、偶然じゃなければ何だと言うのか。それに似た境遇とは言っても、微妙に細かいところは違っている。同一人物ってわけじゃないんだろう。だいたい同一人物であるなら、自分自身と出会うなんてことはあり得ない。ドッペルゲンガーじゃあるまいし。仮にそうなら、まるでどこかの三文芝居みたいじゃないか。そんなこと、まるっきり馬鹿げている。
俺は一瞬頭を支配した考えを追い出そうと、ふるふると首を横に振り、違うことに意識を移した。
それにしてもこの二人が俺と縁があるということはどういうことなのか。
紫苑色した髪の彼は相変わらず涼しい顔で俺を見ているだけだ。その表情からは何も伺えない。
俺はゆっくりと、さっき手には取ったが開けなかった本を今度は開いてみた。
今度は違う舞台のようだった。
都会の穏やかな陽だまりの中のオープンカフェが眼前に広がった。
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