ある若者の記憶

 僕が彼に声をかけたのは、単にそこをどいてほしかったからだった。彼が膝をついて肩を落としているその場所に僕は花を手向けたかった。

「……、あの」

 後ろからいきなり声をかけたのがまずかったのか、彼はびくりと肩を震わせてゆっくりと僕を振り返った。

 目元が濡れて、珍しい二個並びの目元のほくろが、光っている。が、彼はそれを隠そうともせずに無言で僕をじっと見つめてきた。

 僕は一瞬たじろぎ、声が出せなかった。彼の目元のほくろとまったく同じものが僕にもあったからだ。奇妙な一致に違和感を覚えながら、それでも僕は言葉を探しひねり出した。

「……、すみません。そこ、いいですか?」

 何かあったんだろうなと想像に難くなかったが、動揺を隠すようにわざと単調に言った。仮に何があったのか聞いたところで、今会ったばかりの彼が言うはずもないし、そのことは僕には関わりのないこと。僕は自分の用事を早くすませてしまいたい。

 何よりここはそういう、いわゆるわけありの人が来ることが多く、そのまま住みついたりすることもある街なんだ。かくいう僕もわけありでそのまま住みついてしまった一人。多分彼もそんな一人なんだろう。

 彼は口の中で唸るような声を出して軽くうなずくと、少し横によけてくれた。

 僕はその隙間に滑り込み、紫苑の花束をそっと置いて、海を眺めた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。ほんの数秒だったのかもしれないし、何十分か経ったのかもしれない。何とも言えない気まずさと沈黙を最初に破ったのは彼の掠れた声だった。

「その……、紫の花。よく見かけますが……?」

 暗に名前を尋ねられたのかと、答えてみる。

「……、紫苑です」

シオン、と彼は小さく繰り返し、うなずきながら海に目を落とした。どうやら間違った答えではなかったようで、僕は安堵した。

 風の音がやけに大きく響く中、僕は気まずいのになぜだかそこを離れられずにいた。単にタイミングをなくしただけなのかもしれない。が、彼との奇妙な一致に僕は無意識に、自分と同じ香りを感じていたのかもしれなかった。

 しばらくして今度は僕が口を開いた。

「ご旅行、ですか」

「……、ええ、まぁ……、そんなところです」

 そうですかと僕は呟き、そこに置いた紫の花弁を見つめた。

「……、雪を見せてやりたくて」

 彼が不意に口を開いた。

「誰に、ですか」

「妻に、です」

「こちらに一緒に来られているんですか」

 ええ、とうなずきながら彼が見せてくれたのは、さっきから手に握っていたらしい、粉のような物の入った小瓶だった。

 僕が何と返していいか分からずに黙っていると、彼は海面をまっすぐに見つめながら絞り出すような声でひとり言のように言った。

「もう随分前ですが……、妻と約束をしていましてね」

「……、はい」

「妻は南国育ちで。雪を見たことがなかったんですよ。それで口癖のように若いころから雪国に行ってみたいと言っていました」

「……、そうですか」

「いつかゆっくり二人で北国を旅行しよう……、と言っていたんですが。あいつ、それを叶える前に独りで逝っちまって……」

 僕のほうに向きなおって弱々しく微笑む彼は、今まで見た誰よりも優しい顔をしていた。

「……」

 僕は何も言えなかったが、彼は構わず続けた。

「あいつが逝ったのも、もう随分前ですが……、やっと今日、約束が果たせました」

 僕は頷き小さい声で、そうですか、というのがやっとだった。

 彼はええ、とうなずき意を決したように小瓶の蓋を開けて中身を手に取った。そして一度、別れを惜しむように握りしめ、ゆっくりと指を開いていく。粉のようなそれは、キラキラと舞いながら風に吹かれ、はらはらと天から落ちる雪とともに宙に消えていった。彼はそれが全て宙に舞ったのを確認して、大きく息を吐く。そしてふと足元に視線を落とし、すっと目を細めた。

「紫苑……、でしたか。私の妻もその花が好きでしたよ」

 彼は僕に会釈をして、では、とその場をゆっくり離れていった。

 彼が去った後も僕は、そこにたたずんで海を見つめながら、誰にともなしに呟いた。

「あの人の話……、聞いたかい?ミキ……、まるで僕たちのようだったね」

 紫の花弁が、僕に答えるように風に吹かれて揺れた。

 ミキは僕の恋人の名前だった。

 彼女はもうこの世にはいない。彼女の実家があるこの地に来ようとしていた矢先に彼女は不意に一人で旅立ってしまったのだ。

 彼女を病魔に奪われた僕は失意のあまりこの地に一人で来た。せめて彼女との約束を果たしてあげたくて。

 僕は彼女のご両親に会い、彼女と結婚するつもりだったと、その挨拶に来る予定だったと告げた。

 ご両親は泣いていた。僕も泣いた。

 たった一人の愛する人を亡くした悲しみは癒えることはなく、またこの地にいると彼女の息吹を感じられる気がした僕はそのままこの地に住み着いた。

 この崖は彼女のご両親から聞いた、彼女が生前一番好きだった場所だった。だから彼女の命日の今日、いつもここに僕は彼女の好きだった紫苑を携えて来ていた。

「ミキ……、似たような境遇の人が世の中にはいるんだね」

 それは偶然の一致なのだろうか……。もしかしたら彼女がもう前を向いて歩きなさいと背中を押そうとしてくれていたのかもしれないな。そう思うほどに、あの老人との出会いは奇妙なものだった。

「ミキ、それでも僕は君と共に生きたかった。そう思ってこの街から、君の幻影まぼろしから離れられない僕を、君はバカだと笑うかい……?」

 空を見上げると、少しだけ晴れ間が見えた。それが彼女の呆れたような笑みに見えたのは、決して僕の気のせいではないはずだと思った。だってそれはミキの首筋にあった蝶のような痣にそっくりな雲の形だったのだから。




 ―俺はぱたりと本を閉じる。

 胸の甘い疼きはさっきよりも強くなり、痛みも増していた。

 油断をすると泣いてしまいそうだ。それほどにこの二人の記憶の持ち主と同調してしまっていた。

 一度眼を閉じ、胸の痛みが小さくなるまで待って俺はその本を先の本の上に重ねて置いた。

 震える指先で次の本に触れた時、紫苑色した髪の彼は呟くように言った。

「読むのをやめても、いいのですよ」

 その言葉に伸ばしかけていた指が止まる。

 だが、俺は痛みよりも好奇心に負けた。

 この胸の痛みも甘い疼きも偶然に沸き起こったものかもしれないのだ。きっとこの記憶の持ち主たちに感情移入しすぎたためにおこったものだろう。大丈夫、俺はこんな本読んだくらいで存在意義を失うことなどない。

 微かな不安を振り払うように俺は止まっていた指を伸ばし次の本を手に取る。

 同時に紫苑色した髪の彼がふわりと笑った気がした。が、眼を向けるとその表情に変化はなく、優雅に紅茶のお代わりをカップに注いでいた。

 気のせいかと俺はその本を開こうとしたが、最初に読んだ本の続きが何故か気になりそれをできずにいた。

 しばしの逡巡の後、仕方がないと手に取った本を置き、最初に読んだ本を開く。

 再び銀世界の舞台が目の前に広がった。

 

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