ある老人の記憶

 ぎゅ、ぎゅ……。

 男が大地を踏みしめる。

 白い世界に足跡が点々と、まるで彼の存在の証のように続いていた。

 彼は独りだった。

 耳を澄ませば、天から舞い落ちる雪の音さえも聞こえてくるような静寂が辺りを支配している。あまりの静けさに、足の下で小さく軋む雪の音が、やけに大きく木霊するように感じられた。

 風に乗って雪がますます強く彼に吹き付けてくる。

 が、男はそれを気にするでもなく、むしろ喜びさえも感じているように足を進めていく。

 彼の姿は、何もかも黒に統一されていた。帽子も、コートも、マフラーも、手袋も、ズボンも。きっとコートに隠れている服も黒いのだろう。もしかすると肌まで黒いのかもしれないと、そう思わせる程だった。しかし彼のむき出しになっている顔の色は白く、そうではないことを物語っている。その顔のいたるところにはしっかりと年齢が刻まれていた。

 白い世界を黒い装いの彼が横切っていく。

 ぎゅっと唇を引き結び、彼は慎重に歩を進めていた。何の感情も感じさせない、無機質な表情でひたすらに目的地を目指していく。その足取りには微塵の迷いもなかった。

 どのくらい歩いたのだろう。

 彼は崖の淵に立っていた。

 眼下に海を見下ろし、白波たつ海面を身じろぎもせずに凝視している。

 荒れ狂う白波に身を躍らせるのかと思った刹那、不意に彼の手が動き、コートの内ポケットから粉のようなものが入っている小瓶と一枚の写真を取り出した。

 写真の中の女性がはちきれんばかりの笑顔を浮かべて彼を見つめている。彼女の首筋には小指の爪ほどの大きさの痣が見えた。まるでそこに蝶が止まっているかのようだ。

「……、ミキ」

 それが彼女の名前なのだろうか。

 彼がぽつりとつぶやいたその声には哀しみが混ざっている。

 彼はしばらく写真を見つめ、ほぅっと溜息をつく。名残惜しそうに何度も何度も写真の中で笑う彼女の頬を撫でる。彼の指先が震えていたのは寒さのためばかりではないのは想像に難くない。

 彼は意を決したようにゆっくりと写真を持つ指先の力を抜いていき、ついにその力を完全に抜いた。自由になった写真は蝶のようにひらひらと舞いながら、北風に吹かれて海面へと消えていく。波間に消える瞬間にちらりと彼女が最後の笑顔を彼に向って投げかけたように見えた。

 ぽたり。

 彼の指先に雫が落ちる。

 涙だ。

 彼の左目尻にあるくっきりとした、けれどしわに埋もれた小さな二個並びのほくろが、みるまに涙に濡れていき深い悲しみを感じさせる。

「ミキ……、これで本当にお別れだな。……、だが俺ももう若くない。すぐに逝くよ……。その時にお前が迎えに来てくれるなら、死など少しも恐ろしくはない。むしろお前に会えるのならばこんなに嬉しいことはない。なぁ、ミキ……」

 手の中に残った小瓶を見つめ呟きながら彼は崖の上でがっくりと肩を落とした。いつか彼は小瓶を握りしめむせび泣いていた。

「俺はお前の分まで生きようと決めて今日まで来た……。だがもう年かな、早くお前に迎えに来てほしくて仕方がないよ。お前には叱られてしまいそうだが……」

 涙を流し続ける彼を慰めるように、激しく吹き付けていた雪が包み込むような降り方に変わった。




 ―そこまで読んで俺はぱたりと本を閉じた。

 ずきりと胸にわずかな痛みを感じたからだ。

 それはこの記憶の持ち主に同情したということではなく、まるで自分がそれを体験したかのような甘さを伴った苦い痛みだった。

 ちらりと眼を上げると、紫苑色をした髪の彼は、眼を閉じて紅茶の香りを楽しむかのようにカップを手に取っていた。

 俺はその本を脇に置いて次の本を手に取り、再びその本の世界に飲み込まれる。舞台はさっきと同じ北の地のようで、やはり同じく銀世界の中の崖の上だった。




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