一、邂逅

 俺はいつからここにこうしているのだろう。

 分からない。

 気付けば、この暗闇の中をひたすらに歩きまわっていたのだ。

 なぜ?

 何のために?

 その答えが得られないまま、俺はずっとこうやっている。

 それは気が遠くなるほどの永い時間だったのかもしれないし、ほんの刹那のことなのかもしれなかった。だが、ここではそんな時間の長さなど何の意味も持たない。要は考えても無駄ということだ。

 さまよう俺が覚えているのはただ一つ、「ミキ」という言葉だけ。けれど、その言葉が自分にとってどんな意味を持つのかは思い出せない。

 そもそも自分にとって意味を持っていたのかどうかさえも……。

 まぁ、いい。

 俺に出来ることはこうやってこの世界を歩き回ることだけだ。これからもずっとこうやってさまようのだろう。

 ひたすらに進む俺の目の前は行けども行けども暗闇だ。

 音も光もない真の闇。

 そしてこの暗闇こそたった一つの俺が生きる世界。ここに俺以外の存在はない。

 はずだった。

 しかし、それは何の前触れもなく突如、現れた。

 暗闇をさまよう俺の前に、突然うすぼんやりと何かの形が現れたのだ。

 こんなことは初めてのことで、俺は思わずその場に立ち尽くしてしまった。

 何だろう、これは。

 なぜこれは急に現れたのか……?

 俺の足は地面に張り付いたかのようにその場を動けないでいた。その分頭は目まぐるしく働く。 

 しかし、忙しく働く頭をよそに、俺の心にはある考えが芽生えてきてしまった。そもそも俺は暗闇の中をひたすらあてもなく歩き回るのにいささか閉口していた。その俺の世界に突然現れたおぼろげなこの輪郭に、興味をひかれて近づいてみようと思うのも仕方のないことではないだろうか。

 俺の足はようやく意志を取り戻し、一歩また一歩とその突然現れた何かに向かって進み始めた。

 近づいていくと暗闇の中ではあるが、それは大きな建物のようなものだと分かった。少し古びた洋館……、のような形だろうか。もやもやとしていて実際のところよくわからないが、なんとなくそう俺は感じた。

 洋館か。何だろう。何か引っかかる……。ちくりと胸を刺す甘い疼きはまるで長年離れて暮らしていた旧友に逢った時のそれに似ている。

 俺がその形にどこか奇妙な懐かしさをおぼえていると、その建物が突然質量を増した。

それはあまりにも唐突だった。唖然として見ている俺をよそに、みるみるうちにそれは現実味を帯びていき、彩色され、蔦まで絡まり始めていく。数分後には俺の目の前に長い年月を経たであろう古い洋館がそびえたっていた。

 俺はこの建物を昔どこかで見たことのあるような気がして首をひねったが、どうにも思い出せない。

 いや、見たことがあると思いこんでいるだけで、本当は見たことなどないのかもしれなかった。

 この世界では全てがあやふやだ。何も意味を持たない。そう、この俺でさえも。

 気を取り直して蔦の絡みついた玄関の取っ手にそっと触れてみると、力をまったく入れていないのに、ひどくきしんだ音を立てながらその扉が内側に開いてしまった。 

 俺がいぶかしみながら扉の中に一歩、足を踏み入れた瞬間、今まで暗かった世界に一気に明かりがともる。

 それは大量のキャンドルだった。炎を揺らめかせ優しく辺りを照らしてくれているはずのキャンドルが、闇に慣れた俺にとってはまぶしすぎるもので、思わず瞳を閉じて手で顔をかばった。

 「おや……、お客様とは珍しい……」

 瞳を閉じている俺の頭の上から涼しい声が降ってきた。

 うっすら瞳を開けてみると、紫苑色をした長髪の男が燕尾服に身を包み階段の上から俺を見下ろし立っていた。

 「ここは……?」

 俺は思わずそう呟いてしまった。

 今まで俺の世界にこんな存在はなかった。それが何故急に現れたのか……。そしてお前は誰なのか、何の目的があるのか、と次々に胸の内に言葉が湧き上がってくる。

「ここは記憶の館と呼ばれております。どなたでも一度だけこの館に訪れることができるのですが……」

 彼はそこまで言うとちらりと俺を一瞥して、階段をゆっくり下りてきた。

「まぁ、そんなに気にされることもないでしょう。ここはそれほどに曖昧な場所なのですから。あなたの世界と同じようにね」

 少しの間をおくとそう言ってにこりと笑い、俺のそばに立った。

「館の中をご覧になりますか?」

「いや、いい」

「おや……? ではなぜここに?」

「この館が俺の目の前に急に現れたから、だ。何となく足を向けただけで別に中が見たいとか、そういうのじゃない」

 俺が言うと、彼は首を傾げた。

「急に現れた……、ですか」

「そうだ」

「そうでしたか。まぁ、ここにはいろんな方がいらっしゃいます。中にはあなたのような方も……、ね。だが、まぁしかし、私もあなたが久々の客人なのですよ。立ち話もなんですし、中でお茶でもいかがですか?」

 俺はいささかいらだちながら彼を無言で軽く睨んだ。俺の世界にいきなり侵入してきたのはそっちなのだ。俺がここに館を建ててくれと頼んだわけではない。なのになぜそちらの言いなりに俺がならないといけないのか。

 そんな俺の視線を気にも留めず、彼はすっと道を開け、奥の部屋に入るように促してきた。

 知らない間にこの場を仕切っている彼へのいらだちに任せてそのまま館を出て行っても良かった。が、俺はそうしなかった。

 やはり俺の世界を、急に侵してきたもののことを知りたいと言う欲求にはあらがえなかったからだ。俺は渋々頷き、すすめられるままに客間に入り、ソファに腰掛けた。

 彼はどこからかティーセットを運んできて紅茶を淹れ、俺の前に置くと近くの書棚に行き本を選びはじめた。俺がその様をぼんやり眺めていると、彼は数冊の本を選びテーブルにそっと置いた。

「それは?」

 俺が顎で本を指すと、彼はにこりと微笑んだ。

「これは記憶の本。今までここに来た方の記憶をまとめたものです。これは普通、他人ひとに見せたりはしないのですが……」

 意味ありげに俺を見て笑みを崩さずに言った。

「まぁ、これは特別にお見せしてもいいでしょう。あなたとは少なからず縁のある方のものですし」

 俺にゆかりの者の記憶。そもそも記憶などどうやって本になるのか。自叙伝か何かか?

 俺が興味をひかれてその本に手を伸ばすと彼は静かに言った。

「見るのは構いませんが……、これはあくまで人間ひとの記憶です。これを見ることによってあなたの存在意義がなくなるかもしれませんよ。それを覚悟して見てくださいね」

 俺の存在意義がなくなる? そんなものなら出さなければいいじゃないか、なぜ俺に見せる必要があるのか。

 だが……、とも思う。

 今の俺はこの暗闇を歩き回るだけの存在。なぜこの暗闇が俺の世界になったのかも分からないのだ。それがもし思い出せるのなら、構わないか。今だって存在意義なんかあってないようなものだ。

 俺が更に指を伸ばすと、彼はもう何も言わなかった。

 俺は一番上の本を手にとって開く。

 一瞬にして洋館の一室が、その本の世界に変わり、真っ白な銀世界に俺は引き込まれていった。




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