遠い朝
新座遊
死ぬ前に一度熟睡したかったこと
輸送船に詰め込まれて行きついた先が戦場だったのは理解できるがまさか戦闘ではなく病気で死ぬことになろうとはさすがに想像していなかったというのが今まさに死にかけていた当時の俺の実感である。結局魂としては死ななかったからこそ思い出すことが出来るのだがいま改めてこの時のことを思い出すと憤りが先に来て何ら具体的な問題提起までできない自分がもどかしいのだがとはいえせっかく今度は平和な時代にガンで死にかけているのだから当時と今とを比較して死に向かって従容として運命を向かい入れる準備行動としてはそれほど不自然ではなかろう。病床では寝ることと生きることは線形的変化に過ぎず非線形的な死をいつ迎えるかを思って恐れ喚き諦めるサイクルの断面である。武士道は死ぬことと見つけたり見つけなかったりした人々の思いは俺の心に入り込む余地はなく兵士道は殺されることと見つけたりするもんだと言わざるを得ない。今の知識で言えば当時の戦争では戦死者のうち6割から7割は病死と餓死だったとのことでありそのマジョリティの中に俺がいたというだけでなんとなく勝ったような気がするのはもはや価値観の逆転というべきか。ロシア語だとマジョリティというのはボルシェビキというとか誰かが勝ち誇ったように言っていたと記憶するがその記憶はいつのものだったか思い出せない。糞のような共産主義者が周りにいたという記憶なんてどこで拾ったんだろうか。少なくともシベリア抑留の経験は俺のいとこのものだったはずで彼はシベリアで死にかけて日本に戻って共産党に入ったあとすぐに追い出されたはずだ。さて彼は今生きているんだろうか。だいたいロシアに抑留されるのであれば日本陸軍はある程度覚悟していたはずだ。陸軍の戦略目標は明らかに北側にあったのだから。それなのに実際に派兵されたのは今まで考えたこともなかった南方だ。どのように戦力を維持すべきかまったく検討もしなかったくせに聞きかじりの知識を小冊子にまとめてこれで日本は勝てるだのなんだの偉そうにした参謀のバカ野郎がいけないのか。あれ俺は今何を考えているんだろう。
意識が混濁している。
それを自覚しているのだから混濁していない。どっちだ。
俺は死にかけているという自覚だけはある。
心電図が定期的な音を鳴らしているのを感じ取り、かろうじて生きている実感を手繰り寄せる。
戦場の思い出が突然浮かび上がってくるが、もちろん戦争の経験なんてない。
21世紀に生きる俺はまだせいぜい中年であり、戦後世代である。
戦争なんてガンダムで勉強しただけである。
さて俺は寝ていたのだろうか。
脳が無駄な活動をしていたような気がして、妙に疲れている。
この疲れは単に身体の疲れではなく精神的な疲れもある。
入院以来、疲れを感じない目覚めを経験できなくなった。
もちろん病院のせいではなく病気のせいだ。
今思えば、清々しい目覚めというのが人生の最も貴重な瞬間なのではなかろうか。
死ぬまでに、なんとか一度でも、清々しく目覚めるという経験をしてみたいものだ。どうやればよいだろうか。
なんかわくわくしてきた。これは楽しみだぞ。
なにしろ、もはや手術で患部を切除する方法すら放棄された身体である。
苦痛が常態となって久しい。
苦痛は麻薬で抑えるとしても、それはそれで苦痛だ。
身体的苦痛は、あらゆる哲学的考察を大敗させる。
いくら死について考えようとしても、苦痛があった時点で死を望む感情がむき出しになる。
しかしそれでも考える。
これって交通事故や犯罪による死より、まだマシな部類じゃね。
慰めにならないかも知れないが、相対的に苦痛を和らげる理屈はそれなりに麻薬のような効果はある。
少なくとも餓死じゃないだけ、俺は幸せなんじゃなかろうか。
病死だと戦死よりも扱いが軽いから戦闘で死にたいとのたうち回る隣人は今息を引き取った。その苦しみは戦闘ですよと言ってあげたいがもう聞く耳をもたないその魂の抜け殻はすぐに身体から蛆虫を産み続け悪臭を放ち始めるのだ。蠅という生物はいつの間に人間の体に卵を産み付けるのだろうかさっぱりわからない。ちょっと見ただけでは自然発生的に蛆虫が湧いて出ているようだがもちろんそんなことはあるまい。明日は我が身という言葉は全く小学校の道徳の話ではなくジャングルの一部を野戦病院として定義したただの空き地の一角での話なのだ。交通事故や犯罪に巻き込まれて死んだほうがまだマシという事態をどう解釈すればよいのか。畳の上で死にたいなどと昔の人は言っていたようだが残念ながら俺は畳の上を求めるべくもなくとにかく最大限の生きる努力をしてからいや違う生かす努力を専門家である医者がしてから死にたいのだ。そうすればたぶん諦めてふと目覚めたあと笑って死ぬのだろう。
ああ、まただ。なぜ戦地の記憶が乱入するんだろう。戦地メンタルな話だ。
昔読んだ戦記物の記憶が自分の記憶にすり替わったのかもしれない。
だがおかげで、現状はそれほど悲惨なことではない、という納得感を得ることができた。
そうだ、少なくとも戦病死じゃないし餓死じゃない。
文明に守られて、医療に見捨てられることもなく、病室で横たわっていられるのだからね。
そうだった、清々しく目覚める方法を考えるのだった。
普通に考えれば、熟睡して身体を休めたあと、カーテン越しから漏れてくる朝の光に気づいて目を覚ますと清々しいのではないか。
それをやってみよう。
熟睡するには、寝るまで起きてなくてはならない。
違うか。寝ることを意識しなくなるまで起きてなくてはならない。
とすると意識混濁は清々しい目覚めの天敵だな。
まずは眠くなるまで意識をしっかりと保とう。
そろそろ俺の番だと思うのは看護兵の動きを見ていればなんとなく感じるのだがだからと言ってさあ死のうとまでは達観できないし次に意識を失ったときは死ぬ時だと思うとなかなか意識を失う勇気もない。しかしそれは強引に訪れる死神のようなものだからどんなに足掻いても意識を失うときはすぐにくるのだろうとも思う。というとまるで死にたくないのか俺はと自問自答したくなるが現代で死にかけている俺はただ単に清々しい目覚めを経験してから死にたいと思っているだけでそれほど死を恐れているわけではないのだろうと勝手に思う。何しろ戦場で戦病死する俺と比較すればマシな死を迎えるのだから何をかいわんや贅沢な悩みであろう。と考えると思考が空白に近づいてきて洋々と意識が消えかかったし今消えた。
目が覚めた。俺は熟睡していたようだ。
身体的苦痛を感じない目覚め。
久しぶりに健康な気分になる。
この目覚めは大変清々しい。
これで思い残すことはないかな。
心電図が清々しく一定の音を鳴らしていた。
遠い朝 新座遊 @niiza
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