偏屈科学者というのはスリラーやSFに大きな地位を占める。問題は、自分で自分の能力をコントロールできるかどうかだ。 本作での彼は友情を多少は意識できる人間のようだが、してみれば彼なりの(素の意味での)歓迎なのだろうか。歓迎なるものは彼の哲学では無駄ではないのだろうか。違うのか。 答はなかなか出そうにない。