第一幕 五場 再会 前編

 翌日である。


 まだ鶏鳴の聞こえないような朝。

 村長は目を覚ました時、目の前で何が起こっているのか、何が居るのかよく分からず数秒の内、完全に静止していた。恐らく、それは衰弱しきった村長の頭では理解し得ない状況に他ならない。


 何でも無いような朝は崩壊した。風の音さえも聞こえないような。何もない、無の時間は、とても長く感じた。まるで一生を経験しているのではないかと言うぐらいに。

 その実、数秒間のはずが、無限に続くみたいに。輪廻の輪の中にいるみたいに。

 そうだ。そこには、


“奴がいた“のだ。


 村長の寝転がっている真横に、いつものように正座していた。そう。そうだ。いつものように。


 無限とも思えるような時間の中、村長はやっと気がついた。そこからは、弱り切っているとは思えないほどに早く事を理解して、ゆっくりと体を起こした。重たかったはずの身体は、不思議と軽く持ち上がった。筋力も衰えて立っているのさえやっとのはずが、自力で起き上がることに成功した。

 しかし、そんなことよりも今は目の前にいる男のことである。村長は、男と目を合わせる形で対峙した。虚ろな男の目を見た途端に緊張感が走る。というよりも恐怖心といった方が賢明か。


 恐怖心の根源は、その男の目には何も映ってはいなかったからだ。家の中の物や風景などもまるで見えてはいない。そこには村長さえ映ってはいなかった。だからといって、亡くした妻を思い過去に思いを馳せているかと言われればそういうわけでもない。ただ無。男の瞳には、ただ渦が巻いていた。どこかへと続くのか、何処まで続くのかさえ分からないような。これこそ輪廻のような。永遠と続く男の瞳を見ていると、いつの間にか恐怖心でいっぱいになり始めた。



 恐怖心とは人間の心を制する術としては最も理にかなった手段だ。恐怖の元では誰一人逆らおうとはしない。それは、人間と言うよりも生物としての本能といった方が正しい。

 恐れの前では人は太刀打ちすることは出来ない。それは神に対しても同じ。“畏れ”もまた、恐怖の一種だ。


 だが村長はそんなこと分かりきっていた。だからこその、この対峙、先手は村長がとった。

「なぜここにいるのだ。村の皆はどうし……

「妻に、会いたくはないですか」

 村長の決心は、言い切る前に潰された。恐怖を乗り越えた上での言葉のはずが。


 しかし、そんなことは既にどうでも良くなっていた。

 

『妻に会いたくはないか』 だと。


 何を考えているのだこの男。村長は考えた。確かに。この男の妻はすでに死んでいる。敢えて言うならば村長はその死を見届けている。ならば尚のことこの男は何を言っているのかは分からない。村長はそこで気の狂った彼と再び目を合わせたが、さっきとあまり変わらなかったのでやはり嘘なのか。だが、どうにも悪巫山戯や嘘にも思えない。村長の考えはまた逡巡する。


 その間に王手をとったのは男だった。

「村の皆さんも我が妻をもう一目見たいと申し上げてくれました」

 はっとした村長は何も考えず、

「勿論、儂も会ってやりたいさ。会って、面と向かって彼女に救ってやれなかったことを謝りたいのだ。心から」

 村長は、『心から』の言葉を伝えてしまった。謝りたいのは山々ではあるが、今となっては、この言葉は“誤り”だった。


 村長が言ったこの言葉の彼女とは、目の前にいる男の妻と自身の妻の二つの意味があったが村長自身、自分の言った意味を未だ理解できないままだ。意識した発言ではないことを理解できる。


 村長は、とにかく一度落ち着こう。このままでは何も見えることはない。何も分からないままだ。そうやって、ようやく頭を冷やした。そんなふうに少し冷静になった時、その時、村長はようやく気づいたのだ。男の右手に持つ小刀の存在に。――所謂、自決などに用いられる物だ。

 そんなものを、一体どこに隠していたというのか――

 鞘は既に抜かれていて、むきだしになった刃は今更差し込んできた太陽の光をなんとも的はずれなところへと跳ね返していた。


 村長には、それが逃げ場がなくなってきたことで、小刀が笑っているように見えた。考えている時間さえ惜しく、気づけば逃げだしていた。


 間違いない。 殺される。


 この衰弱した体で、真横にいたのにも関わらず、ただ逃げた。村長自身、あのままよく逃げ切れた物だと感じる。わらじは履く暇がなかった。そんなに悠長にしていては殺されてしまう。

 尖った石をいくつか踏んだ村長の足は、もはや中の肉が視認できるほどに抉れてしまっていた。しかし、火事場の馬鹿力とはこの事で、痛みをほとんど感じることなく、走る村長の体はとても軽かった。病など、まるで嘘のようだった。



 生きることへの執着心――もはや愛情とも呼べるもの――とは虫も人間もさして変わらないものであると感じる。

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