第一幕 三場 失った二人
村長にはどうにも不可解で、分からない。いつもならば聞こえる声が、ここしばらくどこからも響いてこないのだ。
あの、夫婦の声だ。
いつもあったはずのものが無くなり、それがしばらく続いていることの異質さに村長は悪寒を感じた。
実際のところ、不思議よりも、寂しさが先行していた。彼らがいたから、あの頃の自分に、あの頃の自分たちに思いを馳せていたのに、思い出せていたのに、あれから彼女の影を追うことができなくなっていった。また、会いたい。もう一度、もう一度でいいから会いたい。
叶いもしない願いを、あの夫婦への心配というある種の大義名分に覆い隠して、いつも通りの生活に戻っていった。
何度も何度も、あの頃の生活に引き戻されそうになりながらも、“今の”いつも通りに戻っていった。
あれから、またしばらくしたある日のことである。男は、またもや村長の家へと来たのだ。というより今回は駆け込んできた。
「今日は何の用だろうか」
今まで姿を見せなかったはずの男がやって来て、何事か。と思いながら尋ねる村長の眉間にまたシワがよる。
つばを飲み込み、口を湿らせた男は、意を決したように、ついに切り出してしまった。
「助けてください、村長殿。妻が病に倒れてしまったのです」
必死の声で訴えかける男は、まさかこんなことにまでなるとは思っていなかったような顔で言った。
妻との約束を、いとも簡単に破ったのだ。
男は、約束を破ったことに対する罪悪感よりも、何故こんな約束を今まで守ってきてしまったのかという罪悪感が勝っていた。
何故不幸な道を敢えて選んでしまったのかということを。
村長は、息をのんだ。
「腹痛などであったならば次は許さんぞ」
眉間にシワを寄せ、その上、男を睨みつける。表面上はこうしているが、村長は、この男のただならない雰囲気を感じ取っていた。これも、いつかの自分の姿と重なっていく。妻が倒れたあの日のようだ。
「今日という今日は本当なのです。どうか、どうか妻をお助けください」
あまりに必死に懇願するものだから、村長も折れて早足で家へと向かうことにした。
あの長い道を走っていく。
男の口ぶりからするに、こと今回は本当のことなのだろう。そう思った村長は、またあの使命感に駆られた。助けなければ。助けなければ。無意識が流れ込んでくる。いつの間にか駆足は疾走と化していた。
また山の中に入り、知らぬ墓の前を通り、またあの祠の前を通る。
気づけばもう夫婦宅に着いていた。今回は何分かかったのかも分からない。息も切れていない。不思議な気分である。
時間や自分の身体さえもなくなったような。不思議な気分だった。
男は息を切らしながら、慌てて戸を開けようとするが、馴れていたはずの建て付けの悪い戸を全然開けられない。仕方なく、戸を蹴倒した。
そこには、いつも通りにあの娘が、床に座して得意の飯でも作っていた。
勿論、こんなことは村長の頭の中にあった想像のこと。どうにかこの想像のようであってくれ、と願う。これもまた妄想、と言うよりも、勝手な希望である。
その村長の眼に映ったのは、まるで炎にでも焼かれているように苦しむあの娘の姿があった。
村長は、何が起きているのか分からないまま、立ちすくんでいる。自身の目に映っている紛れもない事実、現実、真実を。
それは、男も似たような状態だった。きっと、家を出るまでは“こんなこと”ではなかったのだろう。声も出せないまま、泣き叫び喚く姿を見続けるだけだった。
こんなものを見て、正常な思考回路を持つ者なら動けるはずがない。
二人が次に体が動くようになるまでに、とてつもない時間がかかったように思えた。その実、戸を開けてから五秒にも満たない時間だったが、このあり得ない状況下に於いて、必要十分な絶望感を煽るにはむしろ、長いくらいである。
遅れてやって来た絶望感にうちひしがれながら、頭が焦り火照りながらも冷えてきた二人は、次こそ“それ”に近づいて、確認しつつも介抱する。
ま さに男が言った通り、間違いなく病にかかっている。と言うより、むしろこれは鬼にでも取り憑かれているのではないかというほどもがき苦しんでいる。
あんなにも美麗だったその顔は、苦しみで歪み、あんなにも華奢だった腕は、痙攣で打ちつけた痕であろう痣で青くなり、左胸のあたりを必死で抑えていた。
いつのまにか村長も全く同じ動きをしていた。左胸を抑えるような、そんな体勢。ついつられてしまっただとか、よもやこの村において、こんなことが起きるはずがないと思っていたから、でなく、またあのときと重なってしまったからだ。
あのときと全く一緒だった。
何にしたって急ぎ何とかせねばならんがこの村長、村の長であるというだけで医の心得などは持ち合わせていない。何より、この村には現在、医者がいない。この村長は完全に諦めた。
「たいへんすまない。私には君の妻をどうもすることは出来ない。そして君もまた。本当に、本当に、すまない」
手を合わせ、頭も下げ、村長としての尊厳も消し去り、まるで神にでも祈るように、懺悔するように、深謝した。
平蜘蛛のように地に付き、必死に謝る村長の姿を見た男は、醜く暴れまわる女を突
然に抱きしめたのだ。両腕でぐっと。強く。
苦しさできっとどうしようもない彼女の手を取り“夫”は、
「もう大丈夫だから。もう君を止めはしないから。安心して逝けばいい」
そう告げた。
後から涙が溢れ出てきた。自分の言った言葉の意味を、今、理解したのだ。
大粒の涙が夫の頬を撫でるように流れていく。それは、日の光を浴びて、まるで宝石のように輝いていたのを村長は見た。
輝きは、まるで“妻”を照らすように反射する。少しずつ消えていく妻の意識の中で、その目にもまた、宝石が輝いていた。
夫の思いは、死にゆく妻へ届いていた。
また頬をなでるように流れていく涙が、落ちずに今度は口の中に入り込んだ。味は、なにも感じなかった。
直後、妻はさっきまでの地獄のような苦しみが晴れたかのように、少しの寂しさを浮かべた微笑みを見せたかと思うと、閉じていた唇から一言。
「あなた。」
一文字一文字、強く伝えるようにそういった。村長には聞こえなったが、そう言ったように見えた。
それから、もう動くことはなくなった。
村長は、“男”になにか言葉をかけようと思ったが、
「大丈夫です。私は、大丈夫なのです」
死体を抱きかかえたまま男はそう言った。
しかし、先まで妻だったものを見つめる眼はまるで、小蠅でも追うかのようなものだった。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫。」
何度も繰り返している。もう何度言ったのかも分からない。
村長は、それを見て逃げた。
責任や、その何もかもがのしかかってくる前に。逃げたのだ。
村に伝わる葬送の儀さえすることなく。
それから後のこと。男は、完全に正気を失ったと言うよりほかない。
まず、家から出てくることなどない。四六時中引きこもった状態にある。ようやく出てきたか、と思えば、行く者行く者に「妻に会いたくはないか」などと問いかけるもので、もはや火を見るよりも明らかだった。ある村人は村長に、奴を何処かへやってくれ、と頼んだが、
「あの男は妻を失った悲しみのあまり気がどうにかしたのだ。あれを外にやれば、それこそ何をするのかもわからん」
言い切った村長であるがどうにも歯切れが悪かった。聞いた村人はえもいえぬ違和感を覚えた。
村人達の中で、「村長は、あの男の味方をしている。これはきっと何かあるのではないか」という噂が瞬く間に広がっていった。
まるで、あの夫婦が来たときのような、くだらない噂話である。
それは、村長にとってどうでもいいような噂話だが、奇妙な違和感を覚えていた。それが一体何かも分からないまま、時は過ぎていく。噂も、その違和感すらも、風に吹かれたように消えていった。
短い間の他愛もないぼや騒ぎだった。
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