第一幕 二場 夫婦の想い
その年、夏の節のこと。
夫婦は、山の中腹辺りから流れる、上流の川へと向かった。悪い言い方ではあるのだが、つまりは逢い引きである。流れの緩やかな、とてもきれいな川である。その上、ちょうどいい水温だ。
「こんなにきれいな川を、いつも使えていることに感謝したいですね」
そう言いながら、妻は、手にすくった水を口に入れる。真似をするように夫も一口飲んでみる。冷たくて、なにより美味しかった。何度も飲みたいくらいに美味しい。
きれいな水だが、これも貴重な資源であるが故、多くは口に運べない。
「美味しいけれど、ここまでにしておこう。村の皆さんも使う大事な川だ」
夫は、名残惜しい。もとい、口惜しいような顔をしながらこう言った。
「えぇ、そうしましょうおとさま。決して私たちだけのものではありませんから」
またいつものほほえみを向けながら、妻は夫に同調した。
そのままゆっくり砂利の上に座り込んだ二人、特に話すこともないまま、川の潺と、鳥の囀りが、間を埋めていく。そんな二人の間を、川上から流れ込んでくる風が通り抜けていく。ほんの少し水を含んだ心地の良い、涼しい風である。
夏にもなり汗ばんだ体を、水も、風も、空気も冷やしていく。すると、ついさっきまで隠れていたはずの陽がようやく姿を現した。
こんな季節の内は敵とも言える太陽は、妻の明眸皓歯を明明白白映し出して、今日ばかりは奴も私の味方か、と感じた夫である。
こんな、何でもないような時間を過ごすことは二人にとって全く苦ではない。むしろこれも会話の一つである。
しかし、妻にとってあれは変わりなく邪魔者であり、仕方なく日陰に移ることにした。彼女の右手をそっと取って、日陰にでも連れて行こうか、としたそのときだった。
「けほっ、けふ、けふ、げほっ」
突然激しく咳き込み始めたのだ。それが断続的にしばらく続き、力を失ったかのように妻はそこに膝付いた。あまりのことで夫は背中をさすってやることしかできなかった。いよいよ前にかがみ込んだ妻は、最後にはまるで何かが破裂したかのような咳をした。
「大丈夫か、しっかり、大事ないか、気は確かにあるか、もしお前がいなくなってしまったら……」
その言葉の続きはもう分からなくなっていた。夫は完全に絶句していたからだ。より最適な言葉を選ぶとするならば、“絶望”よりほかないであろう。
本来であれば、山や川、という風景空間の中に赤は、まず存在しないはずの色だ。秋の紅葉ならばまだしも、今は夏である。まず見ることはない。しかし、たった今、夫の目にはその存在しないはずの色が、間違いなくそこに存在している。あまりに似つかわしくないそれは、
「血だ。」
何かを思考したわけでもなく、目に見えたものを反射的に言っただけ。
ただ、今、目の前で起きていることを異常と検知するために、頭がどうにかなってしまいそうなほど、突然に機能停止した脳を動かそうとしている。
それが余計に頭を混乱させていた。なんて言えばいいのか、どうすればいいのか、妻はどうなってしまうのか、そのすべてに答えが出せないままになりそうだったとき。ようやく口火を切ったのは、妻だった。
「まただ。」
掠れた、小さな声でこう言った。言葉は続いたような気もするが、確かにこう言った。それから間髪入れずに妻は、
「私は大丈夫ですから。もうなんともありません。何一つ心配なさらないでください。他の人には決して言わないでください」
いつものように変わらないほほえみを魅せる妻だったが、その口元には可憐なほほえみにはとても不似合いな赤黒い液体がこびりついていた。
「…………。」
夫はもう何も言えなくなった。
決して、大丈夫なはずはないのにやせ我慢していることに呆れた、などではなく、何ででもない絶望感と、どこかで気づいてやれなかった自分の罪意識からである。
それに、妻は「また」と言っていた。男といたときもどこかで、こんなことが起きていたかもしれないのだ。
どうにもならないことを、どうにかすることのできない現状を、どうにかするわけでもなく、何でもなく諦める。彼女をおぶさって家に帰ろう。彼女との約束を守って誰にも言わないでおこう。
彼は、目に見えて分かるような不正解を敢えて選んだ。それは絶対に不幸せな選択肢だと理解した上で。
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