第一幕 一場 村長の想い
しばらくの後、そんな小騒動が鎮火されつつあったとき、もうすぐ初夏だろうという頃である。あの夫婦の内、妻が病にかかったのでは、というではないか。男は
医の心得などは無いのだが、熱だとか腹痛だとかの簡単な処置は可能だ。たとえ、もしもの事があったとしても村長が直接看取ることが出来た。村における、葬送の儀である。
そもそもの話だが、恐らく急患であるが故に、隣村まで医者を呼ぶ暇などない。
「村長殿、拙宅まで取り急ぎご足労願えますでしょうか。我が荊妻が病にかかったのやも知れぬのです」
変わらず、あからさまに堅い敬語を用いる男はそう話した。
話を聞いた村長は驚き、駆足であの夫婦の家へ向かった。現在地である村長宅は、村の真ん中にあるのに対して、この夫婦宅は、村の端、山の中である。この村は、村人も少なく、決して栄えてはいない。それは、しかしとして、やけに村の領も広い。そのため、村の真ん中から向かう、とは言っても距離がある。目算、おおよそ一里弱。前に『村長としては年相応』とは言ったが、その通り。この村長、初老そこそこである。そのため体力的な難もある。
しかし、村長は何故だろうか。かの娘を必ず救わねばなるまい、と、不思議と堅く心に思っていた。そのせいか、体力的疲れをあまり感じることはなかった。
どうしても、どうしても救わねば、救わねば。無限に流れ込んでくる無意識によって勝手に、――もはや意識的にとも言えるほど、――足が前へ、前へと動いていく。
山の中に入ってもその意識は流れ続ける。
「こちらから参りましょう。いくらかの近道になります」
「うむ。分かった」
助けたい意識に気をとられて、村長は適当な相槌を打った。
男は、またその奥に見える、森へと続く獣道に入っていく。村長も、それに続くようにまた、オナモミだらけの獣道に足を踏み入れた。
よく考えれば、相手はつい最近村にやってきた、名しか知らぬような娘である。正直なところ、そこまで必死に救うような義理はない。冷たいことを言うようだが、あくまで村長の職務として出向く。うけた使命としてやる、というある意味“季布一諾”なことである。むしろ、村単位で考えれば、資源や土地も無論限りある。いっそのこと、女を助けることなく、死なせてしまった方が楽ではあるのだ。
これについてはあまりにも冷酷であるが、事実として、助けることによって得られる利益はまずないと言って過言ではない。
それが何故。
獣道をしばらく進むと、村長も知っている山道に出た。
たしか、この先は何ともない墓場である。
勿論あるのは、ほんのいくつかの墓と枯れた雑草だけの平地。男が言うには、もう少しで到着するとのことだ。
墓場から、少し移動したあたり、男達が家へと着く手前。苔にまみれた祠を見つけた。
この村は別段氏神などは奉まつることなどはしていない。ここもまたこの村の不可思議さと繋がるが、兎角として、とくに手入れもされていないような、古ぼけただけの祠。
こぢんまりとしていて、心なしか、扉で閉ざされた奥に見える像も、どうにも暇そうに見えた。
神の身分で気楽そうだ。
駆けていく村長はそう感じた。
駆足のおかげか、それともあの獣道のおかげか。十分、十五分ほどで着いた。徒歩ならばきっと、二十分、二十五分はかかったところだ。――そもそもではあるが、いかんせん遠すぎる。村のはずが、何故わざわざ一度山に入らねばならないのだ。仮にも非常時にゆっくり歩いてられない。
さっと呼吸を整えた夫は、少しばかり建て付けの悪い戸を開ける。まだ息を切らしながら――どうやら体は素直で、疲弊しきっているみたいだった――村長は心配げに家へ入り込む。
だがどうだろうか。布団の上に座り込んだその娘は、えらく元気そうな姿であった。
「心配して来てみれば頗る元気ではないか。病とは一体何なのだ」
大きなため息、共に、ほんの少し眉間にシワがよる。
「いえいえ、我が愛妻が腹痛を訴えたものですから。なにかきっと病にかかったのではと思ったものでして」
「いえいえ、あなた。腹痛などはすっかり消えてしまいました。きっと便が滞っていたのでしょうかねえ」
その後、家から早足で出た村長は知人にこう話したという。
「斯くも、おしどり”風”夫婦は困るというものだ。人も巻き込み惚気けだす」
眉間にシワを寄せながら村長は言った。
「しかし、村長よ、何故ああも必死に、あの娘を助けようとしたか。村長である以上はあなたの役目ではあるが。」
知人は、そんな問いを抱いていた。
言いたいことは分かる。要は、資源の問題だ。この村は閉鎖的であるために、水一つ取っても限りあるのだ。一つ先の山を流れる川の上流。この村はそれと繋がっている。
しかし、川と村をつなぐ水路がとても細いのだ。そのため、水は限られた分量しか使うことができない。
食料についても同じ事が言える。山に囲まれ、田畑もあるが、外界とのつながりがないため、これにも限りある。
「そのところ、儂にも分からんのだよ。きっと、私の義務云々ではなく、あの娘に何か、重なって見えたのだろうよ」
自嘲気味に話す村長だが、もとよりなんら間違った真似はしていない。ただ、何かが重なった(まるで誰かの面影のような)女を救おうとしただけである。
それは別として、何を隠そう、この村長はあの夫婦に何かあるのではと考察した側の人間である。だが、勿論二人には何もあるはずがない。少々腹の立つ程に愛の深い夫婦であるだけなのだ。
この後から、考察派の村人達は、やはり杞憂であった。と、結論づけた。若干一名、露骨に納得のいかない男、もとい村長を残したまま。
それからもまたしばらく夫婦のおしどりっぷりは目を引いた。
村長宅に二人揃ってやって来た、と思えば、先日の礼ならまだしも、ちゃんとご紹介できていなかった、などと言うのでなにをかと思えばなれ初めなどの惚気話をわざわざしに来たのだ。
さらに、外で出会うと、その場で露骨な甘言密語。また家に来たかと思えば、私の妻の手料理を食べてくれ。
まったくもって迷惑千万、甚だしい。一体奴らが何をしたいのかも皆目分からない。村長はそう思っていた。
そんなことを、ほかの村人にもしているらしいのだが、周りの話を聞くに、評判はいいらしい。そんな風に言っている奴は、きっとえらく調子のいい奴らだろう。斜に構えた村長は、取り入るにしたってもう少し抑えられんのか、と考えていた。
明らかにあの夫婦を評価しまいとする村長は、やれ苦手だの、困るだの、言ってはいるが、時折、彼らにとても優しい眼差しを向けることもあった。それは、懐かしさであったり、悲しみであったり、羨望であったり。ひとえに、“感慨深い”のだ。
なにしろ、村長は数年ほど前に妻を亡くしていた。
病死である。
確かに、必死に妻の病の心配をするあの男に、病になってしまったのではないかというあの娘に少しばかり感傷を馳せた。というよりも、感じてしまった。要は、今よりもう少し若い頃の自分(達)と重ね合わせたのだ。
今思えば、きっとあのときも、いつのまにか重ね合わせていたのだろうか。
いつか失ってしまった思いを、今更浮かべてしまった。どこかに消えてしまったと思っていた、そんな思いがまだ自分に残っていたことに、恥ずかしさというより、何より悔いが現れる。
村長はそう考えていた。
だからどれだけあのふたりに苛立たされようと、悪態をつこうと、彼らのことはなんだか昔の自分と彼女を見ているようで、どうにも嫌いになれなかった。
昔は自分もああだったのか、もっと見ていたい、私たちの代わりにもっと幸せであってほしい――まさしく、亡くした女への想い。妄想、である――。不思議とそう思ってしまう。
それと同時に、かけがえのない妻を守ってやることが出来なかった自分に、夫としての宿命を果たせなかった自分に、不甲斐なさを感じる。
彼らへと向けていたはずの苛立ちはいつからか、過去の自分への怒りへと姿を変えていった。
それを今更分かったところで、何一つ村長の今後に変わることなどない。
これによって、変わったことを強いて言うならば、あの夫婦への態度である。要は、矛先が変わったのだ。
それからも何度か、夫婦で村長宅へ押しかけてくることもあったが、いつもの眉間のしわは、無くなり、次第に笑顔になることも多くなっていった。
男と他愛もない雑談をしたり、女の作った料理を、うまい、と言えたり、村長は変り始めていた。
それは向こうの夫婦も似たようなもので、気むずかしかったはずの村長の印象が変わり始めたことに驚きと喜びがあった。
「村長殿はここしばらくでえらくお変わりになられましたね。」
いつも通りの下手下手の敬語で男は笑いながら話す。
「私もそう思います。なんだか、村長様がもう一人いるみたいに」
こちらもいつも通り男に合わせているが、村長としては、図星を突かれたような気分である。なにかが、晴れたのだ。
でもそんなことは気恥ずかしくて、とても言えなかった。照れ隠しなんだか、恥隠しなんだかまるで分からないが村長は、
「喧しい。儂は何一つ変わってなどいるものか。ただ、ただ、全てを受け入れただけだ。昔も、今も。全部を」
なんだか気まずそうな笑みを浮かべて夫婦の方からゆっくり視線を背けた。
それに気づいた夫婦は二人目を合わせてくすくすと笑う。
普遍的で、他愛もなく、何処にでもあるような幸せが、三人にはもっとふくれあがって感じていた。
「そういえば。君達は隣村から駆け落ちたのだったな」
村長はふと、以前に聴いた覚えのある、馴れ初めについてを持ち出した。
「えぇ。そうなのです」
また微笑む女の言葉を奪うように男は、
「かくて、様々な事情があり、現在はこの集落に落ち着いている所存です」
変わらず、変わった敬語を話す男もなにか思い返すように、ほんの僅か宙を見上げるようにしていた。
「今日はもう遅くなってしまった。気をつけて帰りなさい」
帰りの挨拶を切り出したのは村長だった。
「本日はどうもありがとうございました。暇があればまたお邪魔させていただきます。では、また明日。」
立ち上がり、夫婦そろって深くお辞儀をしながら、やはり重い敬語で別れの言葉を話した。村長は、家まで送っていこうかとも思ったが、余計なお世話、且つ、余計な親心だったのでやめた。
「あぁ。また来るといい」我が友よ。と続けようと思ったが、これもまた照れくさくてやめてしまった。
村長に背を向けて帰って行くあの夫婦を見ながら、私はこうやって生きていくよ。見ていてくれ。そう心に語りかけながら、明日に続く今日は終わっていった。
「また、明日。」
誰かに向けたわけでも、況してや自分に言ったわけでもない、そんな言葉は真夜中の静寂に鈴の音のように響いた。そう聴こえた。
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