百合環情異譚
夏冬春秋
第一幕 開演
第一幕 前語り 事の始まり
今は昔の春のことである。
どこぞかで住んでいた若い夫婦は、つい最近この村へと越してきた。
この村、名を百合村(はくあいむら)という。そこそこ川の近い村である。
夫婦はまさに、理想の夫婦像を体現したものだった。妻は夫のため、夫は妻のため。お互いにとても深く愛し合い、お互いに必要不可欠であった。
愛といういわば。目に見えぬものが色濃く映し出されている。どんな人間にも、所謂“愛の形”というのは存在するもので、形のはっきりしたもの、色のはっきりしないもの、あるいは形も色も存在しないもの。これもまた一つの形である。
愛の形とは、すなわち、その人間の生み出す一種、芸術である。この夫婦の生み出した“愛”は、一つの完成形とも言える。鮮やかな色を持ちながら、無駄のない形をした、きっと、最も美しい愛の形。
しかし、それも傍から見れば、少し出来過ぎているとも感じたものだ。これは筆読者に至っても然り、「そんな夫婦などはいるはずがないだろう」と悪態をつきたくなるものである。つまり彼らには、何らかの事情が有るのでは、と考察するような者もいたそうだ。毀誉褒貶。とまでは言わないが、勝手な憶測から、何から、いろいろ飛び交った。
勿論のこと、こんなことは蛇足である。そんな小騒動のあるとき、何処の村にもいるようなちょっとした噂好きが、興味本位でいざと聞いてみたのだ。別に、聞いてどうしようということもないのに。
「つまるところ、あんたらには何かあるのかい。そら一体なんなんだい」
すると男の方から、
「私達は至って普通の夫妻でございます。どこかしこの夫妻と何ら変わりなどございません」
女は、喜色満面、大きく一度頷いた。
噂好きは、無駄に大きな声で、村中に男の言葉をばらまいた。すると皆それを信じた。それからというものだ。村の中で見るからに良妻良夫の二人のことを疑いみるものは、ある程度少なくなった。とは言っても、人間とは、一度疑いだしたらきりがないくらいに深い。口でどうこうと言おうが、心の奥底、脳の奥底では実際のところ、何を考えているのか分からないものだ。
これはすべての人間の共通事実である。どんな人間でも腹の中がどんな色をしているのか窺い知れるものなど、当人より他にはないのだ。
先述として、“愛の形”についてを書いたが、これにおいても言える話である。
どれほど美しい形をしていようが、必ず、光が当たらない部分が出てくるのだ。つまりは、影。その影に、一体どんな色が浮かび上がるのか。人間の本心とは、それである。だが、影は、影であるが故に、その色は黒である。そこに、どうにかする術はない。影の中にも色はあるが、影は影なのだ。例え、あの夫婦であろうと。影のない人間などは存在しない。してはならない。
疑うこととは、相手の色を窺うことだ。
しかし、この村の住人は、斜に構えたものがどうにも多い。腹を探らんと気でも済まないのだろう。
本題から少し逸れてしまったのだが、つまりは、あの夫婦も実際のところ何を考えているのかも窺い知れない。ごく一部の村人の中で、これもまた共通事実の一つとして加わった。
この百合村、川の近い割には、豊かではなく、かといってそれほど貧しくもない。村の人間もそこまで多くはないものの、自給自足はできる程度には問題なく、その割には、やけに広いだけの村である。
高くそびえる山の間、深い谷間にこの村は位置している。隣村からはおよそ十里と少しという、外界からはほとんど乖離されたような、所謂秘境と呼ばれる場所だ。
そんなところへ、ふらふらやって来た夫婦を村人達はどうにも歓迎しなかった。と言うより、むしろ不審がった。
何故こんな集落へと足を踏み入れたのだろうか。なにか事情でもあるのだろうか。人が少ない分、食料だって少ない。早く追い返すべきだ。
夫婦に関する話はまだまだ至る所から聞こえる。
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