第四章 ―― 暁に響く 其の二


       ◇◆◇

 

 ――どぉおおおおん。

「始まったか」

 遠くで鳴り響く爆音に、陽雨は音の上がった辺りを振り返り仰ぎ見た。

「月緒は、大丈夫だろうか?」

「その話を今さらしても意味がない。今は進むことだけ考えろ」

 未だ後ろ髪を引かれる桐悟に、陽雨は鋭く目を向ける。

「それに、月緒はこと多対一ならわたしよりも上手く戦える。心配は無用だ」

 そして――しかしその目に揺らぎを見せつつ――陽雨は城の塀をじっと見つめた。

 ここは城の裏手。桐悟の話では塀を隔てたこの先に、城内から裏庭に出る勝手口があるとのことだ。

『おい――!』

 そのとき、壁の向こうから話し声が聞こえてくる。

『おまえも来い、早く!』

『へ? ここの見張りは?』

『いいから、今正面が大変なんだよ!』

『わ、分かりました、直ちに』

『急げ!』

 そしてばたばたと足音が去っていった。

「――わたしたちも動くぞ」

 人の気配が去ったことを認め、陽雨は脚に力を籠める。

 そして跳躍すると、塀、街路樹、塀へと――た、た、たんっ、と次々に足を着き、高くそびえる塀を跳び越えた。さらに裏庭に着地すると庭木に縄を結い、それを桐悟のいる向こう側へと放り投げる。

 ――さすがは名高い義賊。

 桐悟はその手並みに感嘆しつつ、縄を伝って塀を乗り越える。そのときにはすでに、陽雨は薄く勝手口を開いて城内の様子を窺っていた。

「どうだ?」

 素早く陽雨に近寄り、訊ねる。

「とりあえず、人の気配はしないな」

「好機だ」

「ああ、行くぞ」

 そして陽雨は、勝手口の木戸を開け放った。

 

 城内は広々として、しかしがらんとしていた。見える限り人影はない。気配は方々に感じるが、兵士のほとんどが正面へ集中していることだろう。

 ふたりは桐悟を先導に壁から壁へ、曲がり角では注意を払って気配を探り、また、交戦を余儀なくされた場合は速やかに眠ってもらった。慎重に、迅速に進んでゆく。

「苧環と裏白はもう動いているだろうか?」

 何度目かの曲がり角で、桐悟は陽雨を一瞥して訊ねる。

 その言葉にぴくりと眉を寄せた陽雨は、僅かに首を振って答えた。

「どうだろうな。……いや、動いてるとしたらとっくだろう。逃げてないといいが」

「苧環に関してはないと思う。体面がある」

「それは安心だ」

 そうしてふたりは、廊下の角より駆け出してゆく。

 

 ――暮日崎を潰すに当たってやるべきことは、大きく分けてふたつある。桐悟の妹――石蕗白樺しらかばの救出と、苧環に連なる官吏の捕縛、追放、または誅殺だ。

〝誅殺〟と陽雨が――努めて冷静に――言うのに対し、ふたりの心的外傷を慮る桐悟は口を挟んだ。しかし加減して危機に陥るわけにもいかず、〝なるべく殺さないで済むように〟とだけ約束を交わし、話は進む。

「苧環は必ず捕らえろ。後は気にするな。逃げる者は追わなくていい」

 首魁と目される苧環の確保は、なによりも優先されることだった。しかし陽雨は続けて言う。

「そして裏白玄也も可能なら捕らえたい。……と言うより、これの相手はわたしがするから迂闊に触れないようにしてくれ」

「裏白玄也?」

 桐悟は首を傾げる。いち研究職の城勤めを苧環と同列に語ることに疑問を覚えた。

「あいつは……なんと言うか、放っておいたらまずい気がするんだ」

 陽雨は「ただの勘だけどな」と言ったが、その神妙な様子に桐悟は押し黙って頷いた。

「まあ、あの男はわたしに会いに来る。そんな気がする」

 得体の知れない黒尽くめの男。そんな彼に陽雨は〝不吉〟を感じていた。放っておいては駄目だと警鐘が鳴り止まない。

 白い雪山に佇む悪夢のようなその容貌を思い返し、陽雨は目を鋭く細めた。 

 

 そして再びふたりは立ち止まり、桐悟は廊下の奥を見据えて言う。そこには地下に続く短い階段と一枚の扉があった。

「あれが座敷牢だ。妹はここにいるという話ではあるが……」

「移動させられてる可能性はあるな。いなかったら兵を脅して聞き出すしかないか」

 逸る桐悟を押し留め、陽雨は慎重に気配を探る。そしてそれを確認し、桐悟に視線を飛ばして頷いた。

 そしてふたりは最後の直線を駆け出す――と、瞬間。

 陽雨は全身をぶるりと震わせ、駆け出した勢いのまま身を翻し反転させる。そしてその先に青の刀――〝宵空〟を突きつけて身構えた。

 桐悟は遅れて振り返る。その先には、闇よりなお昏い影があった。

「裏白、玄也――」

「覚えていてくださいましたか。恐悦至極に存じます」

 全身を――その尻尾まで――総毛立たせて陽雨はそれを睨み、それはしかし柔和な笑みで陽雨の視線を受け止めた。

 ――いつの間に。

 陽雨は思う。己が気を抜いた間などあっただろうか?

「陽雨!」

 桐悟も隣に立ち、刀を構える。対峙して彼にも分かる。この男の姿かたちが、立ち居振る舞いが、纏う空気それらすべてが〝不吉〟そのものであると。

「石蕗桐悟さまにおかれましては、このたびは誠にご愁傷さまでございます」

「……おまえも父を死に追いやったひとりか?」

 苧環とつるんでいた男だ。苧環と共謀したかと桐悟は敵意を向けるが、その視線も柔和な笑みで受け流される。

「いえ、お父上のことに私は関与していませんよ。私は政治家ではなく研究者ですがゆえに」

 ふたりは僅かに目を見開き、しかしすぐに訝しげに睨み据える。

「おや、信じてはいただけませんか? その証拠――となるかは分かりませんが、妹君はその奥でおひとりで・・・・・お待ちですよ」

 今度こそふたりは驚きに目を見開く。その言葉は嘘ではないと、不思議と思えてしまった。

 それでも警戒を解くわけにはいかない。この男の狙いがまるきり分からない。

「……無事なんだろうな?」

 桐悟が訊ねる。

「もちろん。今は見張りもおりません。人手不足なもので全員正面に向かっております」

 言いながら、裏白は陽雨に向き直った。

「月緒さまといいましたか。彼女、凄いですね。雪崩を受け止めたこともそうですが、城に仕える兵士たちがまるで塵芥ちりあくたのようだ」

「そいつはどうも」

「彼女にもあとでご挨拶に伺いますが、まずは陽雨さまにお会いするべく、ここで待たせていただきました」

「……なにが目的だ?」

「いえ、単純にお話と――あとはご協力いただきたいことがありまして。私はあなた方に興味があるのです。照葉さまと榊柳人さかきりゅうとさまのご息女である、あなた方に」

 それを受けて、陽雨は一歩後ずさった。

 ――この男はいったいなにを知っているのか?

 陽雨の様子に桐悟は彼女を庇うように半身に隠す。と、裏白の目が桐悟に向けて細められた。

「あなた、まだいたのですか。あなたはとっと妹君を助け出して、この場から消えていただけませんかね?」

 そして柔和な笑みから一転。苛立たしげな目で裏白は桐悟を見据えた。

「――なにを!?」

「見張りを外したこと、妹君が無事なこと、ご理解いただけませんか? 端役がちょろちょろしてると鬱陶しいんですよ」

 その豹変に桐悟は怯むものの、僅かながらに理解した。

 ――この男は嘘を言っていない。

 この男の興味は陽雨と月緒にのみある。苧環とつるんでいたことも恐らく利害が一致したからだ。政治的な云々とか、石蕗菊路の謀殺とか、石蕗白樺を人質にとってどうこうとかは埒外にあるのだろう。念願叶って陽雨と接触できた今、それ以外のことなどもうどうでもいいのだ。

「貴様!」

 言い草に、陽雨が声を荒らげる。それを桐悟は手で制した。

「陽雨。ここは乗っておこう」

「桐悟!?」

「あいつの言うことはたぶん本当だ。きっと逆らっても好転しない。ここで問答をしている時間もないはずだ」

「…………」

 陽雨は押し黙り、桐悟と、裏白と、そして背後の座敷牢への扉を順に見る。中の気配を探るも、少なくとも大勢の兵士が待ち構えているということはないと判断できた。

 それは好機と思える。少なくともここでひと騒動起こしてしまうよりかは、桐悟の提案は理に適っていた。

「それにおまえ、あいつに訊きたいことがあるんだろ?」

「それは、しかし……」

 ――己の知りたいこと、父と母のことを裏白玄也は知っている。雪山で対峙したときにも思い、今この場で確信した。

 打ち合わせの際に言った『裏白の相手はわたしがする』とは、話をするということも含まれていた。

 全部ひっくるめても裏白の誘いは好都合ではあった。それでも踏み出せないのは、桐悟をひとりにできないことと、あとは〝勘〟である。嫌な予感とか、虫の知らせとかそんなものではない。〝天威の勘〟であった。

 それでも今は踏み出さねばならない。今はもう信頼の置ける仲間と言うべき桐悟を信じ、意志を込めて頷いて裏白玄也と対峙した。

「裏白玄也。あんたの話につき合ってやる」

「重畳。ありがとうございます」

 そう言って、恭しく腰を折る裏白。そして「ついてきてください」と陽雨を促し、もはや桐悟の存在など気にしたふうもなく座敷牢の反対側へと歩を進めていった。

 陽雨は桐悟へ振り返って告げる。

「終わったら、月緒を頼む」

「…………分かった」

 それに即答できずに、しかし重く頷いて、桐悟は牢への階段を下った。

 

       ◇◆◇

 

 焼け落ちた城門の内側。広がるのは大きな前庭だ。水路が走って池に溜まり、ところどころに樹木が立つ。薄く積もった雪が美しく映える、立派な庭だった。

 しかしそこは今、まさしく戦場という体を成していた。大勢の兵士たちが倒れ伏す、その中央に立つのは銀の狐の少女であった。

 

〝弓を引き、放つという儀式〟を経て風の衝撃を射ち出す技――〝翠羽みどりば〟と、扇を用いて突風を生み出す技――〝迅薙はやなぎ〟。

 月緒はこのふたつを使い分け、次々に敵を撃滅していった。特に〝翠羽〟は遠くまで飛ぶこと、〝力〟をあまり使わなくて済むこと、そして殺傷能力があまり高くないことから有効に働いた。

 遠くからひとりひとりを――まず弓兵と、その弓を狙って――射かけ、それでも漏れる一団へは扇をひと振り。三面六臂の活躍を見せる月緒に、逃げ出す兵士も数多くいた。

 彼女はそれをあえて見逃す。『逃げる者は追わなくていい』と姉から言われていた。しかしながら『偉そうなのはなるべく逃がすな』とも聞いていた月緒は、なんとなくそれっぽい者を昏倒させた後に手早く拘束していった。

 そして射て、薙いで、射て、縛って、薙いで、射て、射て――

 どれほど経っただろうか。気がつけば、月緒の周りは静かになっていた。

 

『終わ……った?』

 息を弾ませて、呆然と月緒は呟いた。途端に足から力が抜けて、ぺたりと膝を突いてしまう。

 荒い呼吸にも、指先の痛みにも今さらのように気づいた。右手を見ると、弦と幾度も擦れ合ったその指先は血に濡れていた。

『上手く、できたかな?』

〝力〟を指先に集中させる。とりあえずの止血をした月緒は辺りに視線を這わせた。

 月緒を中心に倒れ伏す兵士たち。死者はいないはずだった。気絶と、加えて骨折くらい。塀の外まで吹っ飛ばした兵士と逃げた兵士を顧みながらざっと数を数えてみるが、大戦果と言っても過言ではないだろう。

『褒めてくれるといいな』

 深く、息をつく。姉を想って笑みが零れた。

 しかし呆けている場合ではない。陽雨と桐悟が加勢に現れなかったということは、城内ではまだ決着がついていないということだろう。いや、もしや丁度終わったころだろうか?

 月緒はそれを確かめるべく今度は額の辺りに〝力〟を集中させ、そして姉の気配を探った。

 ――天威の姉妹である陽雨と月緒。〝引かれ合う〟とでも言えるだろうか、ふたりは〝力〟をもってお互いの大まかな位置や気配を――ある程度の範囲内なら――察することができた。

 そしてそれによれば、陽雨はまだ城内にいるらしいことが分かる。月緒は、難しい顔になって眉を顰めた。

 彼女の頭に浮かんだのはいくつかの選択肢だ。ひとつ。このまま城に入り込み、ふたり――いや、三人との合流を試みる。ひとつ。一度ここから離れて、ふたりが侵入した裏口に回る。ひとつ。事前に決めていた集合場所――石蕗白樺を匿ってくれることになっている、信頼の置ける者の営む旅籠屋に向かう。と、三通り。

 頭を巡らせた月緒は、このまま城に入り込むのはまずいのではと考えが行き着いた。

 月緒が戦場に出るのはこれが初めて。ゆえに経験から得られる〝勘〟が鈍い。開けた場所で敵を討ち滅ぼすことは上手くできても、狭い城内で不意打ちをかけられれば危機に陥るかもしれない。月緒は己と己に降りかかるであろう事態を分析して、そう結論づけた。城に入るなら陽雨と桐悟がすでに通った道を行くべきだ。

 ならばここに居続ける理由はない。ひとまず城外まで退こうと脚に力を込めて立ち上がり、踵を返して――

「撃てっ!」

 怒声と、次いで放たれる幾つもの破裂音が月緒の耳を貫いた。

『――っ!?』

 月緒は振り向きざま、咄嗟に扇を振るう。しかし放たれたそれらは風の防壁を容易く引き裂き彼女に襲いかかった。

『きゃあっ!』

 それらは風に逸らされ、月緒の傷は辛うじて軽傷にとどまる。

 そして突然のことに動転しながらも、月緒は傍にあった木の陰に飛び込み、身を潜めた。

『――火縄!?』

 木陰から窺う目に映るのは、一列に並んだくろがねの筒先。城の入り口付近には二十人ほどの兵士が前後に並び、前列の兵士は火器をこちらに向けて身構えていた。

 月緒は驚きを露わに硬直する。火縄銃は高価な兵器であり、このような小国には相応しい代物ではなかった。また、桐悟もこれには触れていなかった。きっと彼も知らないことであったに違いない。

『それにあの人、たしか苧環って――』

 そしてそれを統率していたのは、桐悟とその父を追いつめた張本人だ。『必ず捕らえろ』と姉が言っていたひとりである。

 ――ぱぱぱぱぁん。

 木陰の月緒に向けて第二射が放たれる。慌てて顔を引っ込め、飛び散る木片に身を竦ませた。

 ――どうしよう。

 高鳴る鼓動を抑えつけ、月緒はなんとか思考を纏める。

 手にあるのは扇だけ。第一斉射にて弓が折られたために狙撃はできない。いや、無事だったとしても全ての兵士を射ち倒すことは叶いはすまい。

 ――退くべきか?

 ここから城門の外まで辿り着けるか? 風の防壁もいくらかは役に立ちそうだ。二度ほど斉射をやり過ごすことができれば目はありそうだ。

 そして己の――陽動としての役目はすでに終わっている。陽雨も『無理せず逃げろ』と言っていた。これ以上ここに居続けるのは得策ではない。

 ならば、と月緒は腰を浮かした。ぼやぼやしている暇はない。倒れた兵が昏倒から覚めてしまえば絶体絶命である。

 ――と、そのとき。ある事柄が脳裏を過ぎる。それは、この銃器すべてが陽雨と桐悟に向けられる事態だった。

 未だ姿を現さないふたり。城内のことがすぐにでも片付くのならばいい。しかしなにかに手こずっているのなら――

 ――それは、まずい。

 浮かした腰が、また落ちる。

 そして第三斉射。びくりと肩が震え、背を預ける木が穿たれていくのを感じた。

 逡巡が渦を巻く。逃げることも留まることもできない。

 ――ならば。

『――お姉ちゃん』

 月緒の震える右手が、積もった雪に爪を立てた。

 

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