第四章 ―― 暁に響く 其の一
真円の月が雪山を皓々と照らし出し、三つの人影を浮かび上がらせた。
人影は黙々と雪原をゆく。それらはどれも物々しい雰囲気を醸し出し、そしてひとつひとつ雪原に足跡を残してゆく。
石蕗桐悟はそのただ中にいた。彼は軽装ながら具足を身につけ、腰に刀を、右手に松明を、肩に羽織をかけて前を行く陽雨を見ていた。
いや、正しく言えば桐悟の視線は陽雨の腰もとに注がれている。そこにはひと振りの短い刀が差してあった。その視線に気づいた陽雨はそれをすらりと抜いてみせる。
「小太刀?」
「銘は〝
〝天威の守り刀〟と聞いて桐悟は首を傾げる。この場に引っ張り出すほどにその刀には特別な何かが秘められているのだろうかと思うが、その答えはすぐに陽雨によって語られた。
「とは言ってもただの刀だよ。父さんが母さんに贈ったものだ」
「お父上が」
ただの刀と陽雨は言ったが、なるほど、月光に冴えるその刀は天威の護剣に相応しい業物だ。
しかし、桐悟の視線に込められた疑問はそのこととはまた別のことである。
「でも、おまえが刀を持つ理由はないんじゃないのか? なんでわざわざ」
「まあ、念のためと言うか……今度ばかりはちょっと、な」
陽雨は小太刀を鞘に戻し、「ちなみに、これだけじゃない」と言って右腿のあたりをぽん、と叩く。微かに金属が擦れる重い音がした。それは暗器の類いで、腿以外にも複数の箇所に仕込まれていると言った。
桐悟はごくりと唾を呑む。その〝念のため〟を『大袈裟だな』と笑い飛ばすことなどできるはずもなかった。今から自分たちは、一国に喧嘩を売りに行こうというのだから。
後ろに視線をやると、そこには月緒がいる。いつも微笑みを絶やすことのない彼女は、今は口もとを引き結び、よく見れば僅かに身体を強張らせている様子だった。
そして長大な弓を強く握り締めている。いつもと装備が違うのは彼女も陽雨と同じであったが、弓を持つ月緒は弓兵の装いというわけではない。あるのは弓だけで、それ以外はいつもの着物姿だ。そこには
弓を携えながらも矢を持たないことに桐悟は疑問を覚えたが、月緒は微笑みながらこくりと頷くだけであった。陽雨がなにも言わないところを見ると、これでいいのだろう。
と、そこで陽雨が立ち止まり、手を上げてふたりを制する。
「桐悟、火を消せ。見えてきたぞ」
桐悟ははっとして松明を雪に突き入れた。じゅ、と音がしてあたりが一段と暗くなる。
そして桐悟は陽雨の隣に立ち、眼下を眺めた。その先に見える山の麓には、暮日崎に繋がる林の手前に広がる小さな集落があった。その集落には――〝霊山の狐〟の結界に踏み込まない範囲で――木を伐ったり、獣を狩ったりして生計を立てる人々が住んでいる。
だがそこにはいくつも篝火が焚かれ、深夜にもかかわらず大勢の人影が認められた。
「大楠さん、うまくやったみたいだな」
「……隊長」
思惑通り、と口の端を吊り上げる陽雨と、畏敬の念に目を細める桐悟。月明かりと篝火に照らされる集落には、ざっと百人を超えるほどの人影が認められた。
――あのとき、陽雨が大楠高仁に言った台詞は以下の通りだ。
「二日後の夜、〝霊山の狐〟は
この言葉を聞いた大楠は驚きに目を見開き、そして難しげに眉間に皺を寄せ、その後に、
「相分かった」
と頷いて踵を返し、困惑する兵士たちに有無を言わさず撤退を命じた。そして、
「桐悟を、頼む」
とだけ残して大楠も暮日崎へと去ってゆく。
桐悟は何も言わず成り行きを見守っていた。陽雨がなにを言ったか、大楠がなにを理解したかは、つまりはこういうことだ。
――二日後に暮日崎を潰すから、戦意のないやつを国から離れたところに固めておけ。
「しかし、よくもまあここまで集まったな」
百人近い兵士たちを眺めて陽雨が言う。
「それだけ今の国の在り方に疑念を抱いてる人が多いんだろうな」
頷いて、桐悟も感慨深げに言った。
「桐悟。残りはどれくらいだ?」
「……あそこに見えるのよりはちょっと多いくらいかな。でも隊長が城から連れ出せなかっただけで、国のために死ぬ覚悟のある人間はそんなに多くはない……と思う」
「ふむ」
陽雨は思案顔で顎に手を当てる。眼下にいる以外の、ほとんどの兵士が今現在城に詰めているということである。今のところ想定した事態と大きく差異はないが、果たしてどうなるか――と、桐悟は陽雨の横顔を見つめる。
「まあ、やることは変わらないか」
そして頷いて身を翻し、集落を迂回する道を辿り始めた。
「事前の打ち合わせ通りにいく。足もとに気をつけろ」
そして松明の消えた、月明かりだけの山道を下っていった。
◇◆◇
「――ふあぁ」
「おい、気ぃ抜いてんじゃねえよ」
「いや、だってなぁ」
言葉を交わすのは城門の前に立つふたりの兵士だ。眠たげに目を擦る男は、手にした六尺棒にもたれかかり、気だるげに夜空を見上げた。
「〝霊山の狐〟が攻めてくるなんて冗談だろ?」
そしてもうひとつ欠伸を零すのを、隣の相方は目で咎める。
「俺もにわかには信じられんが、しかし話の出所は大楠さまだっていうじゃないか。あの人が言うんなら、確かなことと思うがな」
「まあ、俺だってそうは思うが」
「当の大楠さまだって百人連れて銀麗山に向かったじゃないか。これでなにもなかったら責任問題で逆に大変だぞ」
「来ても来なくても大変なのか。大楠さまも大変だ」
他人事のように呟いて、しかし門番の男は一向になにも起きない、遠くから戦いの音も響くことのない静かな夜に、いまいち緊張感が持てずにいた。
「大変といえば、石蕗桐悟ってどうなった?」
「知らん。大規模に捜索されたが、足取りを掴む前にこの騒ぎだからな。……石蕗の御当主がそうされたように、彼も腹を切らされるんだろうか」
「反逆は企てただけでも死罪だからな。しかしあいつが反逆って、それこそ嘘だろ?」
「その真偽が俺に分かるはずないだろう。が、まあきな臭さは感じるが」
義賊〝霊山の狐〟と共謀して国を混乱させた、と触れ込みはあったが、桐悟を知る兵士たちは一様に首を傾げた。若くして――家柄が手伝いもしたが――対策隊副隊長を務めた男である。
「なーんかほんと、この国になにが起こっているのやら」
「それを言うな。俺たちにはできることしかできんのだからな」
「できることねえ。ここで突っ立つこと以外にも、なんかあるのかね?」
「〝霊山の狐〟を捕まえて一旗あげればいいんじゃないか」
「馬鹿言うな。それができたら苦労はしねえよ」
苦笑いに顔を歪めて、城で大騒ぎの義賊を思い描く。しかし彼は〝霊山の狐〟陽雨の姿を見たことがなかった。
「なあ、おまえ〝霊山の狐〟って見たことある?」
「まあ、一応」
「変なかっこしてるけど、若い娘だって噂は本当か?」
「……俺が見たのは遠くを走ってるのをちらっとだけだから、よく分からん」
それは陽雨が、民家の屋根の上をひょいひょい飛び移っているところであった。
「なんだよ、そりゃ」
「嘘は言ってない。が、すごい勢いで飛んでいったな。あれはとても捕まえられん」
「へえ、世の中には凄い娘さんもいたもんだ」
男は噂話を思い返す。金髪に獣の耳と尻尾をくっつけた、希代の女盗賊。麗人でありながら何人もの兵士をあっと言う間に薙ぎ伏せた豪傑で、町人からは高い人気を誇っている。
男は、浮かぶ満月を見て息をついた。
「〝霊山の狐〟って、なにが目的なんだろうな」
「――悪いが話せば長くなるんだ」
「そこをなんとか掻い摘んで――って、へ?」
軽口を叩いていた男は、聞こえた声が女性のものであったことと、隣の相方の身体がぐらりと傾いでいったことを同時に気づく。
そして、代わりにそこに立っていた人影を捉えて、驚愕に目を見開いた。
「れ――〝霊山の狐〟!?」
男は慌てて六尺棒を構えるものの、視界の端から別の人影が突っ込んできたと認めた瞬間、腹に鈍い痛みを覚えて意識を手放した。
◇◆◇
刀の柄尻を門番の具足の隙間に叩き込み、昏倒させた桐悟。
それを見届けた陽雨は己の倒した門番の手を手早く縛り、門より離して転がした。
「今のところ順調か」
「順調と言えばそうなるが、門番の数が少なすぎる。分けるよりも固める方針で対策してるはずだ」
陽雨と同じように、門番の自由を奪った桐悟は城門を見上げて言う。その中には大勢の兵士が詰めていることだろう。
「…………」
陽雨は厳しげに目を細めるも、しかしすぐに月緒に振り向いた。
「月緒。あと、頼む」
そう言って、陽雨は月緒の華奢な肩にその手を置いた。
――陽雨と桐悟は、この場に月緒を連れ出すことを是とはしなかった。
強大な力を持つ月緒であったが、彼女は陽雨よりも遥かに
悩んだ挙げ句、秘密にしておけるわけもないと踏んだふたりは月緒に直接訊ねることにした。
少しでも迷いや怯えを見せれば、ふたりはふたりだけで打って出ることにしただろう。
しかし月緒は――
『行きます。連れていってください』
即座に、こう答えた。
その瞳に宿る意志にふたりは言葉を失い、そしてしばらくの沈黙の後、眉間にこれでもかと皺を寄せた陽雨が頷いたことで決着を見せたのだった。
姉の眼差しに月緒はこくりと頷いた。見返す瞳には確かな意志が燃えている。
「月緒、済まない。……感謝する」
陽雨の隣の桐悟も月緒と向かい合って言う。
『妹さんのこと、頑張ってくださいね』
月緒は陽雨と同様に難しげな顔をした桐悟の手を取って、言葉を流す。桐悟は頷き、陽雨と視線を交わしてその場より立ち去った。
「無理はするな。やばくなったらすぐに逃げろ」
陽雨はそう言い残して桐悟の後を追う。大きな城門の前には、月緒ひとりが取り残された。
――月緒に課された役目は陽動。敵陣真正面より討ち入り、城内の兵士を一手に相手取ることだった。
短時間でも城内を手薄にし、その間に桐悟の妹を救出する。人質に取られる前に。
また、早々に人質として盾に取られても、城門側から月緒が、城内側から陽雨と桐悟が挟み撃てば対処がしやすいだろうとの目算もあった。敵方がどう出るかは分からないが、自分の役目は目につく兵士たちを片っ端から薙ぎ倒すことと月緒は理解した。
そして月緒は弓を身体に斜めにかけ、篝火の方へと近づいてその灯火の先を手のひらで掠める。すると彼女の手に火が宿った。
月緒は手に〝力〟を籠める。火は炎へと勢いを増し、それをもう片方の手に分け与え、さらに〝力〟を籠め続けた。
両手に燃え盛る炎。それに、月緒はふるりと身を震わせた。
――恐くないわけではなかった。
術の稽古も、戦うための訓練もやってきたつもりだが、彼女は陽雨に比べて経験が薄かった。義賊として働くときも実働は主に陽雨で、彼女は補佐として姉の手助けをするだけであった。ゆえに、これが彼女の初陣と言っても差し支えはない。
――それでも。
呟き、炎を火焔へと育て上げる。
――姉と、己と姉の友のためならば。
その両手を頭上に掲げ、ふたつの火焔をひとつに束ねる。
――わたしは全霊を捧げたい。
『〝
そして両手を前に突き出し、轟々と燃え盛るそれを撃ち放った。
――父が死んだとき。姉が人を斬ったとき。それを目撃した自分は声を失った。
当初は困惑したが、今はあまり気にしていない。人と会話をすることは少ないし、姉とは会話がなくてもお互いの意思がだいたい分かる。
それでも悔やみきれないのは、己の弱さ。弱かったがばかりに姉を傷つけた。
声を失った責任を、姉が気に病んでいることを知っていた。しかし『大丈夫』などと言えはしない。言って、楽になどしてあげることはできなかった。大事なところで気持ちが伝わらない。もどかしく感じた。
だから姉を、大好きな姉の手助けをしようと頑張った。料理も裁縫も、今は自分の方が上手にできる。姉とふたり、いろんなことがこなせるようになった。自分を頼ってくれることも多くなり、それが誇らしくあった。
それでも姉は危険なことはひとりでやった。熊を狩ることも、義賊をするときも、自分が見つけた正体不明の男の人を介抱するときも。
そんな姉が、戦場に赴くと言う。『どうしたい?』と問われたとき、『連れていって』と口をついた。そのことに自分でも驚いたが、嬉しくもあったのだ。
――『来てくれ』と言ってくれてもよかったのに。
それが姉の優しさと心配を表していたことに当然気づいていたが、実は不満でもあった。
――恐くないわけではなかった。
身体が震えた。
――それでも。
今度は、何の心配もさせることなく。
――姉と、己と姉の友のためならば。
大好きな姉や、友達の背中を守れるように。
――わたしは全霊を捧げたい。
苦境に立ち向かうために、この〝力〟を揮おう。
炎は僅かな距離を花火のように飛んで、門にぶつかった。
瞬間――
――どぉおおおおん。
派手に炸裂して、それはがらがらと崩れ落ちてゆく。
そしてその先には幾人もの兵士の姿。彼らは一様に目を丸くしていたが、月緒を認めると手に手に得物を握り締める。
それに構わず、月緒は弓を手に取って歩みを進めた。門だったものを行き過ぎ、城の前庭へと進み出る。
『〝霊山の狐〟月緒。――参ります』
月緒は誰にも届かない言葉を静かに呟いて、矢の番えられていない
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