第三章 ―― 暗雲立つ 其の三
◇◆◇
早朝、桐悟は銀麗山を発った。
陽雨の先導について山道をゆく彼は、暮日崎の町が小屋からあまり離れたところにないことに驚いた。しかし己ひとりの力ではもうあの小屋に辿り着くことができないのだと思うと、どこかもどかしい気持ちで来た道を振り返るのだった。
陽雨は山の麓の集落――〝霊山の狐〟の結界の外まで桐悟を送り届け、山と町を繋ぐ林の道を、その奥へと消える彼を見送った。
そして銀麗山は数日ぶりにもとの姿を取り戻した。
――が、しかし。
「――――はぁ」
すでに日の高く昇った雪山の、昼食の済んだ小屋の中。繕いものをする妹に対して囲炉裏を挟んだ向かいに陣取るその姉は、本を開いてはため息をつき、そして閉じてはまた開いて、ということを繰り返し行っていた。
ちなみに、ざっとではあるが小屋まわりの雪崩の跡は一応の片をつけ終えている。納屋の修理は木材を揃えねばならないからまた後日だ。
「――――はぁ」
そしてため息がまたひとつ。
裁縫の手を止めた月緒が訴えるような視線を飛ばす。陽雨はそれに気づかず、しかしどうにも気が散って仕方がない様子で本に目を落とした。いつも食事の後はこうしていたはずだったのだが、と眉間に皺を寄せ、〝ここ最近のいつも〟は桐悟を追い回して雪原を駆け回っていたな、と振り返る。そして石蕗桐悟が脳裏を過ぎるたびにますます本の中身が頭に入ってこなくなって、陽雨はまたぱたんと本を閉じた。
『姉さん』
「っ!? ……月緒?」
呼びかけたのは陽雨のすぐ隣で正座をする月緒だった。囲炉裏の向こうから回り込んできたことにも、いつの間にやら銀の狐の姿に変わったことにも陽雨はまるきり気づかなかった。
目を丸くする陽雨に構うことなく、月緒は緑色の包みを差し出した。
「……なにこれ?」
理解の追いつかないまま包みを受け取った陽雨は、月緒と包みを交互に見やる。それは朴葉に包まれた、なにか柔らかさを感じさせながらも硬さを持つものだった。
『熊肉』
「ああ。……で?」
なるほど確かに。言う通り朴葉の中身は肉塊だ。しかし陽雨の疑問の答えには一歩足りない。
『お味噌かお米と交換してもらってきて』
「ああ。……え? なんで?」
そして再びの簡潔な回答に、ますますわけが分からなくなって陽雨は月緒を見る。
これのもとは桐悟と狩った例の大熊だ。確かに食い扶持はひとり分減ったが、残った肉は薫製など日保ちするようにしてあるし、まだ気温も低いので保存には問題はない。また、米や味噌は数日前に補充したばかりであった。それも同じく熊肉と交換で。
それを思い返して疑問を呈する陽雨に、
『いいから、着替えて、今すぐ』
銀の光を湛えて、握られた手から言葉が流れ込んでくる。にっこりとした微笑みに有無を言わせぬ何かを感じ取って、陽雨はそれ以上言葉を継ぐことができなかった。
「ったく、あいつはたまに強引だよな」
つまりは『そんなに気になるなら様子でも見てこい』とのことである。陽雨は独り言を呟きながら木漏れ日の林をゆく。
そんな彼女は山では普段身につけない女物の着物に身を包み、高い位置でひとつに括った髪を揺らしながら歩いていた。
髪型は簡単な変装だが、さすがの陽雨も町へ出るときは普通に女物を着る。そして今回赴くのは桐悟の暮らす一の町――貴族街だ。簡素な格好で出向いても悪目立ちしてしまうという思いから、とっておきの一着を着てきた。美しい朱色が白い肌と雪によく映える。
そんないつもと違う装いにどこか落ち着かなさを感じながら、馬の尾の形の髪と、手にした風呂敷包みを揺らして歩く。もちろん風呂敷の中身は
――と。
がさり、と道から外れた木の陰で物音がした。
陽雨はそれに立ち止まる。目つきを鋭くして、油断なく懐に呑んだ
――できれば、野盗あたりでありますように。
物音の大きさから考えて、小動物の類いではなさそうだ。だとすると大型の獣か、人間。
まず頭を過ぎったのは熊だ。先日の記憶も新しいこともあり、そして今このときに限って言えば勘弁願いたい相手だった。ここは結界の外である。人目につかないとも言い切れない以上、天威の〝力〟はなるべく使いたくはない。
そしてご勘弁願いたいのは熊だけではない。最悪を想定するならば、暮日崎の兵士の待ち伏せはとてもまずかった。金の狐の姿でなければ大丈夫だろうという思いで町に向かっている陽雨であるが、昨日の戦いの最中、僅かではあるが〝力〟を失った姿を晒してしまっているのだ。蹴散らすのは簡単だが、〝霊山の狐〟が今暴れるのは得策ではない。
半面、野盗のひとりやふたりや――三人や四人や五人くらいまでなら〝力〟に頼らなくとも匕首一本でいけるだろう。それこそ蹴散らすのは簡単だった。
そこまで考えを巡らせて、物音のした方をじっと見つめる。
そして出てきた人影は、しかし陽雨の思いもしない人物で、
「……桐悟?」
林の奥から出てきたひとりの男は、今から陽雨が訪ねようとした石蕗桐悟その人であった。
――どうしてこんなところに?
思いがけない再会を果たし、彼のもとへ近寄ろうとして、しかし陽雨は足を止めた。
――様子がおかしい。
今朝別れたばかりの彼はどこか陰鬱な影を背負って、さながら幽鬼のように佇んでいた。不審さに眉根を寄せる陽雨に、
「陽雨」
やっと、しかしながら重く重く、桐悟は口を開いた。
「親父が、死んだ。……殺された」
「!?」
影のせいで気づくのが遅れたが、桐悟の顔色は蒼白であった。彼の言葉に、陽雨は目を見開いて息を呑む。
「遅かった。昨日の一件を大儀名分に、反逆罪を着せられて腹を切らされた」
陽雨はよろりと後ずさった。手の包みが雪の上に落ちる。
暮日崎に住んでいない彼女は国のことなどよく分からない。ゆえに桐悟が昨夜言ってくれた『大丈夫』という言葉を――少なからず――信じていた陽雨は、足もとががらがらと音を立てて崩れていく錯覚にとらわれ、次いで自責の念に襲われる。
眩暈を覚える陽雨に向かい、桐悟は歩を進める。その剣幕に陽雨はもう一歩後ずさりをして身を強張らせた。
桐悟は陽雨の眼前に立ち、その縮こまらせた肩を両手で強く掴む。――叱責される、と思っただろうか。びくりとする陽雨に、そして吐息もかかるほどに近くから桐悟は言った。
「陽雨、逃げろ」
「…………。なにを――」
しかしそれは、陽雨の思いもしない言葉であった。
「暮日崎はもう駄目だ。あの国に未来はない。いくらおまえが義賊として力を尽くそうと、もうどうにもならない。そしてまた昨日みたいに兵士が大挙して銀麗山に押し寄せることになる。きっと次は双方ただじゃ済まない」
桐悟は切羽詰まった、それでいて感情を押し殺した声でまくし立てる。不条理に父を
「あんた、そのことを言うために……ここでずっと?」
恐らく――いや、間違いなく今桐悟はお尋ね者だ。そんな彼がこんなところで油を売っている暇があるわけない。陽雨にこのことを伝えようと、危険を顧みずずっとここに潜んでいたに違いなかった。
――逃げる。山から、暮日崎から。
そして、桐悟の決死の忠告は、『双方ただじゃ済まない』という言葉は、その通りなのだと陽雨も思う。
己の敗北を悟ったわけではない。しかし昨日の戦いで死者が出なかったのは奇跡みたいなものだ。次は必ず死者が、それも大量に出るはずだ。
いつかのこと。血に染まった自分の両手を思い出し、悪寒が背を駆け上るのを陽雨は感じた。しかし、はいそうですかと尻尾を巻いて逃げ出すわけにもいかない。
「逃げろって、あんたはどうする?」
窮地に立つこの男は、『逃げよう』ではなく『逃げろ』と言ったのだ。
「…………妹が、捕らえられた」
長い沈黙の後、視線を下に落として桐悟は絞り出すように言った。俯けたその顔には、翳りと、悲壮な覚悟の色があった。
「死ぬ気か、桐悟?」
それは城中を敵に回してでも妹を助け出すと、そう言っていた。
――陽雨は後で知ることだが、これらの事情は桐悟が石蕗家の女中から聞いたことであった。
誰に見られることもなく、無事に己の屋敷に辿り着いた桐悟は、しかし家を取り巻く雰囲気がおかしいことに気づく。そこに現れたのが暗い顔をした女中であった。
彼女は桐悟を見つけ、驚きながらも人気のないところへ連れ出し、事の顛末を語った。
桐悟はその後来た道を引き返し、この林にて陽雨が現れるのを待った。――とのことらしい。
思いの外早く会えたことは幸運だったと、桐悟は語った。
そして桐悟は、城に乗り込むと言う。
全く勝ち目のない戦いに赴く、俯く桐悟の手を振り払って、陽雨は彼の胸倉を掴み上げた。
「答えろ、桐悟!」
それでもなお沈黙を貫く桐悟に、陽雨は声を荒らげその身体を強く揺する――そのとき、
「――っ!」
陽雨の耳は物音を捉えた。重量感と規則性のある、数人の足音。それがなにを指すのか、今この場において明白であった。
「いたぞ! 石蕗桐悟だ!!」
そして案の定。暮日崎の兵のひと塊が、ふたり目がけて走り寄ってきた。
しかし陽雨の行動はそれよりも早かった。陽雨は懐の匕首を瞬時に抜き放ち、閃かせるや否や――
それを桐悟に握らせて、己の首にぐるりとその手を回し、喉もとに刃を突きつけられる格好で固まった。
「やめて! 来ないで!」
そしてこの台詞である。ここに、婦女子を人質に逃走を図ろうとする凶悪犯が出来上がった。
「――おい、陽雨!?」
桐悟は目を白黒させて硬直する。その驚きは〝囚われの町娘役〟を迫真の演技にてやってのけた陽雨に対してのものが多分にあったが、果たして効果は絶大であった。
「大変だ! 石蕗桐悟が人質を!」「おのれ姑息な!」「誰か、応援を――」
五人の兵士たちは足を止め、その場に縫い留められる。
それに、ほ、と小さく息をつく陽雨は、しかしすぐに顔を引き締め桐悟を振り仰ぐ。
「退くぞ桐悟。山まで退がれ。話はまず撒いてからだ」
桐悟は我に返って陽雨を見る。確かにここで捕まるわけにはいかないし、迎え撃つわけにもいかない。陽雨の案が最良と思えた。
「……分かった」
そして、「済まない」と付け加え、桐悟は陽雨を盾にしながら後退を始める。
「桐悟、待ってくれ!」
しかしそこに、太く強い声が投げられる。兵士たちの背後より壮年の武人が姿を現した。
「……大楠隊長」
大楠高仁。〝霊山の狐〟対策隊隊長。暮日崎の剣術指南役。また、桐悟の剣の師。陽雨も桐悟の話からその存在を知り、昨日の一件から一応の面識のある人物だった。
「桐悟」
「――っ! 来ないでください、隊長!」
桐悟は手の匕首を陽雨に突きつける――真似をする。
それでも大楠は兵士たちの間を抜け、しかしそこで歩みを止めて桐悟と対峙する。その表情はとても険しく顰められていた。
「……隊長は、親父のこと――」
「済まない。私にはどうすることもできなかった」
対する桐悟とて表情は険しい。大楠は味方になってくれるひとりだと、彼は少しも疑っていなかった。
いや、それがお門違いだということは桐悟も分かっている。大楠の言う通りどうにもならなかったのだろう。それでもやり場のない想いが彼の
「菊路さまから、言伝がある」
大楠の言葉に、桐悟はびくりと身体を震わせた。彼と密に身体を触れさせている陽雨にも、それは伝わる。
「――『気にするな』」
ひと言。――紡いで、そして重ねる。
「『やるべきことを為せ』……と」
「……親父」
その言葉に、彼はなにを受け取ったのだろうか。表情が複雑に歪み、そして腕にこもる力が抜けて、さく、と雪の上に匕首が零れ落ちる。
それを好機と見た兵士たちが一斉に駆け出そうとするところを、大楠はこれを片手で制した。
「桐悟、投降してくれ。悪いようにはしない。菊路さまのことは――済まない。私にはなにもできなかったが、おまえと妹君のことは必ず自由にしてみせる。私の首を懸けてでも」
大楠は一歩、桐悟に詰め寄る。その言葉には、嘘やその場しのぎといった様子はなかった。桐悟が師と仰ぐ大楠という男は、部下を安易に切り捨てる真似はできない人物のようであった。
そのさまに、そして父の言葉に――桐悟は陽雨を解放し、顔を、瞳を前に向けた。
「隊長、ありがとうございます。ですが私は、ここで捕まるわけにはいきません。親父が殺されたなら、やつらに俺を生かしておく理由はない。きっと隊長が尽力してくださっても。……もう暮日崎はどうにもなりません」
「桐悟……」
悲哀の入り交じるふたり。周囲が静まり返るなか、それでも、と大楠は桐悟に問う。
「ならば、なにを為す?」
「妹を助けます」
「……死ぬ気か?」
それは、奇しくも陽雨と同じ問いかけだった。また、同じように桐悟は沈黙を返答とする。
――さっきまでは死ぬ気だった。いや、〝助けに行く〟ことだけが目的となり、それ以降のことに考えが及んでいなかった。結果として確実に命を落とすのだから大差はないが。
しかしほとんど自暴自棄であった先ほどとは、確かに心に宿る熱が違った。為すべきことを為さぬまま死ぬわけにはいかなくなった。
ならばなにを為すか、と考えれば、しかしできることはそう多くない。
「国に不満を持つ者を城の内外から募って謀反を起こすか? やめておけ。
大楠は図らずも桐悟の心中を代弁した。言う通り、それをすればかなりの犠牲が出るだろう。
けれどそれくらいしかできることはない。できることがそれしかないなら、それをやらないわけにはいかない。
――と、
「いいよ、桐悟」
ふと、己のすぐ後ろにいる少女が呟いた。
――犠牲を最小限に抑える方法に、桐悟は心当たりがあった。それは不可能を可能とする、いわば魔法だ。それをあえて考えないようにしていたのは、
しかし、
「陽雨。……でもこれは、これ以上おまえに面倒を押しつける訳には……」
「窮地において使えるものを使わないのは、愚かだと思うけどな。それに、まるきり無関係というわけじゃない。わたしも城に用があるんだ」
命を擲つのではなく、為すべきことを成し遂げようとする意志に〝霊山の狐〟は微笑む。
「危険だ。さっきも言った通り双方ただじゃ済まない。それにおまえは、面倒なのは嫌いなんだろう?」
「やり方次第だろ。暮日崎じゃ雪崩は起こせないし、大規模に火薬も使えない。それに、面倒ごとなんて今さらだ」
ふたりは、微笑み合う。
「頼んでも、いいだろうか?」
「ああ、力になるよ」
「――感謝を」
その言葉をもって、光が跳ねた。
「――――っ」
大楠はその光景に目を疑う。どういうわけかそこに、己が、己の率いる隊が血眼になって追っていたものが現れたのだから。
「貴様! まさか〝霊山の狐〟か!?」
大楠は腰の刀に手を伸ばしながら声を上げ、陽雨は進み出て強い笑みを見せる。
「名前は陽雨。よろしく」
括った髪をばさりと解き、陽雨は鷹揚に立ちはだかった。
「突然だが、石蕗桐悟の身柄は〝霊山の狐〟が貰い受ける」
「……なにを考えている?」
「わたしの考えることなんざ、どうしたら何事もなく暮らせるか、なんてことくらいさ。――ついては大楠隊長。あんたに話があるんだが、聞く耳はお持ちだろうか?」
そして陽雨はさらに強く口の端を吊り上げた。
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