第三章 ―― 暗雲立つ 其の二


       ◇◆◇

 

 雲のない夜空に月が冴える。

 あと数日で満ちるであろう月のもと、陽雨はちゃぷり、と水音を跳ねさせた。彼女がいるのは銀麗山の林の奥。天威ご自慢の温泉である。

〝霊山の狐〟の姉妹の頑張りで、雪崩の影響はこのあたりにはない。ちなみに、暮らす小屋は無事だったが、畑と納屋、干していた洗濯物が巻き込まれた。

 ――ここが無事で本当によかった。

 黒髪を結い上げて湯船に肩を沈め、思う。

 しかしその半面、気分は晴れない。問題は山積し、確かな重量をもって陽雨の心にのしかかっていた。

 ひとつは、荒れ果てた小屋の周辺。

 ――まあ、月緒とふたりでならすぐか。

 そうやって問題を明日の自分たちへ丸投げしてみるが、残るふたつは軽く片づけられはしないだろう。ふたりの男のことである。

 裏白玄也――意味深なことを言うだけ言って去っていった得体の知れない男。彼が何者か、何が目的かを知るには情報が少なすぎる。

 石蕗桐悟――自分と一緒にいるところを、最悪の形で知られてしまった。彼がこれからどうするのかはまだ聞いていない。彼はあれからすぐに眠ってしまい、夕飯のときにも起きてこなかった。

 その懸案のふたつともが、本人がいなければどうにも進められない。考えても仕方がないと一旦は思考を放棄するも、もやもやとした思いは蟠って燻る。水面を指で弾き、はあ、と溜め息をついた。

 彼女を照らすのは月と星の光のみ。青白い光に白い肌がなお白く輝く。提灯は持ってきたのだが来る途中でうっかり消してしまった。考え事をしていたせいで木の根に躓いたのだった。転びはしなかったが失態であった。

 陽雨は夜目が利くし、通い慣れた道の上、月も明るい。灯りが消えても彼女が困ることはなかったのだが、

「げっ――!?」

 木戸の外。やってきたもうひとりの声が陽雨に届いた。

 噂をすれば何とやら。陽雨は肩を竦めてもう一度溜め息をつく。

 ――溜め息をつくことが多くなった気がする。

 全部、そこの男のせいだ。

「桐悟か?」

「ひ、陽雨!? いや、違うんだ。これはその、昼に寝ちゃったから眠れなくて、風呂入りに来たんだけど灯りがなかったから誰かいるとは思わなくて、それで……覗きとかそんなつもりはぜんぜん――」

「ああ、いい。悪気がないのは分かった」

 そこの男石蕗桐悟のしどろもどろな言い訳を聞き流し、灯りが消えるとこんな不都合があるのか。と、陽雨は新たな発見をした気分だった。

 しかしこの慌てようはいったいなんだろうか?

 ――前に脅かしすぎたかな。

 苦笑いに口の端を吊り上げた陽雨は少しばかり反省した。

「とりあえず俺は出直すから、ゆっくり――」

「いや、すぐ出るから待っててくれ」

「へ?」

 素っ頓狂な声。刃物にて追い返したことを考えるとそれも当然だろう。

 つい、くすりと笑みが零れた――顔を引き締め、

「桐悟……その、大丈夫か?」

 これだけは今訊いておかねばと問いかけが口をついた。

「ああ、おかげさまで。もうほとんど痛みはないよ」

 戸の向こうの桐悟はいつもと変わらぬ様子で答えるが、陽雨が言っているのはそこではない。

「怪我のこともだけど……ほら、反逆者とか、その……」

「――心配いらないさ」

 桐悟は陽雨の言葉を遮って、殊更に明るく言った。

「出るところに出てちゃんと伝えれば大丈夫だ。悪いことしてたんじゃないんだ。命令違反とか単独行動とかの罰はあるかもだけど、味方になってくれる人は必ずいるはずだ」

「……それなら、いいんだが」

 それでも浮かない陽雨の声に、今度は桐悟が問いかける。

「陽雨こそ、大丈夫か?」

「わたし? わたしは怪我なんてしてないし、もう結構回復してる。昼間も言った通り心配ないよ」

 全快とまではいかないが、陽雨は体力も〝力〟もそれなりに戻っていた。己の手のひらを見ながら言葉を投げるが、

「……昼間様子がおかしかっただろ。なにかあったんじゃないか?」

 桐悟の問いに、息を詰まらせた。

「別に、なんでも――」

 辛うじてそれだけ口にするが、自分がいつも通り振る舞えていないことなど明白であった。昼間と同じく、それを『なんでもない』のひと言で片づけることもきっとできたはずだが、陽雨は頭を振って目を伏せた。

「――いや、桐悟」

 そして陽雨の脳裏に過ぎったのは、白い雪原に立つ黒い影。一瞬、ざわりと心が揺らいだ。

「あの黒尽くめ――裏白玄也って男のこと、何か知ってるか?」

「黒尽くめの、裏白? ああ、あの人がそうなのか」

「面識はないのか?」

 最後まで雪原に残った黒尽くめの男が裏白玄也と、今気づいた様子の桐悟に陽雨は問う。

「部署が違うからな。今思えば城内で何度か見た覚えはあるが、……悪いが噂程度にしか知らない。なんでも、何かの研究をしている学者のようなことをやっているとか」

「……他には?」

「その研究職もかなり上の役職に就いているみたいだ。五年くらい前から城に勤め始めて、あっと言う間に頭角を現し今の地位に就いたと聞いた。異例というか異常だよ」

 桐悟の語ることにいろいろと疑問はあった。研究に、学者。異例の出世――

 しかし、

「五年前?」

 陽雨の疑問はそこに集まった。

「ああ、だから黒羽楼から流れてきたんじゃないかという噂もあるんだ」

 そう、五年前とは黒羽楼が滅びたころ――陽雨曰く、己の母が滅ぼしたころであった。

 そして陽雨は沈黙する。なにか黙考している空気を感じる桐悟だったが、痺れを切らして静寂を破った。

「で、その裏白玄也がどうしたんだ?」

「……あの男、わたしの両親のこと知ってるみたいだったんだよ」

 陽雨の答えには迷いが滲んでいた。秘密を打ち明けるべきか否か――そんな響きが。

 そして語られたのは、桐悟にとって未だ面識のない彼女たちの両親のこと。

「ご両親を? つまり裏白は黒羽楼で天威と交流があったって言うのか?」

「詳しくは分からん。それを含めて訊きたいことがいろいろとあるんだよ。……まあ、また会うことになるだろ。またすぐに会えるとか予言じみたことも言ってたし」

「穏便に済むとも思えないけど」ときな臭さの香る言葉をつけ足し、そして陽雨は裏白玄也に対する考察もこれが限界だと話を締める。

 しかし桐悟は、彼女の言葉に首を傾げたままであった。

「ご両親は、よく町へ出られるのか?」

 天威が町を出歩くという光景がどうしても想像できない桐悟であった。陽雨も町で普通に買い物などをすると聞いていたが、しかし天威の夫婦がとなるとそれも一層のことである。

「ああ、というか……だな」

 それに陽雨は曖昧に頷いてから逡巡した。言ってしまってよいものか、決めあぐねるような躊躇いを挟み、彼女はそれでも続きを桐悟に告げる。

「わたしの父は黒羽楼で、――城で働いてたんだ」

 そして桐悟の予想もつかない言葉が放たれた。

「天威が城で働いてたのか!?」

 驚きに疑問が口をつくが、桐悟の言うことは的を外しており、

「いや、父は人間だよ」

「――は?」

「わたしと月緒は黒羽楼の役人であり剣術家であった父と、天威〝霊山の狐〟の間に生まれた合いの子だ」

 桐悟の知り得なかった陽雨の――〝霊山の狐〟の秘密が、ひとつここで明かされた。

 

 桐悟は陽雨の言うことが理解できずにいた。

 ――人と天威の間に子が? まさか。

「あの、陽雨……。それはつまり、その――」

「……長くなるぞ。今度でいいんじゃないか」

 その言葉に、桐悟は己が風呂の順番を待っていたのだと思い出した。冬の寒空。確かに身に応えるけれど、そんなことはどうでもいい。桐悟は足もとに敷かれたすのこの上に腰を下ろす。

「いや、頼む。今聞かせてもらえないか?」

「風邪ひいても知らんからな」

 陽雨はぱしゃりと水音を跳ねさせ、湯に沈む岩に腰をかけて半身のみ浸かる格好で息をついた。手拭いを羽織るように肩にかけ、空を見上げて言葉を紡ぐ。

「言葉の通りだよ。父は山で母と出逢って一緒に暮らすようになり、結ばれ、そしてわたしと月緒が生まれたんだ」

 桐悟にはとても信じられないことを陽雨は語る。彼女が嘘を言わないことを知る桐悟であったが、さすがに疑いを隠せない。しかしよく考えれば、彼女は普段人の姿をとることが多かった。〝力〟を失ったときも人の姿だったではないか。

 ――つまり、〝人の姿に化けている〟のではなく〝狐の姿に変身できる〟。

 それが陽雨と月緒の知られざる真実だった。

「……一体どんな経緯が?」

 陽雨たちの父と母。天威を娶った人間と、人間に嫁いだ天威。

 そこになにがあったのか、問いかけが困惑する桐悟の口をついた。

「仕事で山に入って遭難した父を母が助けたらしい。で、父が熱烈に口説いて――」

「それはまた他人事とは思えな――」

 さらりと両親の馴れ初めを語った陽雨と、それに応じた桐悟。ふと、ふたりはほとんど同時に言葉を切った。

「陽雨、それって……」

「他意はないから余計なことは言わなくていい」

 陽雨は桐悟の言葉を即座に封じにかかる。

 ――そう、事実他人事ではなかった。まさに今この状況が、というやつである。

 ふたりの頬にほのりと朱が差す。

 ふたりともがそうなっていたことは、お互いの顔が見えない陽雨と桐悟には知る由もないことではあったけれど。

 

 少しの間に、こほん、と桐悟の咳払い。

 陽雨の無言の圧力を受けながら、考えの落ち着いた桐悟は問いかけた。

「お父上は〝神護〟だったのか?」

 ――〝神護〟とは、天威の寵愛を受けた人間たち、特にその個人を指す言葉だ。

 彼らは天威の力を借りて国を興したり、人を導いたりしたという。その逸話は――真偽の定かでないものが大半であるが――少なくない数があった。

 陽雨の父もそのように黒羽楼を統べる人物だったのか、と訊ねると、

「神護、か。そういう見方もできなくはないんだろうけど、父は天威の〝力〟をそういうふうに使ったことはなかったと思う。黒羽楼で普通に城勤めをしながら、あの小屋で四人で仲睦まじく暮らしてたさ」

 そして陽雨は消えゆく湯気を見送りながら言葉を継ぐ。

「父は黒羽楼で剣術指南なんかもやってたから、わたしにも教えてくれたよ」

「師事していた黒羽楼の剣術家とはお父上のことだったのか」

「ああ。わたしになら遣えると思ったのか、教えてくれたのはあれ・・だけどな」

「……常識離れしたあの剣技か」

「名は〝榊眩耀流さかきげんようりゅう〟実験的に作った流派をまるまるわたしにくれたようなものだ。もしかしたら黒羽楼にいた者なら知ってるかもしれないが、遣える人間はそういないだろうな」

「眩耀流……」

 ――〝眩耀〟とは、まばゆく輝くさまを表す語である。

 陽雨の剣閃はそう呼ぶに相応しいかもしれないと思った桐悟だったが、その意味は〝衒耀げんよう〟――てらって誇示することから転じていると陽雨は言う。

 何から何まで型破りな、と桐悟は苦笑いを浮かべ、そして思う。家族のことを語る陽雨は、普段とは違う明るさがあった。家族の絆が見て取れるようだ。

「あの、だな……陽雨――」

 だらこそ気になった。

「黒羽楼は、どうして滅びたんだ?」

 ――黒羽楼を潰したの、うちの母親だぞ。

 陽雨はそう語った。しかし陽雨の母には黒羽楼を故郷に持つ夫がいた。

 また、ここしばらく住まわせてもらっていた小屋には、件の両親は話にしか出てきていない。

 一国が、それも大国が滅びたとき、彼女たち家族になにかがあったとしか思えなかった。

「…………」

 ふたりはお互いの顔が見えない。しかし桐悟は、陽雨がどんな顔で押し黙っているのかなんとなく分かっていた。

 どこか虚ろに、それでも凜として。少し伏せられた美しい眼差しは、きっと水面みなもに映る月に注がれていることだろう。

 ――この話はきっと、彼女の心の傷だ。他人が易々と踏み入っていい場所ではない。

 そう、理解はしていた。

 そうでありながら、桐悟は問いかけを取り下げない。彼はもはや、彼女に助けられたあのときの、ただの好奇心にて陽雨に話をねだったときの彼ではなかった。

 ――己の力不足も理解している。

 敵でありながら己を助け、いろいろと世話を焼いてくれた、さまざまな我が儘をきいてくれた〝霊山の狐〟と名乗る少女。

 彼女の力になりたいと、本気で思っていた。

 

「わたしにも詳しいことは分からん」

 水面が揺れ、波紋が渡る。

 それを朧げに見ながら、陽雨は過去の記された、しかし雁字搦めに鎖の巻かれた日記帳を前に立ち竦むように――

 それでも訥々と言葉を表しはじめた。

「黒羽楼が滅びたと知る少し前。母さんも父さんと一緒に山を下りるようになったのを覚えてる。今思うと黒羽楼の誰か――恐らく城の誰かに会っていたんだろうな」

 そしてそいつは、あるいはそいつらは母さんが天威だと知っていた。そう憶測を述べて陽雨は言葉を継ぐ。

「あの日もそうやってふたりで出ていった。留守を頼む、月緒を頼むと言って手を振っていた。その様子からもしかして帰りが遅くなるのかな、なんてそのときは思ってたんだが――」

 陽雨は言葉を一度切り、深く、細く息をついて鎖を解いて日記帳を露わにする。

母さんはそれっきり帰って来ず・・・・・・・・・・・・・・父さんは翌朝半死半生で帰ってきた・・・・・・・・・・・・・・・・

「――――!?」

 桐悟が息を呑んだことに、陽雨は気づいただろうか。

 桐悟に告げた陽雨の声に悲愴な響きはなかった。いや、それどころかなにもなかった・・・・・・・

 喜怒哀楽の感情が、その声にはなにも感じられない。死者が声を放つことがあれば、こんな響きを持つのかもしれない。桐悟にはそう感じられた。

「それは、なぜ?」

 きっと、その日に黒羽楼は滅びたのだろう。それ以上の想像は桐悟には及びもつかない。

「詳しくは分からんって言ったろ? 父さんもなにも言わなかったしな。ただ父さんの傷は刀とか弓矢によるものだったから、城の連中がやったということは間違いない。――大方、連中は『天威の〝力〟をよこせ』とでも強要し、父さんたちはそれに刃向かったんじゃないか」

 天威の〝力〟を欲し、それを断られた黒羽楼は天威と戦をした。そして陽雨の父は死に瀕しながらも銀麗山の小屋に帰り着き、母は未だ帰ってきていない。

そして追っ手が来て父さんが殺され・・・・・・・・・・・・・・・・その追っ手をわたしが殺した・・・・・・・・・・・・・それきり月緒は喋れなくなった・・・・・・・・・・・・・・

「!? ――陽雨っ」

 再び、死者の声が響いた。

 あまりにも自然に、するりと。澄んだ沼のような違和感に、桐悟は頭に手をやった。

 そこには闇があった。ともにいて気づいた、踏み込むべきではないと思っていた場所。

 日の光のような輝きの裏の、闇。それは時折見せる、雪降る夜の泉にも似た鋭さのゆえん。

「追っ手は三人だった。銀麗山を登って来れたのは、やっぱり母さんになにかあったんだと思う。父さんはわたしたちを隠してぼろぼろの身体で三人の前に立ち塞がった。そこから先は察しの通り――と言うか、実はわたしもよく覚えてないんだ。気がついたら刀を握って全身返り血に塗れてた。足もとには父さんを含めて死体が四つ。全部見てた月緒は蒼白になってヘたり込んでた。そしてあいつは声を失った。月緒はああいう〝力〟を持ってるから平気な顔して振る舞ってるけど、本当は――」

「陽雨、やめろ! もういい!!」

 桐悟は叫んだ。それに陽雨ははっとして顔を上げる。

 滔々と続く死者の声が止まった。そして水面を揺らして、陽雨は再び全身を湯に沈める。

「すまない、桐悟。わたしは……また・・巻き込んだ」

「違う! 俺が勝手に巻き込まれただけだ! 早く帰れと言うのに逆らい続けたせいだ!!」

「それでも、わたしのせいで死にかけた」

 桐悟が顔を向ければ、そこには飾り気のない木戸が一枚。しかしそれは城壁のように桐悟と陽雨とを隔てていた。

「それに初めのときのことだってはったりなんかじゃないんだ。本気で、害あらばあんたを殺そうとした。わたしが巻き込まなきゃそんな目に遭うことだってなかったのに」

「そんなことはただの結果だ。それを言うなら俺を生かしてくれたこと、話を聞かせてくれたこと、家に置いてくれたこと、稽古をつけてくれたこと全部に俺は感謝している。おまえに会えたことに後悔なんてない」

「それでも……」

「陽雨――」

 ――陽雨は泣いているのだろうか。いや、そんなことはないのだろう。

 しかし桐悟は、未だ幼い――五年前の――陽雨が、年相応にぼろぼろと涙を零すさまを幻想する。きっと陽雨はそのときも泣けなかったのだと――そのときから泣いていないのだと、そう思った。

「――俺は、暮日崎に帰るよ」

 そして桐悟は、雨と降る陽雨の後悔を遮って、告げた。

「まずは誤解を解いてくる。謹慎とか食らってしばらく会えなくなるかもだけど、また必ず会いにくる」

「…………会えないよ」

〝霊山の狐〟の助けなしに山を進むことはできない。思い至って言葉を翻す。

「じゃあ町で会おう。ほとぼりが冷めたら是非、俺の家を訪ねてくれ。歓迎する」

「…………」

 陽雨から返事はない。これ以上かかわるべきではないと思っているのか、桐悟はそんな拒絶を感じ取る。

「それで、……もしよかったらさ、陽雨――」

 しかし桐悟は怯むことなく、そして思いの丈を言葉にした。

「――ともに、暮らさないか?」

「………………は?」

 そして陽雨は何とか一文字だけを声にして、何も言えなくなった。

 ――この男は一体何を?

 紡がれた言葉。彼の口から出た音のひとつひとつを、陽雨は思い返し、反芻して、吟味して、

「桐悟、その、訊きたいことはいろいろなんだが……えと、……ともにって、どういう?」

 そしておずおずと問いかけた。

 ふと桐悟も己の言葉を思い返す。と、瞬間、赤面して立ち上がった。

「あ、いや違――くはないんだけど、その、済まない、言葉の綾だ。ともにってのは暮日崎の国でって意味であって、一緒に暮らそうとか、そういうことではなくて……」

 さながら求婚の台詞にも聞こえたそれは、彼が抱えていた――それゆえに言葉が足りなくなったものだった。

「俺はおまえたちに――陽雨と月緒に普通の人生を送ってほしいと思ったんだ。天威とか〝霊山の狐〟としてじゃなく、ただ普通の人間として」

「普通の、人間として?」

「ああ、そうだ」

 頷く桐悟に、陽雨はひとつ息をつく。

「わたしは化け物だ。町でなんて暮らせるはずない」

「そんなことはない」

 陽雨が自身を〝化け物〟と卑下するのを、桐悟は何度か聞いたことがあった。しかしそのたびに募らせた想いを、そして即答にて返す。

「化け物なら人を助けない。人を想わない。少なくとも俺は、おまえのことをそんな風に思ったことはない。だから自分が何者かなんて気にしなくていい」

「それはあんたの主観だろう?」

「なら訊くが、交流のある町の人たちに〝化け物〟と蔑まれたことはあるのか?」

 桐悟の問いに、少しばかり黙る陽雨。

 桐悟は彼女が町でどんな扱いをされたかは知らぬことであったが、陽雨の口から聞く町人の様子に、嫌悪の感情は受けなかった。

「……変わり者扱いされたことは何度か」

「ああ、それは事実だ」

「…………」

 曰くつきの山に好んで暮らす美少女姉妹。訝られたことは何度もあるだろう。

 陽雨は桐悟の言葉に沈黙で返す。じとりとした視線を木戸越しに感じた。

「あ、……済まない。怒ったか?」

「変わり者?」

「いや、個性的ってことだ。そんな悪い方向に捉えなくても、そもそも気にする必要はないと思うぞ。それに俺は陽雨の非常識なところは……なんというか、見ていて楽しいというか、嫌いではないというか……そんな感じだ」

「非常識?」

「あーっと、えーと、違う」

 まくし立てた擁護の言葉は白々しく響き、新たな墓穴を掘る、どう取り繕うべきか悩める桐悟だったが、しかし――

「ふふっ……あははっ」

「!」

 ――笑った。

 沈黙を破ったそれは、桐悟にとってとても珍しい、いや、もしかしたらはじめて聞く陽雨の心からの笑い声だったかもしれない。強気に、自信たっぷりに笑うのとは違う、普通の、女の子としての笑い声。

 しかしながら陽雨は、桐悟に謝罪と拒絶を言い放つ。

「桐悟。悪いが、それでも山を下りることはできない」

 なぜ? ――とは問わなかった。無茶な提案だとは重々分かっていた。それでも陽雨は言葉を継いでくれた。

「……待ってるんだ。わたしたちは」

 それはいくらか不明瞭な言葉だった。しかしながら桐悟は、はっとして顔を上げる。

「しかし陽雨、それは――」

 言いかけて、口籠る。桐悟はその意味を即座に理解し口をついたが、その先に続く言葉を失って押し黙った。

「〝霊山の狐〟ってのはさ、本当は母さんの字なんだ」

 そして陽雨は彼の言葉をあえて取り合わずに、五年前に消息を絶った待ち人について語った。

「どこでもらった字かって言うとさ、ずっと昔、母さんも義賊まがいのことしてたんだって」

「まさかそれを真似て義賊を? じゃあ、自ら〝霊山の狐〟を名乗ったのも?」

 義賊をやる理由。いつぞや〝暇潰し〟と言っていた。そして町の人々に己を〝霊山の狐〟と呼ばせたわけ。その真意が桐悟の目にも見えてくる。

「母さんの耳に、届けばいいな……って」

 ――わたしたちは、あなたの娘はここにいる。

 彼女たちは、そう伝えたかったのだ。

「…………」

 桐悟はなにも言わない。なにも言えない。『それでも暮日崎にきてくれ』とも『頑張って義賊を続けてくれ』とも言えるはずはなかった。陽雨と月緒。年端もいかぬ少女の肩に、どれほど重いものが乗っているのだろう。考えて、額に手をやる。

「だけど――今はまだ、山を下りるわけにはいかないけど」

 そんな桐悟に、陽雨は言う。

「……町で見かけたときくらい、声、かけてやる」

「つまり、それって」

「根城が突き止められた以上義賊もしばらくお休みだし、やることなかったら……そしてたまたま、偶然、何かの間違いで町で見かけてしまったときに限っての話だからな」

 桐悟の問いかけを先んじて封じにかかる。その語調は、桐悟のよく知る陽雨のものに近づいていた。

「ああ、そのときはよろしく頼む」

 安堵に笑みを浮かべる桐悟。明日の別れが今生の別れになることはきっとないと、確かに思うことができた。

 

 ざばり、と桐悟の耳に水音が届き、次いで陽雨の声が響いた。

「桐悟、籠、こっち寄越してくれ」

「籠? ああ、これか」

 近づいてくる足音にどきりとしながら、桐悟は棚に収められた――陽雨の衣服が入った籠を最小限に開いた木戸より中に滑り込ませた。もしうっかり幸運なことにでもなれば、しかしそれを帳消しにして余りある不幸に見舞われるだろう。命を失うことにはなるまいが、細心の注意を払うことは忘れない。

 けれど籠を送り終えても落ち着きは取り戻せなかった。木戸一枚隔てたところで類を見ない美少女が着替えているのである。衣擦れの音がこんなに心臓に悪いものと、彼は初めて知った。

 そんな桐悟を知ってか知らずか。手拭いで黒髪を押さえながら、陽雨が木戸より姿を現した。

 湯上り姿にまたどきりとして、しかしそれを抑え込んで声をかける。

「あ、陽雨。これ」

 桐悟が差し出したのは提灯だった。陽雨が途中で消してしまったそれには、桐悟の手で新しく火が灯されていた。

「桐悟、ありがとう」

「お安い御用だ」

 受け取って、微笑む。

 手渡して、微笑んだ。

 そして桐悟は優しく照らされる陽雨の姿が夜の林に消えるまで、柔らかな眼差しで見守っていた。

 

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