第三章 ―― 暗雲立つ 其の一

 

「銀麗山ってのはだな、つまり〝銀嶺〟の〝霊山〟なんだよ」

 ある日の昼下がり。緩んだ空気の漂う昼食後。

 今日もこの後稽古を控えていた桐悟だったが、以前気になった疑問を――黒髪黒瞳の――陽雨に問いかけた。熊狩りの後に言っていた〝銀麗山は天威にとって特別な場所〟というひと言。その真意について。

「大地には霊脈ってのが流れてて、ところどころで集中する場所がある。で、そのひとつが霊山と呼ばれた銀麗山だ」

 読んでいた本をぱたんと閉じ、指を立てて教師然と振る舞う――そんな乗りが実は嫌いではないのだろう――陽雨。その様子に長話の気配を察した月緒は、黒髪を揺らしてぱたぱたと台所へ向かった。彼女はこういうときお茶を淹れてくれる。なんと出来た妹御だろうか。

「で、そういう場所は天威にとって居心地がいいんだ。まあ居心地がいいってだけだから無視しても問題ないが――要は霊脈の集まる場所には天威が棲むことがある」

「銀麗山が……初耳だ」

「人が知るようなことでもないからな。そしてそういう存在が重なって諍いが起こったら大問題だ。だからわたしたちは、前に言った〝結界〟でもって人も天威も寄せつけることなくこの場所に居座っている。〝霊山の狐〟はそういう意味で〝管理者〟で、〝縄張りの主〟なんだよ」

「なるほど。なんとなく分かってきた」

 桐悟は前に話を聞いたときのことを思い出しながら頷いた。人どころか天威まで寄せつけない山、ゆえに事件など起こりようもない。事件が起こらないのなら〝管理者〟も名ばかりだろう。『いてもいなくても変わらん』と言った陽雨の言葉の意味を得心しながら、桐悟は頷いた。

「でも、ならなんでこんなところで暮らしてるんだ? 不便だろうに」

「みすみす銀麗山を明け渡すのも惜しいからな。それに、今さら町で暮らす気にはならないさ」

 陽雨は事も無げに、しかし長くを過ごしたであろうこの小屋への愛着を匂わせて言う。

 そんなものか、と己には分からないなりに納得した桐悟は、続けて問う。

「じゃあ熊狩りが〝意味のない仕事〟って言ってたのは?」

「そんなことも言ったか。えーとだな、わたしにとって最悪なのは熊が町に下りて大勢の人を犠牲にした場合だ。もしそうなって大規模に山狩りなんてことになったりしたら銀麗山が大騒ぎになる。それは管理者として目も当てられん」

 陽雨は足を組み替え、あぐらに頬杖を突いて表情に苦味を浮かべる。

 確かに、大変なことになりそうだと桐悟も顔を顰めた。遭難して人死にが出るかもしれないし、林に火を放つなどの暴挙に出ないとも限らない。

「だがな、考えてもみろ。わたしがあの熊を狩らなかったからって、あれが町に下りるとも限らないし人を襲うとも限らない。ただたまたま行き遭ったってことと、ちょっと大きすぎたこと、わたしが肉が食べたかったことが重なっただけで、べつに必ず狩らなきゃいけないってわけじゃなかったよ」

「最後さえなければ、立派なお勤めだと思ったのになぁ」

「最近食べてなかったんだよ。あいつら冬眠してたし」

 じとりとした視線がお互いを行き交いつつも、桐悟はふと天威について思いを馳せた。

「天威は意外と美食家なのか?」

 そういえば、ここにきて振る舞われる食事はどれも美味だった。

「ほかの天威のことは知らんが肉は好きだぞ。野菜も魚も。……と言うか、うまいものは何でも好きだ」

 陽雨は頬杖をやめて腕を組む。どこか楽しげな様子の彼女に桐悟は首を傾げた。

「ほかの天威のことは知らないって、天威同士の交流とかは――」

「無い」

 そういえば、というふうな桐悟の疑問に、陽雨は即答にて応じた。

「実のところ、さっきの〝天威に対する結界〟とかの件りは全部聞いた話だ。わたしは天威同士の諍いに立ち会ったことはもちろん、ほかの天威に出会ったこともない」

 陽雨はどこか寂しそうに目を細め、「……きっとこの国に天威はほとんどいないんだろうな」と嘆息混じりに呟く。

「聞いたって、両親から?」

「ああ、母から」

「……黒羽楼を滅ぼした、あの?」

 それに桐悟はあえて問いを続けるが、しかし例の女傑が話題に上ると僅かばかり身体が強張るのを感じてしまう。

 短く「そう、その母だ」と答えた陽雨は、何かを思い出してにやりと口角を吊り上げた。

「そのころにはあったらしいぞ、天威同士の縄張り争い。〝妖狐〟と〝犬神〟と〝竜〟の三つ巴が」

「…………どこで?」

「もちろんここ、銀麗山でだ」

 その悪戯っぽい笑みに、桐悟は当たり前の日常とはどこに行ったのかと眩暈がした。

 

 陽雨曰く、彼女の母親は霊脈に導かれるままやってきた銀麗山にて、竜と犬神とはち合わせて三つ巴の戦いを繰り広げたとのことだった。

 初め劣勢だった彼女の母は、知謀策略の限りを尽くして縄張り争いの勝者となった。

 陽雨はお気に入りの御伽噺を聞かせるように、少し誇らしげに語り聞かせる。

 

「怪獣大決戦……?」

「母さんでも竜を相手にするのはきつかったみたいでな。犬神と結託して竜を降して、それから犬神を打ち負かしたらしい」

 もはや桐悟にとって幻想譚以外のなにものでもなかったが、彼女が言うのなら実際にあったことなのだろう。桐悟は辟易して額に手をやる。

「それ、どれくらい前の話なんだ?」

「ん? ごひゃ――いや、何でもない。知らない」

「ごひゃく!? いま五百年前って言おうとしたか!?」

「うるさい。人の母親の過去に興味持つな」

 声を荒らげる桐悟にぎろりと目を遣り、陽雨はひとつ頷いて言葉を続けた。

「まあ、それが『〝霊山の狐〟はじまりの物語』ってところだな」

「小説の表題みたいに言わないでくれ」

「小説か。……一本書いて町で売るか」

「暮日崎をこれ以上ややこしくするのはやめてくれ!」

 からかうような笑みを浮かべる陽雨に桐悟は思う。この義賊は〝霊山の狐〟の名がどれほど有名なのか分かっているのだろうか。

 ――と、そこでふと違和感。

 今さらだが、彼女は〝霊山の狐〟という言葉を自然に使うのである。

 それは町の噂が元のはずで、それがあまりにも有名な呼称となったから城でも便宜的につけられた字だったはずだった。

「ああ。その噂流したの、わたしだ」

 そしてその真相はあっけなくその本人の口から語られた。

「町人に紛れていろんなところで流してみた」

 黒髪黒瞳の、金の狐の姿をしていない陽雨は――ちょっとそこらにいない別嬪であることを除いて――町娘と何も変わらない。野菜を売ったり買い物をしたり、顔馴染みも何人かいると桐悟は聞いていた。

「おまっ……ほんと一体何やってるんだ!?」

 ――伝説の存在が。

 頭を抱える桐悟の非難に、陽雨は悪びれることなく切り返す。

「自分の呼び名くらい自分で決めたっていいだろう。勝手に『怪盗狐娘』なんて名づけられてみろ。堪ったもんじゃないぞ」

「それが嫌なら、まずは盗賊行為をやめることから始めないか」

「いや、仕事を途中で投げ出すのもどうかと思ってだな」

「実入りなんてない上にそんな大層なことじゃないだろうが」

「失敬だな。わたしが義賊やめたら国のみんなが悲しむぞ」

「城のみんなは喜ぶから安心してくれ」

「あんたら喜ばせてどーするんだよ」

「……なんなら城勤めの口を利いてやるぞ」

「すごいな。これっぽっちも興味が湧かない」

「おまえ、城勤めって結構凄いんだぞ。その分大変だが」

「凄いことあるか。自分がぼんくらだって自覚ないのか?」

「誰がぼんくらだ! だったらおまえは自分でつけた字を吹いて回る痛いやつじゃないか」

「痛い!? よし桐悟、表に出ろ」

「馬鹿言うな。稽古ならいざ知らず、勝ち目のない戦いに挑んでたまるか」

「引き際がよすぎるそこがもうぼんくらだって言ってんだよ」

 そしてぐぬぬと睨み合うふたり。しかし一拍ののち、はあ、と溜め息が重なった。

 そもそも馬鹿馬鹿しい話から始まったやり取りである。馬鹿馬鹿しく脱線し、馬鹿馬鹿しい展開を見せた末に馬鹿馬鹿しさが襲ってきた。お互い、徒労感に顔を顰める。

 思わず熱くなってしまった陽雨はきまり悪そうに視線を逸らし、その先にあった――先ほどまで読んでいた――本を手に取って己の後方にある本棚へそれを戻そうと身を乗り出すようにして――

 そこでぴたりと動きを止めた。

「……? 陽雨?」

 急に動きを止めた陽雨を訝って桐悟が首を傾げた。そのとき、ざわりと光が波打ち、金の光が陽雨を包んだ。そして顕れる金の狐の少女。彼女はその場からがばりと立ち上がって素早く視線を左右に向けた。

「陽雨!? 済まない、怒ったか!?」

 陽雨の変貌に桐悟は驚きながら詫びるも、

「――月緒!!」

 陽雨はそれに構うことなく台所のほうに声を張り上げ、それと同時に台所より飛び出してきた銀の狐の少女と目配せをする。お互い血相を変えた、ただならぬ様子であった。

 そして金と銀の狐の少女は、脇目も振らずに玄関から外へと飛び出していった。

 

 陽雨が外へ出ると、見慣れた銀麗山の風景は彼女にとってあり得ないものになっていた。そこには物々しい出で立ちの男たちがずらりと並び、正面の小高い丘に小屋を取り囲むように待ち受けていた。

「どうしてここに……」

 呻く陽雨に、男が中央に進み出て声を上げる。

「賊〝霊山の狐〟に告ぐ。我は暮日崎官吏、苧環きょう。この場は包囲した。大人しく縛につけ」

 そして苧環と名乗る男が手を上げると、彼につき従う暮日崎の兵士たち――ざっと三十人ほど――は一斉に矢を抜いた。

「これは……どういうことだ? ここに人は来られないはずじゃ?」

 彼女らのただならぬ様子に刀を手にして飛び出してきた桐悟も、その光景に唖然とした。

「わたしも知りたいよ。それより桐悟、退がって――」

 陽雨が桐悟を庇うように背に隠そうとした、そのとき。

「――桐悟!? そこにいるのは石蕗桐悟か!?」

 彼女らの正面から男の声が上がった。

「隊長!?」

 桐悟はぎょっとして顔を上げる。声の主は〝霊山の狐〟対策隊隊長――大楠高仁その人であった。

「桐悟。……生きていたか」

 桐悟の姿を目にした大楠は驚愕に目を見開き、そして瞳に安堵を滲ませる。しかし隣の苧環は剣呑な光をその目に宿し、桐悟を睨み据えた。

「桐悟? 貴様、石蕗の息子か」

 その声にびくりとして、しかし桐悟はこくりと頷き、陽雨の背より進み出る。

「――はい、石蕗桐悟です。この度はご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありません」

 そしてはっきりと顔が認められるところに近寄った彼に、苧環はひとつ舌打ちをした。

「そんなことはどうでもいい。貴様、なぜここにいる? 生きていたならなぜ帰らなかった」

「それは……その、私は――」

 暮日崎の官吏――己の父と等しい立場の上役――の強い言葉に、桐悟はどこからどう説明したものかと逡巡する。

 その沈黙をどう受け取ったのか、苧環は声を張り上げて言葉を紡ぐ。

 ――それは、桐悟にとって思いもしなかった言葉で、

「貴様、さては賊と繋がっておったな? 石蕗も卑怯な真似を!」

「な!?」

 説明の言葉を巡らせていた彼の頭は真っ白になる。堪らずに叫びをあげた。

「苧環さま、違います! 私は――」

「聞く耳持たぬわ。黙っておれ!」

 しかし叫びはより強い声で掻き消され、そして苧環はこの場全てに言い聞かせるように朗々と語り出す。

 その直前。何事か考えを巡らせる素振りをした苧環は、僅かに笑みの形に口角を吊り上げた。

 それを見た桐悟は思わず身を震わせる。

 ――おぞましい、と。心のどこかで確かに感じた。

「皆の者、よく聞け! そこにいるのはかねてより我とともに国政に関わってきた石蕗菊路きくじが長男、石蕗桐悟だ。石蕗菊路は国を正すなどと言いながら賊を使って国を乱していたと推察される。石蕗桐悟がこの場にいること、賊の根城から出てきたことからそれは明白である!」

 その言葉に辺りがざわりと揺れ、桐悟は蒼白になって立ち尽くす。その嘘しかない言葉を嘘だと断じ説得するには、彼の立つ場所からはあまりにも難しい。

「それは当然許されることではない! これより、行方不明などと生死を偽り、賊との橋渡しを行っていたであろう石蕗桐悟を、国への反逆者として賊とともに討つこととする!」

 言葉が終わると、雪原には動揺が取り残された。予期せぬ事態に何をすべきかと狼狽える兵士たちは、しかし苧環が右手を上げると一糸乱れぬ動作で矢を番え、桐悟へと狙いを定める。

「苧環さま、お待ちください!」

「黙れ大楠。貴様も死にたいか?」

 それを唯一止めたのは大楠であったが、しかし己の部下を案じる言葉は取りつく島もなく切り捨てられる。

「苧環さま、聞いてください! 私は彼女たちに――」

 また、桐悟も再び無実を叫ぶが、その必死の呼びかけは届かない。

「問答無用。やれ!」

 そして苧環は叫び、掲げた手を振り下ろした。――そのとき。

「阿呆。退がってろって言ったろ」

 桐悟は、ぐい、と強い力に引かれてよろめいた。

「――陽雨!?」

 風を引き裂き、数十の矢が雨と降り注ぐ――まさにその瞬間である。身を硬くして腕で身を庇おうとする桐悟の目に、泰然として青の刀を携える陽雨が映った。

「月緒。風」

 そして桐悟を背にした陽雨は、特別なことなど何もないように傍らの月緒に声をかけ、月緒は懐より取り出した扇をぱん、と開き、そしてそれを空へ向けてひと振りした。

 ――瞬間、突風が吹き荒れる。

 桐悟の脳裏に、彼女が火や水を自在に操った光景が過ぎる。そして矢は奔る風に蹴散らされ、それでも残ったものは陽雨に斬り落とされた。

「…………おかしな真似をするではないか。傾奇者と聞いていたが、どんな手品だ?」

「種も仕掛けもありゃしないよ」

 不自然な突風にざわつく兵士たちを苧環は制して陽雨を睨めつけ、陽雨は軽く言って苧環を睨み返す。

「あんた、桐悟の上役か? 部下の弁明くらい聞いてやったらどうなんだ」

「貴様には関係ない。賊がふたりいたとは知らなんだが、まとめて成敗してくれる」

 苧環はふん、と鼻息を荒くして腕を組み、そして再び兵士たちに矢を番えさせる。しかし陽雨はそれに怯みもせず、金の眼光で兵士たちを睨み上げた。

「無駄なことはやめておけ。そっちが矢を射ち尽くそうと、わたしたちにはかすりもしない」

「――ちっ」

「大人しく帰るなら追わないぞ。わたしも、あんたたちを斬る気はないんだ」

「ほざけ、賊風情が。……いいだろう、目に物見せてくれよう」

 忌々しげに陽雨を見下ろす苧環は傍らに立つ兵士に何事か囁いた。その兵士はそれに頷くと、あちこちに指示を飛ばし、慌ただしく動き始めた。

「…………?」

 陽雨は眉間に皺を寄せて成り行きを見据える。すると小屋を取り囲んだ兵士が引いていき、特にある一角にはぽっかりと空間ができた。

 迂闊には動けない陽雨は背後の月緒と桐悟に目を遣り、身構えるふたりとともに少し腰を落とす。そして動き回っていた兵士の掲げた手から何かがきらりと光ると、その開けた先の山岳の半ばで、それに応えるように光が瞬いて――

 ――どおぉぉぉぉん。

 その辺りが爆発を起こした。

 次いで地鳴りのような音が響いた。怪訝な表情の陽雨の顔から見る間に血の気が引いていく。

「――やばい」

「……まさか」

 陽雨と桐悟が異変に呟くと、彼女たちに向かって雪の塊が波のように滑り降りてきた。

「「雪崩!?」」

 そして驚愕の声が重なる。逃げ場はない。雪の波は真っ直ぐに陽雨たちのもとに向かい、小屋もろともを呑みこまんと迫りくる。

 唯一その神速をもって逃げられるであろう陽雨は、しかし動くことができずに硬直した。ほどなく雪に呑まれるその背後には、今日まで暮らしてきた小屋と大切な妹、そしてしばらく同じときを過ごした居候がいるのだから。

 ――陽雨の〝繋ぐ力〟は、自分以外の生物にはあまり作用しない。ふたりを担いで逃げるのは不可能だった。

「陽雨、逃げろ!」

 だがそこに、揺らがぬ叫びが放たれる。陽雨が最適解を求め、頭にめまぐるしく思考を走らせる一瞬の間のことである。その主は見るまでもない、桐悟だった。

「ばっ……、逃げられるもんならとっくに――」

「月緒だけなら担いでいけるんだろ、おまえなら!」

 切迫する状況に、桐悟は陽雨の肩を掴み声を荒らげた。

 陽雨自身と、その〝力〟のことを知る桐悟の言葉は正しかった。確かに月緒のみを運ぶのであれば雪崩を避けることも不可能ではない。しかし――

「あんたはどうなる! 死ぬぞ!?」

 当然桐悟は置き去りになる。この規模の雪崩に巻き込まれれば、まず間違いなく生きてはいられないだろう。

 それでも桐悟に躊躇はない。覚悟の上という目で陽雨を見る。

「崖から落ちても生きてたんだ。今度もきっと大丈夫だよ」

 そしてその顔には陽雨を諭すように、笑みが浮かんでいた。

「――――」

 それを受けた陽雨は目を見開き、次いで顔を俯け何事かを呟きを漏らす。

「陽雨、早く!」

 しかしそれは桐悟の急かす声に掻き消され、誰の耳にも届かない。

 動かぬ陽雨に、肩を掴む桐悟の手が一層の力を込めたそのとき、

「――この、ど阿呆!!」

 その手が振り払われ、笑みを浮かべる桐悟の顔面に、左手の張り扇が炸裂した。

「ぶっ――!? な……陽雨! 今はそんなことしてる場合じゃ――」

「うるさい! 黙れ! いいから大人しくしてろ!!」

 陽雨は苛立ちを――怒りを露わに睨みつける。その剣幕に気圧される桐悟だったが、

「天威舐めんな! 家だって、家族だって、……あんたの命だってみすみす失くすつもりなんかない!!」

 その瞳が、優しく烈しい炎の色に染まるのに、『大丈夫』と言われている気がして――

 そしてその煌めきをさらに強めた陽雨は、張り扇と〝宵空〟を手放し月緒を振り返って叫んだ。

「月緒! 上! 飛ばせ!!」

 迫りくる雪崩に愕然とした様子だったが、月緒ははっと我に返って扇を振るう。生まれた風はひゅるりと陽雨を取り囲み、そしてその跳躍とともに彼女を空高く押し上げた。

「〝雲峰くものみね〟!!」

 そして上空で太陽と別の光が輝くと、それを伴って陽雨が落ちてくる。

 ――〝それ〟とは刃渡りが大人三人分ほどもある、広い幅を持つ巨剣だった。

「ぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおお!!!」

 咆哮とともに落ちてきた陽雨はそれを地に突き刺し、

「月緒! やれ!!」

 巨剣の腹を背で押さえるようにして支え、再び月緒に叫んだ。

 押し寄せる雪の津波にちらりと目を向け、月緒は意を決したように頷く。懐からもう一枚扇を取り出すと、両手にそれを構え、舞うように薙いだ。

 踊るように次々に扇を繰り出す月緒。それは微風そよかぜが突風に、突風が暴風に、暴風が烈風となり、折り重なり絡み合って吹き荒び――

『〝風護籠ふうごろう〟』

 竜巻となって立ち昇り、陽雨たち三人と巨剣を丸ごと覆った。

「桐悟、こっち!」

 寸前で陽雨は桐悟を呼び、ともに巨剣を押さえるよう示す。桐悟が両手を広げても端と端に手が届かない幅のそれは、深々と刺さっていてしっかりと屹立している。

 しかし相手は天災の類い。桐悟の心臓がばくばくと高鳴るなか、

 そしてついに雪崩が竜巻と衝突した。

 

「――――――――!!!!」

 風が雪を削り、雪が風を呑もうとするなか、桐悟は息を止め歯を食いしばって巨剣を支える。

「ぐぅっ――――」

 ――死が、すぐそこにあった。

 鼓動ががんがんと頭に響く。うるささに眩暈がした。

 まともに呼吸ができずにいるなか、苦しいということはまだ己が無事なのだと認められ安心するも、その灯がすぐにでも消えてしまうかもしれない恐怖に呻き声が漏れる。

 陽雨に『逃げろ』と、『己を見捨てろ』と言ったことは間違いなく本音であった。自分の存在が枷になっていた。自分のせいで人が死ぬのは耐えられない。

 死にたくはなかったが、今度ばかりは無理だと思った。ここ最近何度か死を覚悟する場面があったが、今度こそは諦めた。

 だからせめて無様を晒さぬよう笑ってみたが、陽雨の怒りを買ってしまったようである。張り扇の一撃つきだった。

 そんな陽雨は己を見捨ててはくれなかった。心なしか笑みのようなものを浮かべていたようにも思える。それは、己のものとは別ものだ。安堵を与えてくれた。

 ひとり見捨ててふたりが生き残る安全な方法と、三人全員死ぬかもしれない危険な方法。きっと彼女は迷っていたことだろう。

 しかし瞳が語った。『大丈夫』と。

 今、己が誰よりも信頼する天威ひとの想いだ。疑う余地はない。

 そして開けた薄目は、金の瞳と視線を交わす。

 死ぬのは仕方がないことだと、諦めに凍らせた心はすでに解けていた。

 ――だから改めて、死ぬことが怖くなった。

 

「づぁっ――――」

 陽雨は小さく苦鳴を漏らす。月緒の風はかなり押されていた。

 陽雨は〝力〟の大半を使って、この巨剣――〝雲峰〟を創り、巨剣が折れぬよう残りのありったけの〝力〟を注いでいた。しかしそれももう限界。〝力〟が枯渇すれば剣は消え、三人はもろとも雪に埋まる。

 天威舐めんな! ――そんな啖呵を切ってみたが、桐悟の言葉はある種正解だったのだろう。

 ふたりのみ安全に逃げるか、三人を絶望的な状況に晒すか。つまりは賭けだ。そして自分は冒険的な方に賭けた。勝率は芳しくない。いかな天威とてこの危機をやり過ごせる保証はなかった。

 ――やっぱり、無理か……。

 心に、諦めが過ぎった。

『失いたくない』と、そう思った。大切な妹も、家族との思い出が息づく住み慣れた家も、裏の林の温泉も、なんだかんだ一緒にいることに慣れてしまった頭痛の種も。

 しかし、それらは賭けに負ければ全て失われる。文字通り、全て。己の命さえも。

 ならば今から賭けを投げ出す術は――一番大事なもの月緒の命だけでも守る術は、あるだろうか。

 今なら間に合うだろうか。己の命を擲てば、彼女だけでも生かすことができるだろうか。

 猶予のない状況。それでも想像を巡らせる。瞼がぎゅっと閉じられ、眉間に深い皺を刻んだ。

 ――月緒を抱えて竜巻を突破し、雪崩が迫るより速く駆け抜ける。どうにか林の奥まで突き進み、最悪盾となってでも月緒を守る。

 いける、と――まだ目があると思えた。しかしそれと同時、気づく。

 雪崩に呑み込まれゆく桐悟と、きっとそれを目にする月緒。桐悟はどんな顔をするだろうか。そしてそれを目に焼きつける月緒は、どんな思いをするだろうか。

 ぞくりと、震える。それは己が死ぬより恐ろしいことだった。呼吸が乱れ、焦燥に頭が焼ける。逃げることさえできないなら、もうどうすればいいかわからなかった――そのとき。

 薄く開かれた桐悟の瞳と視線が交わり、次いで己に注がれる月緒の眼差しに気づいた。

 そこには、まだ長い付き合いとも言えぬ男の、無垢にすら思える灯火と、

 劣勢に立たされながらも風に〝力〟を注ぎ続ける、勝利を疑わぬ輝き。

「――ちいっ」

 金の眼差しが、力を得た。

 そこにあった感情を――〝信頼〟を――読み違える陽雨ではない。

 忌々しげに口の端を歪め、そして肺腑に空気を取り入れる。

「裏切るわけには、いかないよな」

 呟いた言葉は暴風に掻き消え、誰の耳にも届かない。そして改めて手に力を込め直した。

「逃げは無しだ。〝霊山の狐〟の意地、貫き通す!」

 陽雨の牙がぎらりと剥く。

 ――負けるわけには、いかなくなった。

 

 陽雨の覚悟はどれだけ耐えられただろう。それは誰にも分からない。

 しかし、ついに。

 ――ばきん。

 不吉な音がして陽雨と桐悟は空を仰ぐ。

 巨剣が半ばで折れ、銀の光を散らして消えゆくところを三人は見た。

「月緒! 桐悟! 伏せろ!!」

 陽雨の〝力〟が限界を迎え、そして風と雪、お互いが最後の力を振り絞っての勝負となる。

 結果として言うならば、三人は雪に埋まった。

 

 丘の上から顛末を見ていた暮日崎の兵士たち。その三十余りの精鋭たちは、収まることのないどよめきのただ中にあった。

 賊を仕留めるために雪崩を起こす。途中予想外の出来事もあったが、そこまでは聞いていた。

 ――賊ひとりのためになにもそこまで……。

 そんな思いを誰もが抱えたが、やりすぎても足りる相手ではないことも分かっていた。結局、異を唱える者はいなかった。

 しかしこれは聞いていない。小屋を潰して奥の林をも呑み込むはずであった雪崩は竜巻に阻まれ、賊の根城すら潰すことなく鎮まった。無論奥の林も無事である。

 雪崩に抗った三人の姿は認められない。最後の一押しにて雪に呑まれたのを見た者もいた。

 だが誰もが確信している。――あの三人は無事である、と。

 そしてそれを証明するように雪原の一部が炸裂するかのように雪煙を舞い上げた。

 そこにある三つの人影に、ざわりと戦慄が走った。

 

「――っ。月緒、桐悟、無事か?」

「……なんとか」

『――うん』

 月緒の〝力〟をもって撥ね上げられた雪の中から、三人は地表に顔を出す。誰もが満身創痍といった風体だったが、怪我を負った者はいない。あれだけのことがあったにもかかわらず。

「月緒。最後にひとつ、頼む」

 身を震わせて雪を払った陽雨は、そう言って隊列の最前にいる苧環へと視線を飛ばした。月緒は頷いて右の扇を下から上へ。そして風が奔り、雪が舞い上がる。それは苧環のもとへ真っ直ぐに延びる道を作った。

「ひとんちの庭先にえらいことしてくれたじゃないか。ええ?」

 手に光を集めた陽雨は青の刀を創り、ゆらりと歩を進める。額に青筋を立てる彼女は、まさに鬼神の様相だ。

 ――この世で最も怒らせてはならない者を怒らせてしまった。

 陽雨の怒りに関して己ほど詳しい人間はそういないだろうと、なんの自慢にもならない自負を持つ桐悟はそんな感想を抱く。

 そんな彼には、あの刀に刃がついていないことが何となくわかっていた。けれど己の稽古のときのように自壊はしないだろうから、せめて上司の脳が壊れないことを祈るばかりだ。

 しかし先をゆく陽雨の纏う輝きに、いつもの流星のような婉然たる美しさのないことが気にかかった。〝力〟を無理に使ったせいだろうか、金の輝きはくすんで見えた。

 

 己の主に向かう陽雨に、兵士たちは我に返って矢を射かける。

 風切り音がいくつも迫るも、陽雨はそれに構うことなく歩調を緩めず、己に届くすべての矢を斬り払い金の眼差しでもって彼らを黙らせた。

「この……化け物め」

「だからどうした」

 呻く苧環にどんどんと迫る陽雨。苧環も刀を抜き、彼女に対峙して構えを取る。苧環は役人だが達人と呼べる剣の腕があった。役人でなければ剣術指南役を任されるほどのものである。

 徐々に増す緊張感。そして刀の間合いに入ろうとする――そのとき。

 す、と黒い影が割って入った。

「まあまあ、お二方ともお待ちください」

 それは長身の男だった。黒の着物に黒い外套、黒い前髪を垂らした細面ほそおもて。若くも老いても見えないあやふやな雰囲気を纏い、戦場に似つかわしくない飄々とした態度をしてそこにいた。

「なんだあんた?」

 出鼻を挫かれた陽雨は眉根を寄せる。第一印象は〝得体の知れない男〟。そもそもこんな男がこの場にいただろうか?

 その胡散臭さに警戒を露わにして、陽雨はじとりと男を睨めつけた。

「これは失礼。名は裏白玄也うらじろげんや。何卒、お見知りおきを」

 これからぶちのめす相手の、なにをお見知りおけばいいのか。鼻で笑い飛ばそうとする陽雨であったが、

「そして、あなたは陽雨さまですね?」

 裏白の思いがけないひと言に、思わず息を呑んだ。

「……あんたたちに名乗った覚えはないんだけどな。――何者だ?」

 桐悟が呼んだのを聞いただろうかと思うも、どうもそれらしさは感じない。陽雨が重ねた問いかけは、緊張感に雲泥の差を持ってその場に響いた。

「なにというほどの者ではありません。強いて言うなら、あなたのお父上によくして頂いた者ですよ」

 そしてまた、思いもしなかった台詞を吐いた。

「……なにしに、ここへ?」

 訊きたいことが――尋問したいことが山ほどあった。少なくとも世話になった人の娘の顔を見に来ただけということはあるまい。しかしながら暮日崎のために賊を討ちに来たという様子もまるでなかった。

 じり、と身構える陽雨と、至って自然体の裏白。その背後より声が遮って通る。

「裏白! 貴様、なにをしている!? さっさとその化け物を討たぬか」

 苧環は裏白を隔ててがなり立てるも、しかし彼はお構いなしというふうにさらりと告げた。

「苧環さま。ここはもう退いた方がよろしいかと」

「なんだと!? なにを言うか!」

「この彼女はともかくとして、あちらの少女が怖い。ここでやりあったら良くて相打ちですよ」

「か、構うものか!」

 目を血走らせていた苧環だったが、先の竜巻を思い出したのだろう。裏白の言葉に意志が揺らぐ。裏白はつけ入るように言葉を重ねた。

「落ち着いてください。機会はまたすぐにでもやって来ます。ええ、きっとすぐに」

「…………しかし」

 そして焦ったように辺りを見るが、そこにはすでに戦意を失った三十余人の兵士たち。大楠ですらその例に漏れず、――いや、彼は桐悟が現れてから戦意など表さなかったが――苧環は拠って立つ場を失いつつあった。

 苧環は陽雨を一瞥し、舌打ちをひとつ。

「ええい! 退くぞ! 退却だ!!」

 そして苦虫を噛み潰した顔で兵士たちに指示を飛ばすと身を翻して雪原を後にした。ほかの兵士も――どこかほっとした顔で――彼に続き、雪原は徐々にいつもの姿を取り戻す。

 しかし、金の狐の少女と黒尽くめの男はその場を動かず対峙したままだった。

「『この少女はともかくとして』てのは、どういう意味だ?」

 失せてゆく兵士たちを尻目に、陽雨は敵意剥き出しで睨み据える。小馬鹿にされて笑って許せるほど今の彼女は寛大にはなれない。

 一番殴りたい相手が消えてしまった今、この男が何を知っているか――手段を選ばず――聞き出してくれようかと決めたところで、

「本当に、照葉てりはさまによく似ておられる」

 撤退する兵士を見守る裏白は、不意に外套の下の刀を抜き放った。

「――っ!?」

 陽雨が見たのは、彼の格好と同じく鋒から柄尻までが漆黒の刀。それが目に映った瞬間、彼女の全身の毛が逆立った。そして、

 ――ぱぁん!

 ここ最近聞き慣れた音――刀の砕ける音が響き渡る。

「な!?」

 しかし聞き慣れたはずのそれに、陽雨は隠せない驚愕を露わにした。黒の刀は陽雨に傷を負わせることはなかったが、次いで彼女に異変が訪れる。彼女は纏う金の輝きと耳と尻尾を失い、黒髪黒瞳の――普段団欒をするときの姿となっていた。

 咄嗟に身構える陽雨。すっかり無防備になった彼女に、しかし裏白は気にした素振りも見せず刀を納める。

「またお会いしましょう。今度は十全なときに」

「待て!」

 陽雨の声を背中で聞きつつ、「では」と手を上げて裏白は去っていった。

「――ちっ」

 陽雨は振り上げた拳をどこに叩きつけたものか、やりきれない思いを抱えて顔を歪めた。

 ――父の知り合い。そして口にした〝照葉〟という名前。

 それは家族以外誰も知るはずのない、陽雨の母の名前だった。

 

 ざくざくと雪原を駆ける音に陽雨は我に返る。背後よりやってくるのは桐悟と月緒だった。

「陽雨、無事か?」

「まあ、な」

 黒髪を掻きあげながら、不機嫌そうに、そしてどこか落ち込んだ様子で陽雨は返す。

 桐悟はそれを心配げに見守るが、その視線は彼女の姿そのものにも注がれていた。

「〝力〟を使い果たしただけだ。休めば治る」

 黒髪黒瞳の姿の理由を、陽雨は溜め息をつきながら俯きがちに答えた。

 ――雪崩ののちに創り出した〝宵空〟は、彼女の〝力〟の最後のひと欠片であった。それを砕かれたことで〝力〟が枯渇し、陽雨は天威の姿を保てなくなったのだった。

「だから身体のことは心配いらない」と視線を合わせず言う陽雨に、桐悟はこれ以上かける言葉が見つからなかった。月緒に視線を遣るも、銀の狐の少女は目を伏せて首を振る。

「陽雨、帰ろう」

 それでも、いつまでもここに佇んでいるわけにはいかない。桐悟は陽雨に一歩近づき優しく問うが、そのとき陽雨の黒い瞳が彼を見据えた。

「なあ、桐悟。あいつ――」

 しかし言葉は続かない。

「――いや、なんでもない」

 そう言って視線を逸らし、陽雨はまた俯いた。

 桐悟は面食らって一歩後ずさる。己の知る、天衣無縫、天下無敵の義賊さまに一体なにがあったのか。と、空を見たとき――

 桐悟は弾かれたように陽雨に覆い被さり、彼女を押し倒した。

「桐悟!? なにを――」

 さっきまでの虚ろな様子が吹き飛び、陽雨はその目を丸くする。

「ぐあっ――!?」

 しかし桐悟の漏らした苦鳴に、また別の意味で目を見開いた。

『――桐悟さん!!』

 陽雨は慌てる月緒を見上げ、彼女の視線を辿ってそれを目の当たりにする。桐悟の背中には一本の矢が突き刺さっていた。

「あ……の野郎ども!!」

 膝立ちで桐悟を支える陽雨は、矢が放たれたであろう暮日崎の兵士たちが去っていった方へ向き歯を軋ませる。犯人は明白だ。今すぐそいつら全員刀の錆にしてくれる、と怒りを滾らせる陽雨だったが、

『姉さん! 桐悟さんを、早く!』

 妹の必死の声に、はっとして振り返る。陽雨は支えた桐悟をゆっくりと雪の上に下ろして問いかける。

「桐悟! おい、生きてるか!?」

「陽雨……」

 それに顔を顰めて答える桐悟は、

「陽雨、怪我……ないか?」

 そう言って、笑ってみせた。

「馬鹿野郎! 怪我してるのはあんただろうが!」

 声を荒らげる陽雨に、桐悟は顔を苦痛に歪めるも、もう一度微笑む。

『姉さん、急所には届いてなさそう。早く手当を』

 傷を看ていた月緒が陽雨を宥め、陽雨はそれに頷くと月緒と桐悟を見て言った。

「……月緒、警戒頼む。桐悟、悪い。少し待っててくれ」

 そして地に膝を突き、目を閉じて、祈るように両手を組む。

「ひ、さめ?」

 桐悟のその言葉を最後に、雪原に静寂が満ちた。

 凪いだ雪原に静けさが揺蕩い、やがて金の光が舞い出した。光は陽雨を纏い消えてゆく。そして黒髪に金色がざわりと揺れると、その頭に狐の耳が跳ね、尻尾がふさりと顕れた。

「待たせた。行くぞ」

 狐の姿を取り戻した陽雨は己の肩に桐悟の腕を回して支え、矢の放たれたほうを見据える月緒もそれを手伝った。

 しかし、彼女は本当に辛うじて・・・・といった様子でその姿を保っていた。金の輝きは黒髪を覆いきれず、斑模様が髪や尻尾を蠢くように揺らめく。〝力〟もそれほど使えないのだろう。桐悟の身体を重そうに支えていた。

 それでも一歩一歩雪を踏みしめる三人は、近くに見える小屋への遠い道のりを進んでいった。

 

 ふたりの動きは迅速であった。

 小屋へ辿り着くとひとまず桐悟を玄関先に下ろし、月緒は台所に駆け込み湯を沸かしながら手拭いをいくつか引っ張り出し、陽雨は囲炉裏の傍に布団を敷いて桐悟をうつ伏せに横たえた。

 そして陽雨は手のひらに光を生み出し、創った青色の短刀で矢の刺さったあたりの衣服を裂きながら言った。

「桐悟、抜くぞ。いいか?」

 同時に、湯と手拭いを隣に置いた月緒が両手を矢へ伸ばす。陽雨がやるものと思っていた桐悟は訝しげに思うと、彼女は唐突に短刀を己の手のひらに押し当てた。

「陽雨!? なにを――」

「いいから」

 手を血に濡らした陽雨は月緒と視線を交わし、

『桐悟さん、いきますよ』

 それに頷いた月緒が突き刺さる矢をぐ、と握りしめた。

「――ぐあっ」

 麻痺していた痛みが蘇り、桐悟は苦痛に顔を歪めた。矢に力が加わるたび、耐え難い痛みが背に走る。

 しかし矢の抜けた次の瞬間、その灼けるような痛みが優しい熱に包まれるのを感じた。

 陽雨が血に濡れるその手のひらを、桐悟の傷に押し当てていたのだった。

「これは――」

 柔らかく、心地よい流れが傷に染み入ってくる感覚に捉われながら、桐悟はどうにか己の背の傷――陽雨の手を見遣る。そこには温かな光が舞っていた。そしてみるみるうちに痛みは引いていく。

「――ふう」

 しばらくして陽雨が息をつき、彼女が手を離したそこを月緒が湯に濡らした手拭いで拭った。ほ、と息を漏らす月緒の顔には安堵があった。

 桐悟は目を丸くしてそこに触れてみるも、先ほど鮮烈に痛んだそこにはもう、傷跡しかなかった。まだ熱を感じるがもうあまり痛みはない。

「……嘘だろ?」

 すぐには理解できなかった。天威の〝力〟で傷を癒してくれたのだと。

「天威の血は〝力〟そのものだ。簡単な傷くらい塞げるんだよ」

 傷つけた己の手にも光を宿していた陽雨は、その血塗れの手をひらりとさせて言った。彼女の傷もすっかり塞がったようである。盥の湯で血を落とすと、――辛うじて保っていた――狐の姿を解いて座り込んだ。

「陽雨、大丈夫か?」

 桐悟は問う。先ほどまで重傷だったはずなのだが、彼女と比べると自分の方が元気に思える。

「一晩も休めば元に戻るさ。あんたも、体力を奪われてるはずだから今日は大人しくしてろ」

 陽雨は最後の〝力〟を振り絞ったという様相である。さすがの彼女も疲労を滲ませていたが、忠告するように言葉を継いだ。

「それから、塞いだとはいえ完治まではしてない。しばらく安静にしてろよ」

「ああ、分かった」

 桐悟は頷いて身を起こす。それくらいでは傷は痛まなかった。そして居住まいを正すと、ふたりに向かって頭を下げた。

「陽雨、月緒。ありがとう」

 月緒はにこりと微笑んで、

「それはこっちの台詞だ。馬鹿」

 陽雨は大きく溜め息をついて、その呟きを紛らわせた。

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