第二章 ―― 騒がしい日々 其の二


       ◇◆◇


 ふた組の足跡とひと組の轍を雪原に残し、陽雨と桐悟は帰路を辿る。大熊を載せた橇は、陽雨が一度小屋に戻り持ってきたものだった。

「橇は創れないのか?」と訊ねた桐悟も、「大きいものを創るのは疲れるんだ」と答えた陽雨も、今は黙々とそれを引く。しかし桐悟は無言でありながらも、時折陽雨を見ては視線を逸らすということを繰り返していた。

「――なんだよ」

 それにいい加減痺れを切らした陽雨は、桐悟を睨む。

「へ? あ、いや」

 そして桐悟はしどろもどろになって何か考える素振りをしたのちに、後ろの橇を見た。

「そう、熊!」

「熊?」

「〝霊山の狐〟は銀麗山の主って言ってたよな? 山に棲む動物を狩っていいものなのかなー、なんて思ったり……」

 桐悟は言葉尻を曖昧にして乾いた笑い声を上げた。陽雨は訝るような視線を向け、しかしひとつ息をついてそれを引っ込めて、教え諭すように答えた。

「何か勘違いしているかもしれないが、〝霊山の狐〟は山に棲むものの守護者ってわけじゃない。肉も魚も食べるし、人の狩りを邪魔したりもしない。言ってしまえば管理者みたいなもんだ」

「管理者?」

「長くなるから端折はしょるけど、〝銀麗山こういう場所〟は〝天威わたしたちみたいなの〟にとって特別な場所で、そこが荒れるのは困るんだ。度を超して山を荒らす輩とか、逆に人を襲いそうな獣とかをどうにかするのは仕事のひとつだ」

 陽雨は「まあ、銀麗山に入る人間はほとんどいないけどな」と続け、それに桐悟はまた問いかけを重ねる。

「じゃあこの熊狩りも仕事のうちなのか?」

「まあな。ただ、意味なんてあんまりないんだけど。そもそも事件なんて起こりようがないから、わたしたちなんていてもいなくてもなにも変わらん。『変な生き物が縄張りにしてる』くらいの認識でいいんじゃないか」

〝変な生き物〟の上に、〝道楽で義賊やってる〟とか〝怒らせると熊より怖い〟とかで飾り立てたい衝動に駆られたが、桐悟は慎重に心の奥底に仕舞いこみ、陽雨の言葉を思い返す。

 ――よく分からんな。無意味なのに仕事をしたのか。

 ――事件なんて起こりようがない? だからいてもいなくても変わらないのか?

 ――そして、銀麗山が〝特別〟とは、一体?

 桐悟は己の範疇を逸脱した事柄に、とりとめなく思いを馳せながら橇を引き、

「で、本題は?」

 再び訝しげな視線を放つ陽雨のひと言に、ぎくりとして足を止めた。

「な、何を言って――」

「本当に訊きたいこと、別にあるんだろ? まさか気づかれないとでも思ってたのか?」

 同じく足を止めた陽雨は呆れた様子で話の続きを促した。

「言うだけ言ってみろ」

「いや、でも……これは」

「わたしも聞くだけ聞いてやる。きっとこれが最後だからな」

「……最後」

 きっとそうなのだろう。熊鍋を振る舞ってくれると言ってくれたが、それを終えたら暮日崎に帰る。そしてここにはもう戻れないのだろう。桐悟にはそんな予感があった。

「お願いがある。陽雨――」

 だから、そうならないために――広く渡る雪の原と、青く抜ける大空を見渡して、再びあの殺気・・・・を受ける決意を固めた。

「俺に剣を教えてくれ」

 

 己に正対し、真っ直ぐにそう言った青年を、金の狐の少女はぽかんとして見て、首を傾げ、眉間に皺を寄せて、しばらく何か考える素振りを見せたのち、

「は?」

 すごい目つきで桐悟を見た。

「俺に、陽雨の剣技を教えてほしい」

 桐悟は繰り返す。陽雨は「聞き違いじゃなかったか」と頭を押さえ、再びすごい目つきを桐悟に向けて理由を問う。

「熊との戦いを見たところ、陽雨は何らかの剣術を修めているだろう? それも一般に出回っている流派ではなく、独特な。後手に回っての反撃に特化しているように見えたが」

「……目はいいんだな」

 陽雨は内心舌を巻く。ついでに舌打ちをひとつ。

「確かに、わたしはある人から剣を教わった。わたし自身も認められるくらいには遣えるようになったんだろうな」

「ある人?」

 謙遜にも程があることを言う彼女に桐悟は問う。陽雨は一瞬逡巡を見せるも、短く答えた。

「黒羽楼の剣術家だ」

 今は亡き大国――黒羽楼。その規模ゆえにおそらくさまざまな流派があったことだろう。陽雨の振るう剣はそのひとつと思われた。

 どういう経緯で――とまた口をつきかけるが、これ以上踏み入ることは躊躇われる何かを感じ、桐悟は押し黙る。そんな彼に、陽雨は目を伏せて言った。

「だがわたしは、大部分天威の〝力〟に頼っているからかなり我流が混じってる。教えるなんてとても無理だ。そもそも一朝一夕で身につくものではないし……いや、まさかあんた――」

 肩を竦める彼女を、しかし桐悟は変わらぬ意志をもって見続けていた。

 その目に宿る力に陽雨は嫌な予感がして彼を見遣り、そして桐悟は彼女の恐れていた類いの言葉を放ちながら勢いよく頭を下げた。

「ものになるまであの家に置いてほしい」

「却下だ」

 即答だった。桐悟は下げた頭の上から強烈な視線を感じつつも、しかし頭を下げ続ける。

「ああ、『言うだけ言え』と言ったのはわたしだ。だが『聞くだけ』とも言った。なにか話して聞かせるくらいなら呑めたがそれは無理だ。分かったら頭を上げろ」

「どうか、頼む」

 陽雨の言うことに反し、桐悟は膝と拳を雪の上に突いてさらに深く頭を下げた。

「――いい加減にしろよ」

 そして、ついに彼女の頭の中か心の中にある何か大切な糸が切れた。陽雨の放つあの殺気・・・・が桐悟に惜しみなく注がれる。ただでさえ寒い雪山の屋外が、一層凍えるものと感じられた。

「言ったはずだ、最後だと。これ以上の面倒が重なるなら、本気でその首刎ね飛ばすぞ」

「……どうか」

 怒気を込めて言葉を紡ぐが、帰ってくるのは切実な声。

 苦虫を噛み潰したような顔で奥歯を軋ませる陽雨は、既視感を覚えながらひとつ、大きく息をついて雪の上の桐悟に問いかけた。

「なぜ、そこまで」

「力が、ほしい」

「なぜ?」

「……家族を、妹を守りたい」

 未だ頭を上げぬまま、しかし揺らがぬ声音で言い切った。

「俺の家は貴族街にあるが、別に貴族というわけじゃない。親父が城の高級官吏というだけだ」

 ゆえに自分も〝霊山の狐〟対策隊副隊長などという身の丈に合わない役職を得ているわけだが、と付け足して続ける。

「そんな親父は暮日崎のまつりを正そうと、今手を尽くしている。しかしそれは多くの官吏を敵に回すことだ。俺はともかく、妹にいつ危険が及ぶか分からない。それを守れるだけの力が――武力でも政治力でもなんでもいい。力が、ほしい」

「それに敵の力を借りていいのか?」

 同じく妹のいる陽雨だ。彼の言葉に何か思うところがありつつも、しかし凍てつくような殺気を収めぬまま桐悟に問う。だが――

「おまえは敵じゃない!」

 がばりと顔を上げて断言する桐悟に、その強い瞳に目を丸くして立ち尽くした。

「俺もおまえのように強くなれるのなら、これほど心強いことはない。どうか、俺に強くなる手助けをしてほしい」

「面倒なのは嫌いだと言っただろうが」

 桐悟は再び頭を下げる。陽雨は彼を見下ろすが、その目にあった怒気は薄らいでいた。

「立て」

 しかし放たれた言葉は氷のようで、その威圧感は健在で、

「陽雨」

 どのような沙汰が下るのか、不安を混じらせながらも意志の燃える目で桐悟は陽雨を見る。

 ――また、その目か。

 陽雨はその目にそんな思いを抱いた。

「〝宵空よいぞら〟」

 ひと言呟いて青の刀を手に創り上げ、そのきっさきを桐悟の眼前に突きつけた。

「立って、構えろ」

「待っ……俺がおまえに勝てるわけ――」

 ぎょ、と驚いた顔で桐悟は狼狽えるも、口走った言葉を何とか押しとどめ首を振る。

 そして、決然として頷いて徐に立ち上がった。

 陽雨は踵を返して桐悟から距離を取ってゆき、桐悟は腰の刀を抜いて峰を返して構える。

「――お願い、します」

 対する陽雨は突っ立つように桐悟に向いた。構えてはいないが相変わらず隙はない。

 相手は一国を相手に喧嘩ができるという、伝説の生き物だ。彼自身己に勝ち目がないことは分かっていた。

 だが、それでも――

「いざ、尋常に――」

 桐悟は刀を脇に沿わせて構えを取る。

「御託はいい。さっさと来い」

 陽雨は僅かに腰を落とした。

「――勝負!!」

 ふたりの間を風が雪煙を巻き上げて駆け抜け、桐悟の足もとの雪が跳ねた。

 

 疾走して迫り来る暮日崎の兵士に、金の狐の少女は刀をふわりと大上段に掲げ、彼が間合いに入った瞬間振り下ろした。

 風のように疾く鋭い斬り下ろしは、しかし虚しく空を切る。来ると分かっているものを躱すのは簡単だ。陽雨も当たるとは思っていなかっただろう。まずは小手調べといったところ。

 そして手番は陽雨の側面へ回り込んだ桐悟に移る。右腰に沿わせた刀で斬り上げを放ち――これが当たらぬと見ると頭上で鋭く旋回させて袈裟懸けに二撃目を放つ。溜めに無駄のない、流れるような二連撃。けれどこれも当然のように当たらない。

 躱し切った陽雨は大きく背後へ飛び退き、それに桐悟の三撃目が追い縋った。

「せいっ!」

 深く踏み込んでの横薙ぎは、甲高い音を響かせて陽雨の刀に喰らいつく。そしてまた同じ音を響かせて弾かれ合い、青の刃と鋼の峰が火花を散らした。

「ぉぉおおおおっ!」

 渾身の剣撃が三度、いとも容易く捌かれた。しかし桐悟は怯むことなく猛然と斬りかかってゆく。力量に差があることは百も承知だ。

 己にできることはただひとつ、ひたすらに刀を振るうこと。勝機があるとすればまぐれでもなんでも、陽雨がその気にならぬうちに一本入れることだ。彼女が本気だったら開始と同時に雪原に斬り伏せられていたであろうことを自認する桐悟は、陽雨がこの戦いに情けや容赦をいかほどか持ち合わせてくれているのを感じながら全霊の刀を繰り出してゆく。

「なんだ桐悟、必死だな!」

「今必死にならずして、いつなれと言うのだ!」

 七合、八合、九合と打ち合いながら陽雨は軽口を叩き、桐悟は攻め手を緩めずに怒声を返す。そしてそれがそろそろ二十合を数えようとしたとき、がきん、とひときわ強い金属音が鳴り、ふた振りの刀が噛み合った。

 今度はすぐに弾かれることにはならず、鍔迫り合いの様相を呈して戦局は止まる。ふたつの刃を隔てて、ふたつの視線が交わった。

 ぎり、と歯を噛み鳴らして陽雨をその場に縫い留める。精一杯の桐悟の力にも負けずに押し返してくる陽雨は、凶暴に鋭い犬歯を剥いた。

「なかなか遣えるじゃないか」

「そりゃどう、もっ!」

 さすがにかちんときて、桐悟はさらに力を振り絞る。瞬間――彼は陽雨の顔が歪むのを、確かに見た。

 ――もしかして。

 桐悟の脳裏に朝の出来事が思い返される。大きく重い水瓶を運ぶ陽雨は、それを怪力ではなく〝〟で軽くしている・・・・・・と言った。

 つまりは彼女の腕力は常識の範疇に収まるほどのもので――それでも兵士の桐悟と張り合えるほどだが――、そして今は桐悟の力を軽くするような真似はしていない。

 ――理由は分からんが、これは勝機だ。

 暗闇に光が差し込んだ心地の桐悟だったが――

「舐めるな」

 ぎらりと金の瞳が光を放った。そしてまた、あの真冬の泉に叩き落とされる錯覚。

 陽雨は噛み合う刀を、するりと桐悟が力を加えるままに逸らす。そして下方へと回った刀を撥ね上げ、足を掬うように桐悟の体勢を崩した。

「!?」

 油断などしていなかった。少なくとも油断と呼べるほど気を抜いていたわけはない。そんな油断未満の隙をついて陽雨は桐悟を転ばせ、その瞬間刀を三度閃かせた。

 崩れながらもその刀を受けきった桐悟は、ばくばくと跳ねる鼓動を必死で抑えつける。

 ――恐ろしい技量だ。

 体勢を立て直した桐悟は陽雨の抜けた方へ慌てて構える――が、しかしそこに人影は見当たらない。

 桐悟の頭に過ぎる疑問――と同時に襲い来る悪寒と風切り音。

 ぞくりと身を震わせ、崩れるように雪原へと身を伏せる。

 直後、後頭部すれすれを通り過ぎたのは、桐悟を跳び越えざまに放たれた陽雨の斬撃だった。

「はっ、よく避けた」

「いくらなんでも滅茶苦茶過ぎないか!?」

 九死に一生ものの危機をふたつ立て続けに脱した桐悟は、冷や汗が止まらぬ思いだ。そしてこの滅茶苦茶な立ち回りは、きっと〝霊山の狐〟の〝力〟によるもの。つまり、

 ――自分を軽くしてるのか!?

 ここからが彼女の本領発揮。桐悟は逆鱗尻尾に触れてしまった。勝機を完全に失いながらも、それでも彼は刀に込める力を緩めはしない。

 桐悟は駆ける。やることは変わらない。着地の隙に猛然と突っ込み、刀を繰り出す。

 しかし、次の瞬間には陽雨が消えた。

「なっ!?」

「こっちだ」

 そして背後から声。振り向きざま、刀を立てたところに強い衝撃が放たれる。気を取り直したときには、陽雨はまた消え、死角から斬撃が飛んできた。

 それらを辛うじて捌くも、こうなってしまうと桐悟に取れる策はない。もともと取れる策などあったかどうかは疑問であるが、彼は防戦を強いられる。

 下手に攻勢に転じようものならその瞬間に五回は死ねる。

 できることはひとつ。金の狐の少女が隙を見せるまで、粘り続けることだけだった。桐悟は縦横無尽に放たれる剣撃を、もはや奇跡と言って差し支えない回数受け、弾き、躱していった。

 ――っ、もう……。

 そして、己の力の限界に到達しようとしたとき。

「お?」

「!?」

 陽雨が止まった。

「――隙っ!!」

 その原因は陽雨の足もとに転がる岩。雪に隠れていたそれに、彼女は足を取られたのだ。

 片膝を突いて明らかな隙を晒す陽雨に、桐悟は間髪容れずに刀の峰を打ち込む。きっとこれが最初で最後の好機。

 しかし、瞬間、桐悟は自身の選択の誤りに気づく。

 陽雨の顔にはなんの戸惑いも過ちを犯したという様子もなく、鋭さを湛えた金の瞳で桐悟とその刀を見ていたことに気づいたからだ。

 ――自分で言ったではないか。〝後手に回っての反撃に特化している〟と。

 そして――

「――〝舞月まいづき〟」

 そう呟いた陽雨は、桐悟の背後より斬撃を放っていた。

 

 陽雨が体勢を崩したとき、彼女は桐悟の刀が振るわれるその先に刀を翳して身構えた。

 対する桐悟の狙いは陽雨の左肩。つまり袈裟の打ち込み。陽雨の刀とぶつかることになるだろうが、勢いの乗った刀は翳しただけの防御など弾き飛ばしてしまうと思われた。

 しかしそうはならなかった。風を切る音とともにやってくる刀を、陽雨は――刀と刀が触れた瞬間に――己の刀を返すことでほんの僅かだけ軌道を書き換える。

 刃の滑る、澄んだ響きが奏でられると同時に、陽雨は前に身を投げる。桐悟のすぐ脇、軌道が逸れてほんの僅かに空いた安全地帯へ。そこを目がけて、ひねりを加えた足さばきで。

 低く跳躍しながら回転する陽雨は、桐悟の刀を潜り抜け、それを放った彼のほとんど背後を取る格好ですれ違い――そして舞いながら、空中でさらにもう一回転して横薙ぎの一閃にて後頭部を狙った。

〝舞月〟。陽雨の会得する剣技のなかでも特に回避の難しい、その名の通りの必殺技であった。

 

 ――が、しかし。

「「!?」」

 高く澄んだ音が響き渡り、陽雨の青の刀――〝宵空〟が砕け散った。驚きに呆然とする陽雨の視線の先には、同じく呆然とする、不格好な体勢で固まる桐悟。そして形振り構わずその背面に掲げたと思われる、彼の刀。

 ――結論を言えば、桐悟の刀は陽雨の〝宵空〟を叩き割ったのだった。

 しかしそれは桐悟が何かしたからというわけではない。

 陽雨が――陽雨の意思一つでその強度、密度を自在にできるその刀を、限界まで脆くしたというだけの話だった。

 それを、『なぜ?』と問うことのできる者はいない。それができる唯一の人間石蕗桐悟は、なにが起きたか、なにを問えばいいのか分からないのだから。

 また、もし問いかけることができても陽雨は絶対に答えるまい。

 ゆえにここで語るなら――陽雨は桐悟を殺す気は微塵もなかった、ということだ。

 刃のぶつかるときは鋼の強さで、身に当たるときは朽ち木の脆さで彼女は刀を振るった。特に頭部に向かうときは。

 いくつかの偶然を重ねて、桐悟の刀にぶつかったというのが、この一幕の大まかな真相だ。

 

「あの、陽雨?」

 かけられた声にびくりと我に返り、陽雨は未だ不格好なままの桐悟に向く。

「これ、どうなるんだ?」

 陽雨の刀は砕け散った。しかしそれを己の勝利とは思えない桐悟は、困惑して勝負の行方を問いかける。

 それにしばらく沈黙を保っていた陽雨はつかつかと歩み寄って右手を振り上げ、そこに光を生み出し、風を巻いてそれを振り下ろした。

「ぶっ!?」

「一本。わたしの勝ち」

 すぱぁん、といい音を響かせた例の張り扇を手に、無感動に勝利宣言。

「な!? ずるいぞ!!」

 当然いきり立つ桐悟。陽雨はそれを無視して彼に背を向け空を仰ぐ。

 その、背けられた表情が渋面にしかめられているのを、桐悟は知る由もない。

 

 岩に足を取られてから、陽雨にはひとつの不運とふたつの過ちがあった。

 不運は桐悟の振るう刀が・・・・・・・・峰打ちであった・・・・・・・こと。

 峰打ちはその名の通り〝打つ〟もので〝斬り下ろす〟ものではない。ゆえに刀を斬り下ろして隙だらけの相手に剣撃を叩き込むはずの〝舞月〟に、桐悟はぎりぎりのところで防御を間に合わせた。斬り下ろさず・・・・・・打ち込んだ・・・・・彼は、陽雨の知らぬところで――己も知らぬまま――生に繋がる切り札を得ていた。

 過ちのひとつ目は、己の技――〝舞月〟を信用しすぎたことだ。

〝合わせ〟〝逸らし〟〝躱し〟〝斬る〟一連を一息に行う技、それが〝舞月〟である。陽雨をもってしても扱いの難しい、それゆえ決まれば必殺の秘剣だ。初見で捌くことなどあり得ない。

 それゆえ、脆くした刀を桐悟の刀にぶつけてしまった。先の不運と、桐悟の目と勘の良さを侮った結果だった。

 そしてふたつ目は、驚愕のあまり足を止めたこと。

 桐悟の無様な格好が示すとおり、彼はあと一撃でも飛んできたらおしまいだった。

 失敗を即座に自認し、すぐさま刀を再び創り出して斬りかかれば陽雨の勝利で終わったことは言うまでもない。それができなかったことは、己の未熟さの露呈。過去最大級の悔しさに陽雨の奥歯がぎり、と悲鳴を上げる。

 ――手心は加えたが負けるつもりはなかった。なればこそ、勝てなかったことが悔しかった。

 

「おい、聞いてるのか」

 あくまで納得できずにがなり立てる桐悟に、向き直った陽雨はもう一度その頭に張り扇を落として黙らせ、すごい目を向けて言った。

「剣は教えん。そもそも、さっき言った通り教えられるものじゃない」

「陽雨……」

 桐悟は不機嫌そのものに染められた陽雨の目に気圧され、それ以上言葉は続けられなかった。よく分からない結末になってしまったが、しかしこれ以上彼女を困らせるのは危険であるし望んでもいなかった。

 だが諦めきれない気持ちも本物だった。桐悟は困窮した目で陽雨を見る。そのとき、

「だが――」

 陽雨はもう一度背を向けて、肩越しに彼を見て言った。

「剣は教えんが、稽古につき合うというだけなら……」

「――本当か!?」

「きゃっ!?」

 陽雨の言葉を遮って、勢い込んで詰め寄った。陽雨の正面に回り、その肩を強く揺する。

「離れろ!」

 驚きに目を見開く陽雨は少し頬を赤くして、そして三度みたび張り扇を閃かせた。彼女の瞳は驚きに塗れてはいたものの、もう剣呑な光はない。

 我に返った桐悟は痛そうに頭をさすりながらも、「なぜ?」という思いに首を傾げる。その訝しげな表情に気づいた陽雨は桐悟に言った。

「己の未熟さを思い知ったからな。叩き直すのに稽古相手がいた方が都合がいいだけだ。それにあれ・・を受けられたのなら文句はない」

 あれ・・とは〝舞月〟と呼ばれた技のことだろう。しかし陽雨が未熟なら熟練、熟達とはどのような武人を指すのか、桐悟は苦笑いしか浮かばない。

 それでも望みの叶った桐悟は徐々に喜色を満面に、そして全身に渡らせてゆき、喜び勇んで陽雨に礼を言おうとしたところで、

「――だが桐悟。あんた、覚悟しろよ」

 そして一変、凍りつく。

 そう言った陽雨は鋭い犬歯を覗かせ、黒い笑みを満面に湛えていた。

 ――楽に手に入る力などない。厳しい城勤めをしている桐悟が得たのが今の力であるならば、それを上回る力を手に入れるに必要な苦労はいかばかりか。

 桐悟は怖気に身を震わせる思いだったが、今さら撤回はできない。また、撤回できるとしてもするはずがない。

「――宜しくお願いします!」

 恐怖を振り払い、気合いを一新。そして陽雨に正対して深く深く頭を下げる。

「畏まるな。わたしはあんたの師匠になったわけじゃない。敬語とか使ったらぶっ飛ばす」

 懐かれても面倒だと、陽雨はぎろりと桐悟へ視線を突き刺す。だいぶ離れてしまった橇のもとへと歩き出し、ふ、と息をついて言葉を零した。

「まずはこいつを捌いてからだな。……月緒、遅くなったの怒ってないといいけど」

 

 最後、陽雨がぼそりと呟いた望みは叶わなかった。月緒は直接頭に『遅すぎる』『心配した』と説教を響かせ、姉と居候は正座で向き合ってそれに応じた。

 そののち、一頻り説教を食らった陽雨はおずおずと桐悟の逗留の話を切り出した。それに月緒は、経緯を一切聞かないままに了承を即答する。内心拍子抜けする桐悟に、陽雨はこうなることが分かり切っていたというふうに視線を遣った。

 桐悟は〝月緒が怒ると怖い〟と教訓を得、これからの山籠り生活に期待と不安の入り雑じる――比率は三対七の――心を、どうにか落ち着けることに精一杯であった。


 そして。

『どうしてこうなったの?』

「いや、ちょっと熱入っちゃって」

 日没が訪れ、陽雨と月緒は夕食の準備に台所に立つ。そして月緒の視線は玄関先に突っ伏す桐悟に注がれていた。

 呼吸はしているようだから生きてはいるはずだ。しかし起き上がる気配は微塵もなく、朝と昼にはしていた手伝いに入る余裕など、言うまでもなくない。

 あれから、あらかたの家事――熊を捌くことも含めて――を終えた〝霊山の狐〟と暮日崎の兵士は早速稽古に取りかかった。

 初め陽雨の機嫌はとても良好とは言えなかったが、次第に楽しくなってしまったらしく――

 その結果がこれである。

『いったい何本入れたの?』

「百を超えたあたりで数えるのやめた。多分二百いかないくらいかな」

 正しくは百七十二本。桐悟がぶっ倒れるまでに陽雨が入れた剣撃の本数である。

『姉さん、やりすぎ』

「ちょっと反省してる」

〝力〟で創った青色の包丁で芋の皮を剥く陽雨は、苦笑いで桐悟を振り向いた。

 こうして、銀麗山の一日はいつもと違う騒々しさをもって暮れていった。

 

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