第二章 ―― 騒がしい日々 其の一


 銀麗山の朝は早かった。

 あれから碌に眠ることができなかった桐悟は夜明けを覚えてしばらく後、戸の向こうに物音を聞いた。惚けた頭を軽く振って起き出してみれば、ちょうど起きてきたと思しき月緒がぺこりと会釈をくれる。

「おはよ……う?」

 始めて会ったときの姿――黒髪黒瞳の彼女に挨拶を返した桐悟だったが、しかしそれは月緒の背後にいる――黒髪の――陽雨に目を留めて口ごもる。目の据わった、やたら不機嫌そうな陽雨に。

「……なんだ」

「いや、なにも。おはよう」

「ああ、おはよう」

 そして陽雨は水瓶から手桶に水を移し、それを持って外へと消えた。

『姉さん、朝弱いんです』

 とは月緒の言だ。

 桐悟は、陽雨の不機嫌の原因が昨夜の一件でないことに息をつく。そして身支度を整えた彼は、不機嫌な陽雨に今触れるのは危険と判断して月緒になにをするのか問いかけた。

『水を汲みに行こうかと』

 いつの間にか銀の狐の姿になった月緒は、玄関先にある水瓶に目を遣って答えた。その中身は三人の朝の支度で使ったのを最後に底をついていた。

「手伝うよ。人手はあった方がいいだろ?」

 一抱えほどもある大きな水瓶だ。満たすのには三人がかりでも水場を何往復かしなければならないだろう。男手をふるう機会に桐悟がやる気を出した――が、そのとき。

 その大きな水瓶を、あくび混じりにやってきた金の狐の少女がひょいと持ち上げた。

「人手はいらん。月緒、行くぞ」

 そしていまだ眠気を引きずった様子で、水瓶を担いで外へと向かう。

 呆気にとられた顔の桐悟は、銀髪を揺らしながら陽雨について行く月緒を見送り、そして我に返ってその後を追う。そして桐悟はもう何度目になるか分からない信じられないものを見た。

 沢に水瓶を倒してその中の半分ほどを満たし、そしてそれを変わらずに軽々と担ぐ陽雨と、

 残りの半分ほどの量の水を宙に浮かべ、球体にして運ぶ月緒を。

 

       ◇◆◇

 

 朝食後の緩んだ空気が漂う中、桐悟は陽雨に切り出した。

「陽雨は怪力なのか?」

「乙女に向かって何を言うか、この男は」

 お茶を啜っていた陽雨は金色の髪を掻き上げて、顰めた顔を桐悟に向ける。

「さっきのことなら、あれも天威の〝力〟だよ」

「〝力〟? 刀を出すこと以外にも何かできるのか」

 桐悟に「まあな」と頷いた陽雨は右の手のひらを広げ、青の刀を生み出す。それにもうあまり驚きを見せない桐悟を一瞥すると、「ま、いいか」と呟いて向き直った。

「あんまり人に言うなよ。妖狐の――〝霊山の狐〟の〝力〟は大きく分けてふたつある。〝創る力〟と〝繋ぐ力〟だ」

 仮にも敵に手の内を明かすというのに、陽雨の躊躇は数秒、『ま、いいか』だけであった。それは揺るぎない自信の表れだろう。

「〝創る力〟は見ての通りこれのこと。単純な形の物なら何でも創れる。程度はあるが」

 そう言って左手に白の投剣――昨夜桐悟に投げられたものだ――を数本創り、しばらく考える素振りを見せて両手の刀を消すと、金に輝く丁髷のかつら・・・・・・を創って桐悟の頭に被せた。

「おお、似合うじゃないか」

「……どうも」

 桐悟はじとりと陽雨を睨み、改めてそれをよく見る。趣味の悪い金色の硬質な手触りの丁髷。淡い光を放つそれは、しかし数秒ののち大気に解けるように消えてしまった。

「消えちゃったぞ」

「わたしが触れてないと形が保てなくなる。あと、壊れても消える」

「そういうものか。でたらめすぎてよく分からんが。……で、〝繋ぐ力〟というのは?」

「さっきの月緒を見ただろ? ああいう感じだ」

「さっぱり分からん」

 水を宙に浮かせて持ち運ぶ。ここに来てから超常現象が揃い踏みであったが、これはその中でも群を抜く超常であった。

 と、そのとき、洗い物を片づけた月緒が戻ってきた。

『〝力〟の話ですか?』

「ああ、きみの〝力〟。あれはどうなっているんだ?」

 直接触れていないため、少し遠さを感じながら桐悟は訊ねる。

『…………』

 月緒は何か考えるような仕草をしたのち、おもむろに火箸に手を伸ばした。

「月緒、わざわざ見せなくてもいいぞ」

 陽雨は月緒を止めるが、しかし月緒はふるふると首を振って陽雨を見据えた。その視線に何も言えなくなった陽雨は肩をすくめて姿勢を崩す。

 桐悟はそのやりとりにどのような意味があったのかはわからない。頭に疑問符を浮かべて炭火を掘り起こす月緒を黙って見ていた。

 そして月緒の火箸が炭火を突き刺し火の粉が散った、そのとき。その火の粉を手のひらで受け取ったそこに、炎が生まれた。

「…………なにそれ?」

「月緒の〝繋ぐ力〟だよ」

 手のひらに炎を宿す月緒。それを呆然と見やる桐悟に、陽雨が答えた。

「月緒には、大気とか炎の中に棲むなにか・・・が見えるらしい。それにお願い・・・して、こういうことができるようになるんだと」

 陽雨の説明の横で、月緒は炎の球を三つ、四つと増やしてお手玉を始めていた。

「これ、陽雨にもできるのか?」

「わたしのは〝創る〟ことが主だよ。〝繋ぐ〟ことはせいぜい、触れたものの重さを軽くできるくらいだ」

 桐悟は「それが怪力の正体か」と呟き、納得する。そういえば盗んだものは結構な重さになることもあったというのに、この義賊はひょいひょい担いで走り去っていた。

「――って月緒、やりすぎだ。ちょっと落ち着け」

 桐悟に対してちょっとばかり得意げにしていた陽雨は、慌てて月緒を制止した。見ると、月緒は十に近い数の火球を弄んでいた。

 それに悪戯っぽい笑みを浮かべた月緒はそれらをひとつにまとめ、大きな炎にしたのちに、

 ――ぱぁん。

 と、手を打った。

「うわっ!?」

 月緒の手に潰され、花火のように弾けた炎に桐悟は咄嗟に顔を守る。しかしそれは熱を伴わず、何も焦がすことなく霧散した。

 桐悟は目を丸くしてなにも残っていない月緒の手のひらを見て、視線を上げて満足げな微笑みを浮かべる彼女と視線を交わした。

「……おまえたち、本当に伝説の天威なんだな」

「何を今さら」

 そして桐悟は月緒の会話も、〝繋ぐ力〟を利用していると聞いた。桐悟はどうにも受け入れ難い現実に遠い目をして、そしてあまり疑問に思わず、納得してしまえている自分に苦笑する。

 その元凶――お茶を啜る陽雨に目を移したそのとき、ふいに金の尻尾が桐悟の傍へとふわりと揺れた。ふと桐悟はそれに目を留める。金に輝く狐の尻尾。ふわふわしていそうな、滑らかな毛並み。彼が手を伸ばしたことに深い考えはなく、少女は手を伸ばされたことに気づかなかった。

 そしてふかっとした極上の感触が彼の手に伝わった、瞬間――

「にゃうっ――――!!」

 びくり、と陽雨が跳ねた。

「にゃう?」

 ――思いのほか可愛い悲鳴だな。とか、狐は犬の仲間のはずでは? とか。その一瞬にそんな思いを巡らせた桐悟の頭に、

「この……痴れ者!」

 青の一閃が放たれた。

「っだ――は、はりせんっ!?」

 すぱぁん、としかし軽快な音を立てて振り抜かれたそれに、桐悟は目を丸くする。見るとそこには、深い青色のたゆたう張り扇がひとつ。

「次やってみろ、これでいくぞ」

 息荒く額に青筋を立てる陽雨は、張り扇を投げ捨てると手のひらに光を散らす。そしてそのあとには見覚えのある、青の刀が握られていた。

「す、すまない。つい……」

 桐悟は慌てて謝る。陽雨は今まででいちばん本気の目をしていた。

 

 ちなみに。

 それの付け根――陽雨の袴のお尻には、尻尾が出せるよう穴が空けられており、うまく折り込み縫い留められて不自由のないようにしているようだった。もちろん奥は見えないようになっている。おそらく月緒の女物の着物にも同じ仕掛けがしてあるのだろう。

 ――特注? ……いや、手作りか?

 天威も大変だ。桐悟はしみじみと思った。

 

       ◇◆◇

 

 そして太陽は高く昇り、しかし桐悟は未だに銀麗山にいた。

 桐悟は食事のあと、彼女らの手伝いに従事した。掃除、薪割り、畑の世話など諸々。その後薪拾いや野草採り、狩りをするべく陽雨とともに林へ入ったところで、ある事態に直面した。

「なあ陽雨。ずいぶん暖かくはなったが、まだ冬のはずだよな」

「わたしもそう思う」

「じゃあこれはどういう?」

「まあ、ちょっと早起きしたんだろ?」

 ――ぐる。

「その早起きで、俺たち大変まずいことになってないか」

「ちょっと面倒事が転がってきただけだ。そういう意味では昨日のあんたと同じだよ」

 二人は会話をしていたが、その目はお互いに向けられていない。二人で同じ方に向けられ、同じものを見ていた。また、息を呑む桐悟に対して陽雨は相変わらず軽い調子であったが、表情は真剣である。

「……どうしたらいいと思う?」

「どうもこうも、やるか、逃げるかしかないだろ」

「じゃあ逃げよう」

 桐悟は緊張を滾らせたまま、じりと後ずさろうとする。

 ――ぐるるる。

「……いや、やっぱり駄目だ。放っておいたら麓に下りるかもしれん。そうしたら人を襲う」

 一方陽雨は腰を落とし、いつでも動ける姿勢を取る。

「じゃあ――」

「やるしかないだろ。ここで狩っとくのが正解だ」

「やるって……陽雨おまえ、相手は――」

 ――ぐるおおおおおおお!

「熊だぞ!?」

「わかってるよ!」

 そして立ちふさがる、見上げるほど大きな熊がその爪を振り下ろし、ふたりは弾かれるように飛び退いてその一撃から逃れた。

「本気か!? というか勝てるのか?」

「天威が熊ごときに舐められてたまるかよ」

 別々の方に逃れたふたりは、熊を挟んで身を固める。

 桐悟は集めた薪を放り捨てて刀を抜き、陽雨は右手を胸元に持ち上げ、

「〝夕焼ゆうやけ〟!」

 その手に、黄昏色の太刀を生み出した。

 桐悟の見慣れた青色の刀ではない。それよりもふた回り以上大きく太い、無骨な見た目の大太刀であった。

「喜べ。昼は熊鍋だ」

「そんなこと言ってる場合じゃない! 行ったぞ!」

 そして再び熊は爪を振り下ろす。狙われた陽雨は大きく飛び退いて危なげなくそれを躱した。

「陽雨! 大丈夫か?」

「問題ない。あんたは下がってろ」

「しかし」

「いいから!」

 そう言いながらも陽雨は迫り来る爪と牙をひらひらと躱し、また、刀で逸らしている。

「……さすが」

 その様子に目を奪われる桐悟。熊の目は完全に桐悟から逸れており、彼は少し離れたところでことの成り行きを見守っていた。

 確かに、天威が相手なのだ。たとえ大熊といえども相手が悪い。そう思う桐悟は寸前の恐怖を安堵に変えてゆく。――しかし。

「……?」

 陽雨を注視していた桐悟は違和感を覚える。戦況に変化が見られない。自信に満ちた口振りであった陽雨は、攻めあぐねるように防戦を続けていた。

 天威の超常の力で大熊を真っ二つにするものと思っていた桐悟は、訝しげに眉根を寄せる。

 いや、違和感はそれだけではない。――あれは。

「人の、剣術?」

 攻撃を防ぐ陽雨の構え、体さばきは――真似できない速さではあったが――人が学び、扱う剣術であった。自分たちはいままで理解する間もなく倒されていたから分からなかったが、天威が人の剣術を振るうというのもおかしな話だと疑問を覚える。

 だが、この場でそれを遣うということは、それに頼らざるを得ないということで。

 つまり、圧倒的な力でこの状況を片づけることはできないという表れだと桐悟は気づく。

「あいつ、結構まずいんじゃないか?」

 そして未だ防戦を続ける陽雨を見て血の気が引いた。慌てて辺りを見回し、そして握ったままの刀に目を落とす。狩りのためにと持ってきたものだったが、これで大熊に正面切って太刀打ちできるとも思えない。

 ぎり、と歯噛みすると、それを鞘に納めて近くの木に手をかけた。

 

 熊の爪を大きく跳んで躱した陽雨は手の大太刀を振り上げて――しかし空中で反転し、木を蹴って熊の牙から逃れた。

「これ、ちょっとやばいか?」

 陽雨は自嘲気味に口もとを歪めた。

 彼女はもちろん勝算もなしに向かっていったわけではない。現に陽雨は熊くらいなら、今までに何度も狩っている。

 しかし今回は特別な大熊だった。上手くやらねば刃は通らないし、通ったとしても不必要に苦痛を与えてしまう。

 狩るならは一撃必殺。陽雨はそう教えられた。

 だが、それでも陽雨は天威である。この程度の劣勢をひっくり返す奥の手はあるにはある。そうすれば決着は簡単だ。しかしあれは――

「大人げないって言うか、はしたないんだよ――なぁっ」

 そんな呟きを、爪を躱しながら漏らした。

 ――るぉぉぉおおおお。

 一向に捕まらない相手に苛立ちを露わにして、猛然と大熊が迫っていく。

 激しさを増す爪と牙に、陽雨はそんなことを言っている場合ではないと思い知った。そして慌てて大きく跳びしさり、決意を固め、

「仕方ない、覚悟――」

 襲い来る大熊を身を翻して躱して、太刀を持つ右手を掲げ――

「陽雨!」

 ――たところで、石蕗桐悟が降ってきた。

 

「うおおおおお!!!」

 木をよじ登り大熊の直上を取った桐悟は、刀を突き立てるように構えて飛び降りた。

 陽雨を追うことに全力を傾けていた大熊は桐悟に気づかない。そして桐悟の刀は、大熊の肩に深々と突き刺さった。

 ――ぐるぉおおおおおお!!

 大熊は痛みに吼える。大きく身を揺すって桐悟を雪の地面に振り落とし、衝撃に低く呻く桐悟に爪を振り上げた。

「くっ」

 すぐに体勢を整えた桐悟だったが、大熊の爪は今にも振り下ろされそうで――

 必死に頭をかばう桐悟に、しかし、

「上出来!」

 高々と声が通った。

 そして金と朱の輝きが閃いたかと思うと、大熊はその姿勢のままぐらりと傾き、どう、と地面に倒れ伏した。次いで寸前までそれに乗っていた頭が、どさりと桐悟の眼前に落ちる。

 へたりこんだまま呆然とそれを見ていた桐悟に、手が差し伸べられた。見上げたそこには八重歯を剥いて強い笑みを浮かべる少女がいた。

「お手柄だ桐悟。立てるか?」

「あ、……ああ」

 桐悟は平静を取り戻そうと努めながら陽雨の手を取り、

 ――あれ? 今。

 少しの違和感に眉根を寄せた。

「名前……」

「ん? どうした」

「いや、なんでも」

 陽雨は気づいているだろうか。初めて桐悟の名を呼んだことに。

 それに少し誇らしさを感じながら、青年は未だ蒼白の顔面に苦みの滲む笑みを張りつけて立ち上がった。

 

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