第一章 ―― 義賊と兵士 其の二


       ◇◆◇

 

「あの、〝霊山の狐〟さん」

「陽雨でいいぞ」

「あ、ああ……えと、陽雨さん?」

「呼び捨ててくれて構わん」

「…………陽雨」

 桐悟はじとっとした目を話の腰を折りまくる金の狐の少女に向ける。そしてひとつ咳を払い、

「これは一体?」

 それでも問いかけを重ねた桐悟は己の手もとに視線を落とした。

「ん? 腹、減ってないのか?」

「そういうわけではないが……」

 彼の視線の先には膳が置かれ、そして今、味噌汁が手渡された。手渡したのは無垢な笑みを浮かべる銀の狐の少女――月緒だ。

 ――桐悟は彼女たちの夕食に誘われ、囲炉裏を囲んでいた。彼の右手側に陽雨が座り、準備を終えた月緒が左手側に座った。

 囲炉裏のある板の間は程よく広く、桐悟から見て右側には別室へと続く扉が、左側には台所がある。別室は少女たちの寝室と思われ、彼が寝かされていた部屋は囲炉裏の向こう側にある。玄関は背後で、そこに桐悟の具足と没収された刀が見えた。部屋の四隅に行灯の火が灯るそこは、山小屋とは思えないくらい立派な造りをしていた。

 ――どうしてこうなった。

 昨日までの日常が懐かしい。桐悟は現実逃避気味にしみじみと思い出に浸る。

 謎の少女たちとともに囲炉裏を囲む。それはきっと、崖から落ちるよりも珍しい状況だろう。まあ崖から落ちて敵であるはずの者に助けられ、彼女にはなんと妹までいた上でのこの状況なので、もうどこから突っ込んだものか判断に迷う。なにが悪かったのかと考えれば、多分、運が悪かったのだろう。

 そんなことを思いながら彼がひとつ息をついたそのとき、

 ――ぱん。

 陽雨の手が――桐悟に構うことなく――打ち合わされ、それが食事の始まりの合図となる。

 桐悟は落ち着かない様子で成り行きに身を任せるなか、陽雨と同じように手を合わせる月緒を見ていた。

 彼女は先ほど、呆然としていた桐悟に簡単な挨拶を交えながら〝陽雨の妹〟と名乗り、

『姉さんが乱暴をしたお詫びです』

 と言って彼を夕飯の席に引っ張ってきた。

 碌な受け答えができなかった桐悟がこの部屋へやってきたときにはもう、夕飯の準備はほとんどなされていた。桐悟と陽雨が言い合っていたとき月緒が料理をしていたらしい。

 そして桐悟は次々に準備される夕食を何も言えずにただ見ていた。献立はご飯と味噌汁と焼き魚だ。桐悟の分の膳も用意してくれたことを考えるに、桐悟を食事に招いたのは二人の総意と思われた。

「どうした? 遠慮はいらんぞ」

「いや、しかしだな……」

 陽雨は食事を始めない桐悟に向き直り、対する桐悟は食事よりも大切なことがあると主張する。が、そのとき、

 ――ぐぅ。

 己の腹の音に桐悟は赤面した。陽雨は『うわぁ』という目を投げて寄越す。

「し、仕方ないだろ、最後に食べたの朝方なんだから! じゃなくて――その、食事までいただいてしまうと……」

 言い募る桐悟は、赤くした顔を窓のほうに向ける。

「ああ、もう遅い」

 ――暮日崎に帰れなくなる。

 彼の意図を察した陽雨は、魚の小骨をとりながら素っ気なく言った。

「あんたとぐだぐだやってる間に、そういう時分じゃなくなったよ。今日帰るのは諦めろ」

 確かに、西の空はもうすぐにでも夜の色に変わるだろう。桐悟の表情に困惑が深まった。

「俺は、どうすれば?」

「野宿。……と言いたいところだけど、仕方ない。その部屋でいいなら好きに使え」

 そして陽雨は、味噌汁片手に箸の先にて桐悟の前方の戸を示す。

『姉さん、お行儀』

 そんな陽雨は月緒に諫められた。

「いいのか?」

「明日には帰れよ」

 安堵と困惑の混じった桐悟に、陽雨はおざなりに答え、月緒は微笑みにて歓迎の意を示す。

「かたじけない。感謝する」

 桐悟は頭を下げ、空腹の身には応えるいい匂いを漂わせる夕餉に手を合わせて箸を伸ばす。

「……美味いな」

 そして、素直な感想を呟いた。

 

 しばらくの後に三人の手のひらが合わされる。そして月緒が手早く三人の食器を回収すると、台所へ向かった。

 それを見送るふたり。ひととき食後特有の和んだ空気が辺りに漂うも、桐悟と陽雨、どちらからともなく送った視線が噛み合ったとき、その空気が色を変えた。

「それで、なんだったか」

「訊きたいことが山ほどある」

 わずかに引き締まった空気に、桐悟は姿勢を正す。陽雨は立てた片膝の上に肘を突き、頬杖をついた。

「その前に、あんたは対策隊の一員だよな?」

「ああ。……対策隊の副隊長をしている」

「副隊長? 選り抜きじゃないか」

 桐悟の素性を改めて訊ねた陽雨は、彼の返答に目を丸くした。

「それならこんなところまで来たのも納得だ。ご苦労さんなことだな」

「ああ、まあ」

 敵対組織の幹部と名乗った桐悟に、しかし陽雨は気にすることではないといったふうに会話を続ける。腹を括って告げたことだったがゆえに、彼は拍子抜けした心地で陽雨を見ていた。

「で、あんたたちはどれくらい知ってるんだ?」

 ――〝霊山の狐〟について。桐悟は目を伏せて首を振った。

「ほとんど何も。やたらと腕が立ち、変な格好で犯行に及ぶ歌舞伎者で、この山を根城にしているんじゃないかってことくらいか。国に恨みがある者だと言う者もいるが、だったら死人が出ていないのが気になる」

「変な格好の歌舞伎者ね。まあそうなるか」

 陽雨は何度か頷きながら金毛の尻尾を撫でる。どこか納得しかねている苦笑も浮かんでいた。

「陽雨。まず第一に、あんた、何者なんだ?」

 今さらながら自分たちは何も知らないことを改めて思い知り、桐悟は今日何度目かになる問いかけを陽雨に投げかけた。

「ただの化け物だ……って話はさっきしたか。それも間違いじゃないんだけどな」

 そして陽雨は相変わらず飄々として掴みどころがなくて――

「……あんた、〝天威〟って知ってるか?」

 しかし金色の眼光とともに、今度は明確な答えを残した。

「天威? 天威ってあれだろ? …………まさか」

 その言葉に心当たりがあった桐悟は軽く頷くも、しかし言葉を止めて信じられないといった面持ちで陽雨を見た。

「多分、その天威だよ」

 陽雨は強い笑みを浮かべ、そんな桐悟の反応を面白そうに眺めながら頷いてみせる。そして頬杖を解き、わずかに胸を反らしながら謳うように言った。

「私たちは天威のひとつ、〝妖狐〟の末裔だ」

「馬鹿な!!」

 桐悟はがたりと身を乗り出し、しかし腰を浮かせかけたところで己を抑えた。

「あれは、ただの御伽噺のはずだ」

 ――超常を司る架空の、異形の生物。物語の中に正義の味方や悪の権化として描かれることがあり、説明のつかない不思議な出来事は『天威の仕業』のひと言で片づけられることもある。言葉を知る者は数多くいれども、その姿を見たという者を――信憑性のないものを除いて――桐悟は知らない。きっと国中の人々も彼と同意見だろう。

「当人を目の前にして随分だな。これ、作り物じゃないぞ」

 そういって耳をぴこぴこさせ、ふっくらとした尻尾をふわりと振った。

「あと、これも手品じゃない」

 言って、手を持ち上げた瞬間、彼女の手のひらから光が迸る。光はみるみるうちに形を結び、波のように青く揺らぐ刀がその右手に顕れた。

「何だそれは? ……どうなっている!?」

 その刀は桐悟にも見覚えがあった。仲間たちを叩きのめし、先ほど目の前に突きつけられたものである。

「どう、と問われても。〝霊山の狐〟の〝力〟としか説明できん」

「〝力〟? まさか――いや、しかし……」

 取り乱すも、ここに来てからの数々の超常現象を思い返し、桐悟は深く思案するように手のひらで口元を覆う。彼のそんな反応は予想通りだったらしい陽雨は、優しげにも意地悪にも見える笑みを浮かべている。

 そして右手の刀が光を散らし解けるように大気に消えたそのとき、盆に三人分の湯呑を載せた月緒が台所より戻ってきて、そのひとつを桐悟に差し出した。

「きみの、月緒さんのも……そういうものなのか?」

 礼を言ってそれを受け取った桐悟は、あのときのことを思い出していた。彼女が初めて声をかけてくれたときのことを。

 陽雨にお茶を渡し終え、もと座っていたところに帰った月緒は少し困った顔で微笑んだ。しかし何事かを思い悩む仕草ののちに、桐悟に手のひらを差し向ける。

「? これは――」

 ――重ねればいいのか?

 桐悟は、月緒の仕草の意図するところをそう受け取った。その右手に恐る恐る左手を重ねる。そしてその手が、きゅ、と握られたとき、再びが頭に響いた。

『わたしの〝力〟のひとつです。……ごめんなさい、驚かせましたよね?』

「きみの、〝力〟?」

 不思議な届き方をした声に、二度目がゆえか桐悟はあまり驚かずに済む。そこに問いかけが口をついた。

「きみは――」

 ――普通に話せないのか?

 言いかけて、桐悟は言葉を切った。

「――きみも、義賊なのか?」

『はい、姉さんの補助程度ですが。運動はあまり得意じゃないので』

「そう……なのか」

〝霊山の狐〟は単独犯。暮日崎ではそのように知られていたため、桐悟はもうひとりの〝霊山の狐〟を驚き目で見ていた。

『それから、月緒と呼んでください』

 そして再び声が響き、銀の瞳が微笑みに細められる。咄嗟のことに息を呑んだ桐悟は頷き返すことがやっとだった。頬に熱が籠もる感覚を覚えながら、重ねられた手に視線を落とす。

「その……手、繋いでないとだめなのか?」

『だめということはありませんが――』

 ふ、と月緒の手が離れた。

『――ちょっと、遠くなるんです』

 桐悟は得心した。確かに、触れていたときより感じる。しかし聞き取れないほどではない。そういえば、食事中に陽雨を諫めたときもこんな感じだった。

 ――〝霊山の狐〟……か。

 桐悟は合わせていた左手に目を落とし、そして当たり前のように超常を操る少女たちに視線を巡らす。

「天威が相手だったとは……道理で城中が躍起になってもどうにもできないわけだ」

 桐悟はもう彼女の言葉を――彼女が天威だと――信じることにしたようである。目の前の超常現象に抗うのに疲れた、という思いも多分にあったが。

「それで、伝説の天威さまがなんで義賊なんてやっているんだ?」

 その存在の不可解さは、彼の理解の範疇には収まらない。そんな彼女たち生ける伝説が何をやろうとしているのか、理解したいと思う気持ちが問いかけを促した。

 ――一体どのような事態が?

 今の暮日崎に何が起ころうとしているのか。不安と好奇心を半々にした様子の桐悟に、問われた陽雨は啜っていたお茶を置いて向かい合う。

 そして口もとに手をやり、黙考。

 息を呑む桐悟に、しかし陽雨は軽い口調で沈黙を破った。

「んーと……そうだ。野菜売りに行ったときに農家の人が――」

「ちょっと待て、野菜?」

 そして桐悟にとって、思いがけない単語が飛び出した。

「ああ、裏の畑で作ったのを米とかと交換して――」

「天威が野菜!? それを米と交換て、伝説の存在が何やってるんだ!?」

 どんな答えを期待していたのか、予想外のことに桐悟は声を荒らげる。

「ここじゃ米作れないんだからしょうがないだろ」

「いやそうじゃなくて、畑で野菜作ってんのか? 天威が?」

「天威だって衣食住と手に職くらい必要なんだよ。主食が霞って天威ひともいるらしいけど」

 ――伝説の存在が〝手に職〟と来たものだ。

 野菜作りはともかく、義賊は職業ではないぞと桐悟は思う。彼女はその辺どう思っているのだろうか。割とどうでもいいが。

「……天威も案外俗っぽいんだな」

「本人目の前にして俗っぽいとは随分だな。文句あんなら表に――」

『……姉さん?』

 傍から見ていた月緒は、脱線をし始めた会話に呆れた声を出した。それに陽雨ははっとして、取り繕うように咳払いをひとつ。

「話を戻すぞ。……なんだっけ?」

「農家の人がどうとかって」

「そう、農家の人がここ最近の税収とか物価の上がり方が異常だとか言ってて」

 城に勤めている桐悟も感じていることだった。ちょっと前までは住みやすい町だったのに。

「で、暇潰しついでに嫌がらせでもしてやろうと――」

「暇潰しついでに嫌がらせ!? 何だその理由!?」

「うるさい。話の腰を折るな」

「……済まない」

 突っ込まざるを得ない話を聞かせておいて、と思うも黙っておいた。

「はじめはほどほどにしておこうかなーって思ってたんだけど、なんか騒がれちゃって」

 特に姿を見せた五度目からは凄まじい騒がれ方をした。

「やめるにやめられなくなって、今に至るわけだ」

 桐悟は開いた口が塞がらないといった様子で問いかける。

「じゃあ、伝説の天威が出張ることに大した意味は――」

「無い」

「……そうか」

 ――つまりは道楽、悪戯の類い。

 深い溜め息が知らずに漏れる。こんなのに城中が引っ掻き回され、自分は崖から落ちる羽目になったのかと思うと言葉にならない思いがこみ上げてくる。後半は八つ当たりであったが。

「あの、頼みがあるんだが」

「断る」

「せめて聞いてから断ってくれ」

「どうせ出頭しろとかそんなところだろ? んなことしたら確実に打ち首だろうが」

「確かにその通りだが」

 二重の意味で。桐悟の頼みは図星で、陽雨は捕まれば打ち首決定だろう。

「ちなみに昨日盗んだものはとっくにばら撒いたから。悪しからず」

「なにが悪しからずだ。ならせめて足を洗ってくれないか? たいした理由はないんだろ?」

 精一杯の説得だった。城の兵士である桐悟は彼女を捕らえねばならない。――捕らえられるかどうかは別にして。彼の中にはこの冗談混じりに会話できるようになった少女に対して『そんなことはしたくない』という思いがあった。

「国の政治が正されたらな」

 しかしそんな思いを知ってか知らずか、桐悟から目を逸らした陽雨はつれない返事をする。

「ま、暮日崎を潰そう、とか大それたことは考えてないから安心してくれ」

「あーなるほど。そいつは安心だ」

「あ? できないと思ってんのか?」

「いや、ひとりで一国を滅ぼすとか、さすがに無理があるだろ」

 数々の信じられないことを信じてしまった桐悟であったが、さすがにそこまでは信じられなかった。盗みを働くのと城に攻め入るのは同列には語れない。

 その言葉に眉根を寄せた陽雨は、特大の爆弾を桐悟に投げ放った。

黒羽楼こくはろうを潰したの、うちの母親だぞ」

「…………嘘だろ?」

 その言葉は、いくら驚き疲れていようと驚かざるを得なかった。

 ――〝黒羽楼〟は、暮日崎から見て銀麗山の向こう側にあった大国である。領土、軍事力、住民の数、どれをとっても暮日崎の何倍もあり、暮日崎が黒羽楼に呑み込まれなかったのは、ひとえに天険銀麗山のおかげとも言われていた。

 その大国は突然、五年ほど前に滅亡した。未だに何が起きたかはほとんどが不明である。散り散りになった住民は暮日崎にもやってきたが、何も分からぬまま城が潰れたと声を揃えるばかり。豪雨と地震と竜巻と大火事が一度に起こったとか、そう話す人もいた。

 そして、それをやったのは己の母親だと、陽雨はそう言った。

 桐悟は陽雨がその言葉を撤回するのを――『本気にするな、冗談だよ』と言ってくれるのを待っていたが、いつまで経っても望む言葉は発せられない。口から重い息が漏れたそのとき、はっとしたように顔を上げた桐悟は、あたりに視線を巡らせて問いかけた。

「その、お母上はおられるのか?」

 大国を滅ぼした彼女たちの母親――おそらく天威なのだろう。それと面と向かい合うには心の準備が整っていない。

「今は、いない」

 しかし、桐悟の不安は短い言葉で杞憂となる。桐悟は安堵の息をつきかけるが、彼女らが国に対して某かの大きなことができる事実は変わらない。自ずと眉間に皺が寄った。

 そこに、とん、と陽雨の湯呑が音を立てた。

「もういいだろ? 話し疲れた。あんたも聞き疲れただろうし今日は終わりだ」

 そして座布団ごと後ろに下がった陽雨は壁に背を預け、姿勢を崩して桐悟を見た。桐悟は躊躇うように、名残惜しむように頷く。彼にとっても彼女の言うことはその通りだった。

「あの、できればまた明日にでも」

「分かったよ、帰るまでは付き合ってやる。今日はおとなしく休んどけ」

「感謝する」

 そして桐悟もお茶を飲み干し、月緒が差し出したお盆に載せる。そのとき桐悟は何か手伝えることはないかと月緒に訊ねたが、

『今日はゆっくり休んでください』

 と気遣われ、後ろ髪を引かれながらもあてがわれた部屋へ向かおうと腰を上げる。

「ああ、風呂はどうする? 裏に温泉があるんだが」

「……いや、遠慮しておく」

 陽雨の言葉に、桐悟は脱力しかけた足を踏ん張った。

 畑で野菜作って、嫌がらせに義賊やって、その住処には温泉を抱える伝説の生き物。はたして〝伝説〟とは一体、なにを指す言葉だったろうか。

 もしかしたら天威なんて巧妙に化けているだけで、当たり前のように人の生活圏に住んでいるのかもしれない。そんな考えが脳裏を過ぎり、どう形容していいか分からない気持ちになりながら桐悟は部屋の戸に手を伸ばし――

 ふと、戸に手をかけたところで動きがぴたりと止まった。

「……どうした?」

 それに気づいた陽雨は訝しげに彼を見て、台所から戻った月緒も首を傾げる。

「陽雨」

 神妙な声とともに振り返った桐悟は、また、神妙な顔で陽雨を見た。

 妙な迫力を纏う桐悟に陽雨はわずかに身を引いた。部屋にひととき静寂が訪れ、ふたりは桐悟の言葉を待つ。

「……歳、いくつ?」

 そして放たれた言葉は、眉根を寄せて目を細める陽雨が、反芻するように視線を右上にやったのちにばっさりと斬って捨てる。

「阿呆。さっさと寝ろ」

 

       ◇◆◇

 

 ふたりはもしかしたら凄まじく年上なんじゃないだろうかと恐れた桐悟だったが、その後の話から陽雨の歳は桐悟とほとんど変わらないことが分かった。月緒はふたりよりも少し年下で、桐悟が抱いた第一印象とそう差異はないようだった。

 それを聞いて桐悟は安堵の息を漏らし、そして今、彼はしんと静まり返った暗い部屋で、行灯の灯火に揺れる影を布団の中でぼんやりと見ていた。

『妙なことはしないほうがいいぞ。やるなら相応の覚悟を決めろ』

 部屋に引っ込む前の陽雨の台詞である。つまり、死にたくなかったら大人しくしていろと、そういうことだ。

「言われなくても」

 もちろんそんな度胸はなく、また、そこまで恩知らずな振る舞いができるはずもない。

 しかし桐悟は眠ることもできずに〝霊山の狐〟のことを――陽雨と月緒のことを考えていた。

 

 ――今は、いない。

 母親のことを訊ねたときの陽雨の返答。

 あのときはそれに安堵を覚えたが、今覚えるのは違和感だ。

 ――母親の不在は今日だけの話なのだろうか?

「いや、きっと違う」

 己の疑問に己で回答を出した桐悟は、そのときの陽雨を振り返る。

 陽雨の声は平静だった。平静だったと加えてもいいかもしれない。

 その言葉に、仕草にひと欠片の冷たさが混じっているのを、今になってみれば確かに感じることができた。

 何かあるのは明白だ。しかし深く訊ねるわけにもいかないだろう。

 ゆえに、父親のことを訊くこともできそうにない。

 

 ――きみは、普通に話せないのか?

 月緒の〝力〟に触れたとき、桐悟が一度切った言葉はそう続くはずだった。

 続けられなかったのはその瞬間、陽雨と月緒、ふたりに形容の難しい困惑が過ぎったことにすんでで気づけたから。彼女らは桐悟の意図を汲み取ってしまったのだろう。

 それにもかかわらず月緒は、心情を表に出さずに己の問いかけに答えてくれた。

 

「〝霊山の狐〟か……」

 陽雨は化け物と名乗った。陽雨に打ち負かされた兵士の中にもそんなことを言う者がいた。

しかし、言葉を交わした桐悟はそうは思わない。思えなかった。

 人と同じように悩みを持ち、人と同じように気遣える。そして悪意をもって他人に迷惑をかけ、善意をもって他人を助ける。

 しかし明らかに人とは違う。彼女たちはどのように生きてきたのだろうと思いを馳せるも、それは容易に想像できるものではなかった。

 明日になって、きっとまた会話をして、日が暮れる前に国へ帰って――

 ――それから俺はどうすればいいんだ?

 もう何度目かわからない自問自答を延々と繰り返す。

 桐悟は寝返りを打って布団を深く被る。もういい加減寝てしまえと思うも、半日近く気を失っていたせいもあり、なかなか寝つけなかった。

「はぁ――」

 桐悟は溜め息をついて身を起こし、視線を巡らす。

 ――本でも借りようか。

 そして結構な数の本が並べられた本棚に目を留めた。好きに部屋を使っていいと言っていたのだから、それくらい大丈夫だろう。

 と、ふと視線を脇にやる。そこにあったのは陽雨が貸してくれた洗面具の類い。明日の朝に必要だろうということで予め貸してくれたものであった。

 ――そういえば、温泉があるんだったか。

 ふと脳裏を過ぎる。曰く、裏の畑の先にある林の入り口をまっすぐ行ったところとのこと。

〝林の入り口〟なるものがどのようなものかは分からなかったが、行けば分かるのだろうかと腰を上げた。

 ――行って分からなかったら戻ればいいか。

 桐悟は部屋にあった提灯に行灯から火を移し、囲炉裏の横を通り過ぎて外に出た。

 

 林の入り口は思いの外簡単に見つかった。小屋の裏手にある畑の傍に、ぽっかりと木々の開けた道があったのだ。

 こんなところで遭難するわけにはいかない。少しでも迷いそうだったらすぐに帰ろうと思っていた桐悟だったが、これなら大丈夫だろうと歩を進める。

 木々が辺りを覆い、頼りなく提灯が足もとを照らすのみだったが道は分かりやすかった。分かれもせず、緩く曲がる程度の道をしかし慎重に桐悟は進む。と、そこで桐悟は視線の先に光を見た。

「あれは? 鬼火……じゃないな」

 頼りなく揺れる妖しげな光を、木の陰に隠れた桐悟は窺い見る。まさか〝霊山の狐〟が如き異形が放つものだろうかと息を呑んだが、しかし、

「……提灯?」

 恐る恐る近寄った桐悟はその正体を知る。そこには木製の枠組みのような物に吊られた提灯が暗い林を明々と照らしていた。

 ――なぜこんなところにこんな物が。

 そしてさらに近づいた桐悟はその理由を知り、絶句する。

 木の枠組みと思っていた物は棚と戸だった。そしてなぜか屋外に設えられた戸の先からは、湯気と硫黄の匂いが漂っているのである。つまり、陽雨の言っていた温泉とはここのことだ。

「どういう凝り方だよ」

 林の中にもかかわらず驚くべき装いを見せるそれらに、桐悟は苦笑いを浮かべて呟いた。

 ――これ作ったの、絶対陽雨だ。

 少なくとも月緒が率先して作ったようには思えない。ふたりの天威の顔を思い浮かべ、桐悟は改めてそれらに提灯を差し向けた。

 戸は木々を渡してうまいこと先が見えないようになっており、足もとにはすのこまで敷かれている。棚は屋根つきで、提灯はその屋根の先にかけられていた。

 その棚にはいくつか籠が収められており、そしてそのひとつには白の着物と朱の袴――

「――――っ!!」

 瞬間、ざ、と桐悟の顔から血の気が引いた。

 ――まずい。

 桐悟の持つ提灯が照らすのは、明らかに陽雨の衣服だった。つまり中に陽雨がいる。考えてみれば明かりのついた提灯がぶら下がっているのはおかしなことだった。

 ――妙なことはしないほうがいいぞ。やるなら相応の覚悟を決めろ。

 陽雨の言葉が脳裏を過ぎる。桐悟の浮かべていた苦笑いはそのまま凍りつき、しかし固まっている場合ではないと混乱する頭をなんとか叩き起こす。

 ――まだ大丈夫だ。このまま去れば何事も起こらなかったで済む。

 そして精一杯の冷静さでもって己にそう言い聞かせ、よしと頷き、ひとつの深呼吸とともにまずは回れ右をして背を向けようと考えた――ところで。

 無情にも、きい、と戸が開く音が聞こえた。

「「あ…………」」

 遅かった。桐悟の思惑は脆くも崩れ去る。

「ひ、陽雨――」

 そこには黒髪を艶やかに濡らし、手拭いを胸元に抱いた陽雨が戸より半身を覗かせていた。

 手拭いは胸元から垂れ下がり、申し訳程度に彼女の身を隠すも身体の線を如実にあらわす。桐悟はその女性らしい豊かな肢体に目を釘付けにされた。

「…………」

 陽雨も呆然と桐悟を見ていた。戸に手をかけたまま黒の瞳をぱちくりとさせる。

 しばらく沈黙がふたりの間に流れるも、陽雨が戸をゆっくりと閉じたことでそれも終わる。桐悟は突然我に返り、勢いよく後ずさって後ろを向いた。

「あの、陽雨……違うんだ、これは――」

 しどろもどろに言い訳する桐悟だったが、そのとき彼は視界の端に金の光が輝くのを捉え、絶望に一瞬目が眩んだ。次いで陽雨の囁きが聞こえる。

「〝細雪ささめゆき〟」

「あの、ひさ――」

「動くな」

 そして桐悟の耳もとをひゅん、と何かが通り過ぎ、それは彼の目の前の木に突き刺さった。

 微動だにしない――できない――桐悟が眼球だけを動かして見たその先には、白い光を散らす笹の葉のような形の刃が突き刺さっていた。

「――っ」

 息を呑む桐悟に、陽雨は淡々とした声で言う。

「振り返らず、そのまま真っ直ぐ、全力で走れ」

「あの」

 そしてさらに三本、桐悟の足もとに薄い刃の投剣が突き刺さり、

「即!!」

「は、はいぃぃぃ!」

 陽雨の怒声とともに、桐悟は一目散に駆けだした。

 

「はぁ――」

 林の入り口まで帰り着いた桐悟は両手を膝に突いて息を整える。

 彼女の言った『妙なこと』にこれが当てはまらないだろうか、と背を凍らせるも、もしそうなら投剣は後頭部に刺さっていたはずだと安堵と疲労の入り交じった息を吐く。

「着痩せするのか、あいつ」

 そして先の騒動を――陽雨の肢体を思い返し、しみじみと呟いた。

 

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