第一章 ―― 義賊と兵士 其の一

 

 差し込む夕日をその身に受けて、漂う埃がきらきらと輝く。そこは木造家屋の一室だった。

 部屋には火鉢があって炭火が熾り、部屋の隅では行灯の火が揺らめく。そして壁際に大きな書棚と少しの調度品があるくらい。書棚の脇には引き戸がある。広くはあるが簡素な部屋だった。そしてその部屋にいま、ふたつの人影がある。

 ひとつは少女。男物の白い着物と朱色の袴姿の彼女は、敷かれた座布団に腰を下ろし、壁に背を預けて本に目を落としている。

 そしてもうひとつは青年のもの。彼は布団に横たわり、静かな寝息を立てていた。

 同じくらいの年齢に見えるふたりだった。青年のほうが僅かに年上かもしれない。

 黙って本を読む少女は、時折ちらりと青年に目を向ける。彼に変化はなく、布団に覆われた胸もとを規則的に上下させるばかり。彼女は、そしてまた本に目を戻すということをもう短くない時間続けていた。

 静かだった。少女の本をめくる、ぺらり、という音がやけに大きく響く。しかしそこに――

「――ぅ、ん……」

 と、小さな呻きが混じり、少女は本から目を上げて青年を見やった。そこにあったのは開かれたばかりの、ぼんやりとした青年の瞳。それは数度の瞬きを経て少女と視線を噛み合わせた。

「おはよう」

 本を傍らに置いて、少女が言う。

「……あんた、誰だ?」

 未だ虚ろな瞳のまま、青年は訊ねた。

「あんたをここまで運んできた者だよ」

「俺を、運んで?」

「ああ」

 少女が答えた瞬間、青年は彷徨わせた目を見開き、がばりと身を起こした。

「俺は一体――っ」

「あー馬鹿、おとなしくしてろって。あんた、崖から落ちたんだろ?」

 頭を押さえて顔を顰める青年に、少女は座布団をずらしながら近寄った。

「崖から? そうだ、俺は――」

 意識を失う寸前のことが思い起こされる。対策隊の副隊長として雪山に登り、それから――

「生きてる、のか?」

 己の両腕を抱きしめ、青年は身震いしてその瞬間を思い出す。

「ここはわたしの家で、崖下で倒れてたあんたを運んできた。打撲や擦り傷は多々あったが、骨折はしてないと思う。どうだ?」

「……たぶん大丈夫、かな」

 押さえた頭には大きなこぶの感触。全身のそこかしこにも痛みはあるが、どれも気にするようなものではなかった。

「あとは中身だが……これ、何本に見える?」

「……二本?」

 少女が立てた指の数を青年はそのままに答える。少女はひとつ頷くと「じゃあ」と呟き、

「自己紹介、いってみようか」

 軽い調子で提案した。

「は?」

「だから自己紹介だよ。まさか名前、思い出せないか?」

「い、いや、そんなことは――」

 戸惑いながらも否定する。青年は未だに混乱した様子だったが、ひとつ咳払いをしてそれを抑える素振りを見せた。

「えー、名前は石蕗桐悟。出身は暮日崎のいちまちで、城で働いてる」

「へぇ、一の町の出で城働きか。若いのに凄いな」

 ――暮日崎の一の町は、所謂貴族街であった。そして城で働いているのならばかなり裕福な部類の人間であることは間違いない。

「家族は父と妹。趣味は……なんだろ? 剣術は好きだけど」

 言葉を探す彼に、少女はくすりと笑う。

「気を失う前のこと、覚えてるか?」

 そして話の先を促すと、桐悟と名乗った青年は少し考え、顎先に指をやった。

「任務で山に入って、それから――」

 崖から落ちた。桐悟の記憶は崖下の林に突っ込んだあたりで途切れている。怪我が奇跡的に軽かったのは木々が勢いを殺してくれたからだろうか。

「中身も問題なさそうだな。災難だったがともあれ、生きててよかったな」

 話を聞き終えた少女はまたひとつ頷き、そして表情を柔らかくして黒髪を掻き上げる。

 その瞬間。桐悟の鼓動がひとつ、大きく跳ねた。

「……あなたのおかげだ。礼が遅れたが、感謝する。ありがとう」

「なに、気にするな」

 深く頭を下げる桐悟だったが、内心はそれどころではなくなっていた。やっと混乱が覚めてきたところだったが、その心は大きくかき乱されていた。

 彼は改めて少女を見る。どこか見覚えのある少女とも思うが、こんな浮世離れした雰囲気を醸す少女が知り合いにいたとも思えない。

 変わった印象の少女だ、と桐悟は思う。飄々としていながらも凜としていて、気だるそうにあぐらをかいているにもかかわらずだらしなく見えない。どこか神秘的で底の見えない様子は、彼の好奇心を煽り立てた。彼は何か話を――と言葉を探すも、しかしそれは、突き放すような少女の言葉に遮られた。

「怪我がないならあんた、早いところ帰ったほうがいいぞ」

「へ?」

「日が落ちたら帰れなくなる」

 そう言いながら窓の外に目を遣る少女。きらきらと輝く陽光が彼女の目を美しく彩る。そのさまに見惚れた桐悟は一瞬頭が空白になるも、慌てて彼女の目の先を追った。

 眩しく輝く太陽は、刻一刻とその身を地平に進めていく。確かに日没までそう時間はないようだった。

 しかしそこで、彼は跳ね上げ窓の隙間から見える景色に違和感を覚える。

「ここは、暮日崎の町じゃないのか?」

「銀麗山の半ばだよ、あんたが倒れていたところの近くだ」

「銀麗山? やはり……」

 桐悟の目に映ったのは、雪をかぶった林や、やたらと近く見える山肌。彼の住む町の景色とは明らかに違っていた。ここが山の中であるならば、日が落ちてから帰ることは難しくなる。

「具足は玄関だ。立てるか?」

「あ、ああ」

 立ち上がる少女に、桐悟もそれに続こうと慌てて腰を浮かした。しかし立ち上がったそのとき――

「あなたは、なんでこんな山に住んでいるんだ?」

 先ほど探していた言葉が、口をついて放たれた。

「…………」

 少女は足を止め、何も言わずに肩越しに桐悟を見る。

「あ、いや……ただ、どうしてこんな山に住んでいるのかと、ちょっと疑問が過ぎったんだが……」

 少女の沈黙をどう捉えたのか、桐悟は慌てて言い繕った。

 しかし一度過ぎった疑問は、確かな違和感へと移ってゆく。妙な噂の尽きない、滅多に人の訪れない山。〝妙な噂〟を丸々信じているわけではないが、さすがに不自然に過ぎる。

「こんな山中に、ひとりで?」

「……まあね」

 少女は短く返し、また外へ向けて足を踏み出す。

「あ、ちょっと――」

 慌てて引き止める桐悟は、しかし思わず息を呑む。そこには真意の読めない黒い瞳がふたつ浮かんでいた。

 振り返った彼女は何も変わっていないはずなのに、その瞳は彼には深く、昏く見えた。

 桐悟は固唾を呑み下し、気を取り直すようにひとつ呼吸する。恩人に対してこの態度は失礼とも思うが、彼は蟠る疑問の答えを得るべくもう一度同じ問いを投げかけた。

「あなたは、なんでこんな山に住んでいるんだ?」

「事情があるんだ。気にしないでくれ」

 少女の言葉は相変わらずで、そしてそれは回答と呼べるものではなかった。より強く違和感を覚える桐悟の胸のうちには、好奇心と疑問と、そして得体の知れない不安が渦巻いていく。

「その事情、よければ話してはもらえないだろうか?」

 その不安が徐々に肥大していくことに気づきながら、桐悟は問いかけを重ねる。

 それに少女は答えない。目を逸らして、さらりと髪を掻き上げるのみだ。

 ――これ以上踏み込んではいけない。

 心のどこかから、そんな声が聞こえた気がした。しかし、

「……おまえ、何者だ?」

 桐悟は自制を振り切り、眼光鋭くそう訊ねた。

 火鉢の炭がばちんと弾け、部屋の隅で行灯の火が揺れた。

 

 少女は、瞳を桐悟に戻し、薄く笑みを浮かべた。

 その妖艶なさまに桐悟は思わず目を奪われる。しかし次の瞬間、その目は驚愕に見開かれた。

 少女が静かに目を閉じると、光が弾けた。同時にみるみるうちに髪が淡い金色に染まってゆき、さらにふさふさとした耳と尻尾が顕れる。そして開かれた少女の瞳はそれらと同じ金の光を湛えていて――

〝霊山の狐〟は、黒髪の少女の姿より桐悟の前に現れた。

「銀麗山の主〝霊山の狐〟」

 吊り上げた口もとから、八重歯が剥いた。

「名前は陽雨ひさめ。よろしく」

 

「な――!?」

 驚き、後ずさった桐悟は壁に強かに身体を打ちつけた。強い衝撃を背に受けるも、気にしている余裕はない。そのままずるずると壁を滑り、布団の上にへたりこんで呆然とした。

「そんな、馬鹿な……」

 誰にともなく呟きながら、必死に現状の理解に努める。混乱する頭で行きついた答えは、気絶している間に敵に捕らえられたらしい、ということ。それも常識では測りがたい相手に。

「おまえ、一体なんなんだ!?」

 混乱覚めやらぬ桐悟は強く布団を握り締め、金の狐の少女――陽雨へと言葉をぶつける。戸を背に立つ陽雨は動きを見せず、何かを仕掛けてくる様子はなかった。むしろ気だるそうな雰囲気を醸し、桐語を見遣るばかりだ。

「さっき言ったろ? 名前は陽雨。〝霊山の狐〟なんて呼ばれてる、ただのしがない泥棒だよ」

「そういうことでは――」

 荒らげた言葉を、しかし桐悟は途中で切って頭を振る。そして何度か大きく呼吸をして陽雨の金の瞳を見据えた。

「……最近の義賊ってやつは、みんなそんな手品が使えるのか?」

「ああ、これか」

 陽雨は、桐悟が手品と言い表した金色の耳に指を這わせる。ぴこぴこと揺れるその耳は、作り物にはまるで見えない。

「あんまり気にしないでくれ。ちょっと人とは生まれが違うんだ」

「生まれが、違う?」

 何がどう違えばそうなるのか、桐悟には全く見当がつかなかった。怪訝な視線を彼女に注ぐ。

 その瞳に、そして陽雨はにやりと凶悪にも見える笑みを向け、

「ひと言でいえば、化け物だよ」

 そう、言い切った。

 ごくりと喉が鳴った。冷や汗が頬を伝うも、しかし桐悟は同様に顔に――誰の目から見ても強がりと分かる――笑みを張りつける。そして軽口混じりに彼女の抱く真意を訊ねた。

「で、その化け物さまは、俺をどうするつもりなんだ? 言っておくが、食っても美味くはないと思うぞ」

 ――直ちに命が奪われる状況ではない。

 桐悟はそう確信した。そもそも自分は彼女に助けられたのだ。彼女がその気ならば、自分はとうにこの世にいない。つまり、何か要求があるはずなのだ。

「とって食うつもりはさらさらないが――」

 対する陽雨は彼の心中を知ってか知らずか、どこか面倒くさそうな様子で首を傾げ、無造作に髪を掻き上げ言葉を継ぐ。

「むしろ、あんたはどうしたい?」

「は?」

 しかし飛び出た言葉は、桐悟の予想だにしないものであった。『どう』の意味が分からない桐悟は間の抜けた声を思わず発し、呆気にとられて眉根を寄せる。

「それは一体どういう――あ、おい!?」

 その意味を訊き返そうとした矢先。しかし陽雨は桐悟の言葉を聞くことなく、背後の戸から部屋を後にしてしまった。

 呆然とする桐悟。どうしていいのか分からずに固まったまま動けなかったが、それも束の間。陽雨はすぐに部屋へ取って返し、新たに手にした黒い棒状のものを彼に投げて寄越した。

「へ? うわ!?」

 取り落としかけながらも受け取ったそれは、気絶する前まで彼が腰に差していた一振りの刀だった。桐悟は目を丸くして手もとの刀に目を落とした。――その瞬間。

 彼はぞくりと、真冬の泉に落とされたような感覚に捉われた。

 そう感じると同時、桐悟は咄嗟に身体に染みついた一連の動作を行う。右膝を立てて左腰に刀を沿わせ、鯉口を切り、柄に手をかける――居合い抜きの構えだ。

 そして鞘を奔る白刃は、しかし、僅かばかりでその動きを止めてしまう。あと一瞬あれば抜き放たれていたのだろうが、その一瞬が足りなかった。

 それを押し止めたのは彼の眉間に突きつけられた青い刃。

 遣い手はもちろん、〝霊山の狐〟――陽雨。

「わたしの首が欲しいと言うなら、それを抜いて表へ出ろ」

 そして彼女は凍るような視線で彼を射貫き、言った。

 桐悟はその刃越しに、陽雨の顔を見遣る。青い揺らぎの浮かぶ刀身は夕暮れの光に相まって、見るも美しい色彩を放っていた。

 

「どうした、抜かないのか?」

 動けない桐悟に動かない陽雨。ふたりはたっぷりの時間硬直していた。

 突きつけられていた青の刀は、今は彼女の肩に置かれている。だがこれは隙でも油断でもない。無用心に突っ立っているだけにも思えるが、放つ殺気は依然変わらなかった。刀の間合いで平然としていられるこの状況そのものが自信の表れだ。

「訊ねても……いいだろうか?」

 破られた沈黙に、深く呼吸した桐悟は陽雨を見据える。そして僅かに覗かせた刀の刃を慎重に鞘に戻し、また、その右手を慎重に垂らした。

 それに陽雨の答えはなかったが、陽雨の目に拒絶の意図はないと解釈し、

「おまえは、どうして俺を助けた?」

 そして桐悟は、いちばんの謎の答えを求めた。

「おまえは知ってたはずだ。自己紹介なんてさせるまでもなく、俺が敵だってことを」

 彼が今手にしている刀に、玄関にあると言っていた具足。桐悟が暮日崎の兵士で、〝霊山の狐〟を討たんと山に入ったことなど事情を知る者なら一目瞭然だ。

「…………」

 陽雨はまたも無言。しかし桐悟は続けて問う。

「おまえは、俺を殺すのか?」

「必要なら」

「……必要、か」

 陽雨は押し黙った口から短い言葉を吐く。その答えは桐悟にとって――物騒極まりないものであったが――どこかで予想し、そして期待していたものであった。

 ――敵に武器を持たせて一体何を企んでいるのか。そもそも敵を助けた理由は何か。

 桐悟ははじめ何か要求があるものと踏んでいたが、どうやら違うらしい。また、〝必要でないなら〟命を奪うことはせず、捕虜にしようといったこともないようだ。

 そして、彼女に挑もうと思う勇気は、彼は持ち合わせていない。三十人を叩きのめす大立ち回りを演じた達人に、ひとりで挑んだところで勝算などないことは分かりきっていた。

〝武士の誇りに殉じる〟という考えも頭を過ぎったが、彼にはそれを選べなかった。

 ならばどうするべきか――と行きつくところは、ひとつだ。

「なんのつもりだ?」

 陽雨は眉を顰める。その視線は、桐悟の差し出した刀に注がれていた。

 刀は床に鞘の先を打ち、とん、と音を鳴らす。

「投降する。命だけは助けてくれ」

 それを握る桐悟は真っ直ぐな眼差しをもって金の狐の少女に願った。陽雨は首を傾げ、目を鋭く細めて桐悟に向ける。

「投降? あんた、わたしを狙ってここまで来たんだろ?」

「確かにその通りだが、今は状況が違う。おまえに勝てるとは思えないし、俺はまだ死にたくない」

「城の兵士が言う台詞じゃないな」

 陽雨の鋭い視線に呆れの色が混じる。

「理由はそれだけじゃない。分からないことだらけだが、分かったことがある」

 桐悟は陽雨を真っ直ぐに見返し、立てた刀を握る手に力を込めた。

「おまえのやってることはちぐはぐだ。なんの目的もなく敵を助けて、正体を隠して接し、正体を明かしたら戦えと促す。だけど一方的に危害を加えることはしない」

 そして桐悟は己の解釈を述べる。一見まとまりのない彼女の行動は、しかしある仮説をもとにすれば納得ができた。

「おまえ、なにも考えずに俺を助けただろ?」

 ――敵だと知りながらも、単純に人を助けた。そのあとの面倒を顧みず。

 陽雨に答えはない。沈黙を肯定と受け取った桐悟は言葉を続けた。

「この状況を片づけるのに一番手っ取り早いのは、おまえが俺を斬ることだ。だがおまえはそうしない。俺が刀を抜かない限りは」

〝必要〟ならば殺す。陽雨はそう言った。何をもって〝必要〟となるかは、自身に危機が及ぶ――つまり桐悟が刀を抜くことだ。

「俺はそれには乗れない。そんなやつとは戦えない。戦いたくない」

 そして桐悟は戦う意思を完全に放棄し「間違っているなら言ってくれ」と続ける。

 陽雨は押し黙り、ふたりの視線が交錯する。真意の読めない瞳と、決意を秘めた瞳がお互いを見定め、そしてしばらくののちに陽雨は盛大に溜め息をついた。

 彼女に言葉はなく、面白くないものを見るような表情を桐悟に向けている。

「殺す気も捕虜にする気もないなら頼みがある」

 桐悟は最後の確信を持った。この金の狐の少女は――

「もっと話を聞かせてくれないか?」

 ――本当に善意で自分を助けてくれたのだと。

 

 刀を与えられたとき、桐悟は『〝霊山の狐〟を相打ち覚悟で仕留める』ということを考えなかったわけではない。

 すぐに却下、いや、保留にしたが、その理由は命が惜しかったからだけではなく、彼女を討つことに躊躇いがあったからだ。

 悪くなっていく国に対し、何もできずにいる自分を情けなく思った。そして、悪行だとしても町民のために行動した〝霊山の狐〟を眩しく思っていた。

 対策隊隊長である大楠に見破られたとおりだ。〝霊山の狐〟に対して羨望とか憧憬とか、そんな気持ちがあったことをわかっていたし、そんな考えを持った自分が対策隊にいることに疑問を覚えていた。

 だから、わかった上で気づかない振りをしていた。

 気持ちを全部後回しにして、目の前の職務に没頭した。

 いつかなんとかなる。誰かがうまいこと捕まえるか、捕まえられずに他国へ逃げられればそれでおしまい。噂もあっという間に風化して何事もなかったように時は流れる。

 そんなふうに思っていた。

 しかし、会ってしまった。話してしまった。あまつさえ助けられてしまった。

 ――もう、気づかない振りはできなかった。

 

「やだよ、面倒くさい」

 決意を込めた桐悟の願いは、気だるげな言葉で両断された。

 心に追い風を感じていた桐悟は、その風に谷底へ突き落とされた心持ちで凍りついた。

「確かに、あんたの言うことは大体のところ正解だ。危害を加えないなら斬ろうとも思わないし、拘束して何かさせようとも思ってない」

 陽雨の肩にある刀が、煩わしさを表すように肩の上を跳ねる。

「だがそんな面倒を背負う義理はない。このまま帰すのもどうしようかと思ってたけど、居座られるならより面倒だ。見逃してやるからとっとと帰れ」

「待ってくれ。俺をこのまま帰してしまってもいいのか? 俺はこのまま帰ったら、上にこの隠れ家のことを報告するぞ」

「言っちゃうあたり変に律儀だな。そのへんは後でなんとかしておくから、安心して帰れ」

「なんとか?」

 陽雨の言葉に疑問を覚えるも、その答えは返ってきそうもなかった。彼女は手をひらひらとさせて、桐悟に早く帰れと促す。

「……お願いだ」

 それに桐悟は必死に食い下がる。しかし、己の分が悪いことは理解していた。これは彼の一方的なお願い――我が儘であって、乗り気ではない陽雨には得がない。

「わたしと話をしたところで、あんたとわたしは敵同士だ。やることは変わらないぞ」

「それでも、おまえとは以前から話をしたいと思っていたんだ。何が目的で義賊なんてやっているのか。……もし目的があるなら悪事に手を染めない方向で手伝えるかもしれないし――」

 そしてこれが精一杯の利益の提示だ。

「それに、おまえが何者なのかも、俺は知りたい」

 視線を上げた桐悟の瞳に映る、金色の耳がぴくりと動いた。

「いらん世話だし、興味も持つな」

 しかしそれでも、陽雨ばっさりと斬って捨てる。

「あんたは城に帰って、これまで通りわたしを捕まえる算段を立ててればいいんだよ」

「……どうか、頼む」

 桐悟は刀を前に置き、深く頭を下げる。もはやそうすることしかできなかった。

「面倒なのは嫌いなんだよ」

 うんざりしたように顔を顰める陽雨は、ちらり、と窓の外に目をやる。そして夕焼けの空をその目に映し、ひとつ舌打ちをした。

「ああもう、早く帰る準備をしろ。本当に日が沈むぞ」

「否!」

「いいから言うことを聞け!」

 がばりと頭を上げる桐悟に、ひゅんと肩の刀を振るう陽雨。

 苛立ちを露わにする陽雨だったが、それに対し、顔を上げた桐悟の目は何か腹を決めたように強く妖しい光が宿っていて、

「首を刎ねるか? 部屋の掃除が大変だぞ」

 そして彼は、ある種の――最後の――強硬手段を取る。

「もし叩き出されようと、俺はこの家の前から動かん。そんなことになれば凍死は確実だ」

「そんなこと、わたしの知ったことじゃ――」

「いいのか? せっかく助けた人間が目の前で死ぬのは見たくあるまい」

「堂々と言うことか阿呆!」

 桐悟は、自分を人質に取った。

「冗談はいいからとっとと帰れ」

「冗談? そう見えるか?」

「……この野郎」

 陽雨は閉口する。彼女が叩き出せない何かがそこにはあった。

 ――よし。

 効果あり。桐悟は内心で拳を握った。陽雨が奥歯を噛み締めながら忌々しげな視線を送るのを見るに、つけ入る余地が生まれたように思えた。

「……どうしたら帰ってくれる」

「話を聞かせてくれたなら」

 しばらく唸っていた陽雨が桐悟に問いかけるも、彼の返答は変わらない。

「もう充分話しただろうが」

「いや、俺は――」

 辟易する陽雨に、しかし桐悟は真っ直ぐにその目を見据えて言う。

「まだ何も知らない」

 陽雨は眉間を揉みほぐし、次いで深く深く溜め息をついて力なく呟く。

「あんたはわたしの敵だろうが」

「今さらだな。俺を助けたのはおまえだぞ?」

「それは……」

 口ごもった陽雨は唸り声を漏らし、言葉を探す。

「わたしは人間じゃないぞ。怖くはないのか?」

 そして探し当てた言葉とともに金の狐の耳を撫で、尻尾をばさりと振った。

 対する桐悟は思い出したかのように「ああ」と呟き、

「いや、驚きが強かったせいかな。怖くはないよ。不思議なくらい」

 そう言って陽雨を呆れさせ、その呆れ顔にさらに言葉を続けた。

「それに今あるのは単純に興味だ。俺はおまえのことを――〝霊山の狐〟のことをもっとよく知りたい」

「あんた、変なやつだな」

「お互い様だ」

「……そうかもな」

 そしてついに、陽雨が折れた。

『面倒なのは嫌い』と、彼女はそう言っていた。桐悟の要求を呑むほうが面倒が少ないと判断したのだろうか。陽雨は疲れたような、苦笑に似た微笑みを桐悟に向けていた。

 それに桐悟は微笑み返して言葉を続ける。

「感謝する。……あんた、いいやつだな」

「は?」

 陽雨は面食らったように呆然とし、一拍置いて慌てて言い返す。

「待て。あんた下手したら、わたしに殺されてたかもしれないんだぞ」

「まぁ、確かにそうなんだろうけど」

 その言葉が嘘でないことを、彼女の殺気を直に浴びた桐悟は知っている。しかし、

「俺を生かしてくれたのは、そういうことだろう?」

 面倒は嫌いと言うならば、助けずにそのまま転がしていたほうがどれだけ楽だっただろう。

「んなもん、ただの気まぐれで――」

「気まぐれか。だがおまえの言うそれは、きっと〝善意〟とか〝善行〟と呼ぶ」

「そんなはずない。今だって、あんたがそれを抜いたらわたしは躊躇わないぞ」

 陽雨は彼我のちょうど真ん中にある彼の刀を半眼で見て、右手の刀をわずかに揺らした。しかしそれは、今の桐悟には恐怖にならない。

「〝抜いたら〟だろ。正直、俺は斬られても文句は言えない立場だ。なのにこうして生きている。なぜ返り討ちにこだわる?」

「それは……」

 陽雨はばつが悪そうに視線を逸らす。彼女から返答はなかったが、否定の言葉もなかった。

「俺を殺さないでくれたのも、そういうことだ」

「あんた、いい度胸だな」

 じとり、とした目で言う。頬が赤く見えるのは夕日のせいだけではあるまい。そんな彼女に桐悟は笑いかけた。

「貶しているわけじゃない。無理に悪ぶって見せても滑稽なだけだぞ?」

「っ、この――」

 そのとき、陽雨の刀を持つ手に力が籠リ、

 ――やばい、言い過ぎた。

 と思った次の瞬間には、桐悟は頭に衝撃を受けた。

「のあっ――」

 衝撃は頭のこぶと同じ位置に与えられ、桐悟は思わずのた打ち回る。

「調子に乗るな」

 言い捨てる陽雨を転がった桐悟が見上げると、そこには峰を返した青い刀があった。そして陽雨は呻く桐悟に構うことなく彼の刀を手に取り、それを一瞥すると何も言わずに踵を返す。

 それを転がったまま見ていた桐悟は、そのときの彼女に呆れとか諦め、辟易といった感情を見て取ったが、しかしその頬には笑みが浮かんでいたのを確かに見た。

 それに安堵を覚える桐悟だったが、しかし思わぬ事態に直面する。

「月緒、ちょっといいか?」

 戸より外に出た陽雨が誰かに声をかけ、彼女に近寄るような足音が聞こえたのである。

 桐悟は驚きに耳を疑った。姿はまだ見えないが、ここで暮らしているのは彼女だけではないのだと目を丸くする。

「話は聞いてたか?」

 そしてその人物と話を続ける陽雨は――なぜか〝その人物〟の声は聞こえなかったが――ひとことふたこと言葉を交わし、

「そっち代わるよ。あの馬鹿者のこと、あとは頼んだ」

 そんなことを言ったのちに、桐悟の視界より姿を消した。

「あ、ちょっ――」

 陽雨を呼び止めようと桐悟は声を上げるも、それと入れ替わるように、ひょこり、と小柄な人影が戸の陰から顔を覗かせ、彼の前にその姿を現した。

 それは淡い青色の着物を着た長い黒髪の少女。髪は腰の辺りまであり、先のほうで緩く束ねられている。着物は陽雨とは違い女性のものだ。陽雨の背丈は一般女性よりも高めではあったが、それよりも頭ひとつ分は低い。陽雨や桐悟よりも少し年下に見える女の子だ。

 少女は転がったままの桐悟を見ると、足早に近寄り彼を助け起こした。

「きみは?」

 桐悟は居住まいを正しながら問いかけた。未だに目の前の少女の存在に疑問を抱いていた桐悟だったが、握られた手には確かな感触がある。優しげな微笑みを浮かべた少女は、〝美人〟と形容するよりも〝可愛い〟という方が似合う可憐さがあった。

 そして、にこりと、花のような笑顔を見せて瞼を閉じたとき――銀色の光が部屋に翻った。

 その光景に、桐悟は覚えがあった。ついさっきのことだ。

 その既視感は現実になる。少女の黒髪は輝ける銀色にみるみるうちに染まり、狐の耳と尻尾が顕れる。すっかり風体を変えた少女が目を開くと、銀の光を湛える瞳がそこにあった。

『はじめまして、月緒といいます』

 自己紹介をした少女――月緒の口は動いていなかった。腹話術とも違う。声は、頭に直接響くような不思議な届き方をした。

 桐悟は、〝開いた口が塞がらない〟という言葉をそのまま体現することしかできなかった。

 

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