第31話 森崎さくら 7

 夏になった。

 あたしは変わらずカプリで歌い、なっちゃんの仕事も順調。


 なんて言うか…

 セックスをしてから…より深く、なっちゃんの愛を感じられるようになった気がして。

 あれだけ絶対無理って思ってたのに…今では…CDで声を聴くだけでも、夜が待ち遠しかったり…


 …ああ。

 あたし、ヤバいなあ。

 めちゃくちゃ『なっちゃん中毒』だよ…



 カプリのステージの後、いつもと違うお店に行ってみよう。と、少し離れた場所まで歩いてみた。

 この前、歌いながら料理してて、フライ返しを折ってしまった。

 今は応急処置をして使ってるけど…やっぱり新しいのを買おう。


 可愛い看板の出てる雑貨屋に入る。


「いらっしゃいませ。」


 あ、このウェルカムボード可愛い。

 わあ…この鏡もいいなあ。


 あたしはあまり物を買わないけど、こうやって見るのは大好き。

 小さな小皿にまとめて入ってる指輪を前にして、一つ取ってはめてみた。


 …ふふっ。

 左手の薬指を、自分で見て笑う。


「…あ。」


 壁にかかった鏡を見ると…どこかで見た事のある女性。

 確か…


「マノンさんの奥さんだ。」


 小さく独り言。

 以前、なっちゃんが写真を見せてくれた。


「ゼブラんちで、みんなで飯食った時の写真。」


 って。


 挨拶…したいけど、あたしってまだナオトさん以外会った事ないしな…

 少し振り向くと、長男の光史こうし君も一緒。

 目の前にある、青い車のシールに夢中になってる。

 …可愛いなあ…


 あたしがボンヤリその光景を眺めてると。


周子しゅうこさん?」


 マノンさんの奥さんが、誰かに声をかけた。


「…るーちゃん?」


「ああ、やっぱり…お久しぶりです。」


 奥さんが声をかけたのは…


 …あ。

 あの人だ。

 前に…お店と、レコードショップで会った…


 マノンさんの奥さんと…知り合い?

 シュウコさん…シュウコ…

 …シュウコ・トウドウ…


 はっ…

 あの、恋の歌の作者だ!!

 業界の人!?


 あたしが驚いてると、マノンさんの奥さんは…前屈みになって、シュウコさんの前を見てる。

 あたしからは、棚が邪魔してそこが見えない。


「あー…」


「ナッキーさんに…聞きました。」


「…え?」



 え?


 なっちゃんの名前が出てきて…あたしに緊張が走る。


ひとみちゃん…ですよね?」


「…ええ…」


 ヒトミちゃん…?


「瞳ちゃんが生きにくい環境は作りたくないって…打ち明けられました。」


 …なんの…話だろう…


「あたし、バカみたいでしょ。夏希…結婚はしない、子供も要らないって言ってたのに…」


 …え…?

 …夏希…って…


「どうしても、子供が欲しかったの…」


「周子さん…ナッキーさんは…?」


「月に一度、会いに来てくれるわ。」


「そう…もう…一歳ぐらい?」


「来月で一歳なの。」


「可愛いわね~…光史、ほら、見て。」


 ……足元が……

 足元が、とても不安定な気がした。


 今…二人は何を話してた?

 シュウコさんが…なっちゃんの子供を…産んだ?

 なっちゃんが…

 毎月、会いに行ってる…?


 …待って。

 何かの…

 何かの間違い…


 あたしはドキドキしながら。

 その棚の向こうを見たいと思った。

 だけど…


「じゃあ。」


 シュウコさんがお店を出て…それは叶わなかった。



 …子供…

 要らないって…


 ノドがカラカラに渇いて。

 あたしは、その場にしゃがみこんだ。



 なっちゃん…


 誰か…

 …嘘だと言って…。



 * * *



「…は…」


 溜息しか出ない。


 雑貨屋で…シュウコさんを見かけて…

 あの夜、あたしからなっちゃんを誘った。

 避妊しないで…って。

 だけど、ダメだ。って…避妊された。


 …なっちゃんに…聞けなかった。


 シュウコさんって誰?

 赤ちゃんって、何かの間違いよね?

 …あの人とは良くて、あたしはダメなわけ?


 ここ最近、ずっとモヤモヤしてて…

 イライラもする。

 なっちゃんは変わらず優しいし…真面目だけど。

 …子供がいる事を、打ち明けてくれない。



「さくら。」


 カプリの控室で溜息をついてると。


「ヒロ…」


 久しぶりのヒロがやって来た。


「…ヒロ…」


 何だか…最近の張り詰めた気持ちが、ふっと楽になって。

 ヒロの顔を見ると泣けてしまった。


「…どうした?」


「……」


 こんな気持ちじゃ歌えない。

 そう思ったあたしは、オーナーに言って帰らせてもらう事にした。



「何があった?」


 うちに帰ってすぐ、ヒロが聞いた。


「…ヒロは?なんでこっちに?」


「ああ…」


 ヒロは前髪をかきあげて。


「…研修が終わった。」


 早口に…そう言った。


「え……」


「日本に帰る。」


「……」


 ヒロが…日本に帰る…


「ヒロ…やだよ…」


「え?」


 あたしがポロポロと泣き始めると。


「どうした?高原さんと何かあったのか?」


 ヒロはあたしを抱き寄せた。

 そこへ…


 ガチャン。


 トレーラーのドアが開いて…


「……」


 なっちゃんが…そこにいた。


「あ…」


「……なんなんだ?これは。」


「なっちゃん…違うの…」


 あたしの声には、全然力が入ってなかった。


「…俺の留守中に、男を連れ込んでたとはね。」


「だから、違うの…」


「でも、今抱き合ってたよな?」


 ……何なのよ。

 自分は…子供作ったクセに…


「…今日は別れを言いに来たんです。留学期間が終了したので、帰国しますから。」


 ヒロが、冷静な声でそう言ったけど…なっちゃんは無言。


「ずっと一緒でしたから…さくらをここに残して帰るのは俺も心配ですが…」


「……」


「…どうか、さくらを幸せにしてやって下さい。」


「…で、別れは済んだのか?」


 なっちゃんのイライラした口調に…あたしはキレた。


「…あたしも…日本に帰る…」


 ヒロの手を取って言う。


「さくら、それはダメだよ…」


「お願い…あたしを一人にしないで…」


「…俺とじゃ、満足出来ないって?」


 なっちゃんは、面白くなさそうに…ソファーに座って足を組んだ。


 満足できない?

 違うよ…

 信用できないんだよ…



「だって…だって…なっちゃんには…」


「…なんだよ。」


「…なっちゃんには、血を分けた赤ちゃんがいるじゃない…」


「…………え…」


 あたしがそう言った途端…なっちゃんは言葉を失くした。


「なっちゃんには、もうすぐ1歳になる女の子がいるんでしょ?あたしに隠してるけど、毎月会いに行ってるんでしょ?」


 もう…止まらない。


「あたし、シンガーになんてなりたかったわけじゃない。あの世界から逃げ出したかったから…」


「さくら、落ち着け。」


 ヒロがあたしの肩に手を掛けて言うけど…落ち着けるわけがない…!!


「なっちゃんとだって…生きてくために、必要だったから…」


「…何…何言ってんだ…さくら…」


「じゃなきゃ、こんな年上の男なんて…」


 そうだよ…あたし、何か熱にうなされたみたいに…

 病気だったんだよ。

 二階堂から逃げたかったから、見もしない夢を見て…好きでもない男と…


「だから、帰る。」


「ま…待てよ。」


 なっちゃんが、あたしの肩を掴んだ。


「やだ!!触んないでよ!!」


 あたしは、なっちゃんの手を振りほどく。


「…なんて事するんだ。ずっと一緒にいた人に…」


 ヒロが静かに怒ってる声で言ったけど…


「だって…要らないって言ったのに…子供要らないって…」


 分かってる。

 あたしみたいな子供じゃ…無理なんだよ…


「…さくらの事、よろしくお願いします。」


 いきなり、ヒロがあたしの体をなっちゃんに押し付けた。


「っ…どうして…?」


「おまえが決めたんだ。逃げるなら…最後まで逃げ切れ。」


「いや!!あたしも帰る!!」


 ドアを開けて、ヒロが駆け出した。


「待って!!」


「さくら!!」


 ヒロを追おうとしたあたしの肩を、なっちゃんが掴む。


「やだ!!離して!!」


「さくら…!!」


「…ヒロ!!待って!!ヒロ!!」


 ヒロ…

 どうして置いてくの…?

 あたし、こんなに苦しいのに。

 いつだって、こんな時は助けてくれたのに。

 …一人にしないでよ…。




 …泣きながら、なっちゃんに抱かれた。

 あんな話の後でも、ちゃーんと避妊するなっちゃんに…萎えた。

 子供の事は言おうと思ってたけど、言えなかった…って謝られて。

 前から言おうと思ってた…って、プロポーズされたけど…

 あたしには…その場しのぎにしか思えなかった。


「…結婚なんかしない…」


 あたしの…

 つまんないプライドが、そう言わせた。



 一緒に暮らし始めて…初めて、なっちゃんに背中を向けた。

 最初は、そんなあたしを後ろから抱きしめてたなっちゃんも…

 しばらくすると、シャワーを浴びに行って…そのまま、リビングにいるようだった。



 …9月で一歳の女の子…

 なっちゃんは、別れた後での事だった。って言った。

 知らなかったって。


 あの人が…一緒に暮らしてた人なんだ。

 あたしと出会う前の事を、責めたって…仕方ないよ。

 本当に…

 偶然が重なっただけ…


 別れてから、妊娠が分かって。

 なっちゃんに知られず…産んで。

 …認知してくれって…


 なっちゃんは…子供が嫌いなわけじゃない。

 むしろ好きだ。

 メンバーの子供の話を楽しそうにするなっちゃんは…どう考えても、いいパパになるって思える。


 …実際…

 毎月会いに行ってたみたいだし…


 …バカだね…あたし。

 こんな状態でいたら…なっちゃん、いつか子供の所に行っちゃうよ?

 あたしみたいに…可愛げのない子…もう、要らないって…


「……」


 あたしはゆっくり起き上がると。

 泣いてぐちゃぐちゃになった顔を、パンパンって叩いた。


 深呼吸をして…下着とTシャツを着て、リビングに向かった。


 なっちゃんはソファーに座って、外を見てた。

 あたしがそばに行くと。


「さくら…」


 申し訳なさそうな声で…あたしを呼んだ。


「……」


「……」


「……」


「…おいで。」


 手を差し伸べてくれて…あたしはなっちゃんの腕の中へ。


「…愛してる…」


 あたしが小さくつぶやくと、なっちゃんはあたしを抱きしめてる手に力をこめた。

 苦しいぐらい…抱きしめられたけど…胸の痛みほどじゃなかった。


「…あたしの事…嫌いにならないで…」


 なっちゃんの背中に手を回しながら言うと。


「…それは俺のセリフだ…」


 なっちゃんは、らしくない事を言った。


「ごめん…さくら…本当に…」


 ノドのために、いつもちゃんと睡眠をとるなっちゃんが…

 その夜は、眠れないあたしをずっと抱きしめたまま…ソファをにいた。



 それから…あたしは少し抜け殻になった。

 なっちゃんに子供がいた事。

 それを隠されてた事。

 ヒロが帰国した事。

 どれも…ダメージが大きかった。



「さくら…何か飲むか?」


「…ううん、ありがと。」


「……」


 あたしが一人で居ると、なっちゃんはそばに来て…後ろからあたしを抱きすくめる。

 優しく…抱きすくめる。

 そこに、なっちゃんのぬくもりを感じるのに…

 あたしは孤独を感じる。


 …こんな事なら…幸せなんて知らなきゃ良かった。

 こんなに…苦しいなんて…

 普通にしてるつもりなのに、何だか…何をするにも力と言うか、今までみたいな熱が入らなくなった。

 歌う事も…今は楽しくない…


 なっちゃんはあたしを前よりもずっと、愛おしむように抱きしめてくれる。

 …罪悪感…すごいんだろうな…

 なっちゃんは真面目だし、優しいし…

 …いつまでもあたしがこんなんじゃ…


 頭では分かってるのに。

 負けた気がしてならなかった。

 あたしは一緒にいながら、なっちゃんに罪滅ぼしさせてるだけのような気分で。


 シュウコさんは…

 別れても…なっちゃんの子供がいる。

 …考えると、嫉妬で壊れそうな自分がいた。


 だけど…よく考えてよ、あたし。

 あたしなんて…二階堂の事は絶対秘密で。

 本当なら、知りたいはずのなっちゃんも…それを黙ってくれてる。

 …誰にだって、話せない事はある。

 産まれた赤ちゃんに罪はなくて、なっちゃんは認知って形で責任を取った。


 それは…とてもなっちゃんらしいよね。

 あたしの…大好きな人だよね…。


 …まだ、ちゃんと割り切れるほど…あたしは大人じゃない。

 だから、これから何度も嫉妬に苦しむと思う。

 だけどさ…

 失くしたくないよね?

 なっちゃんの事…


 うん…

 ずっと…そばにいたいよ。



 あたしは、毎日。

 一人の時間を…こうやって自問自答した。

 そして、少しずつ…笑えるようになった。


 傷は癒え切らないけど…

 なっちゃんを傷付けるよりは、いい。



 * * *


「シェリー、今夜はニッキーとパーティーかい?」


 カプリのオーナーが、ニコニコしながら聞いて来た。


「はい。」


「じゃ、これはサービス。」


「え…えっ?いいんですか?」


 オーナーの手には、シャンパンと小ぶりなケーキ。


「楽しんで。」


「ありがとうございます!!」



 今日はクリスマスイヴ。

 今年は…去年みたいに、イベントもあまり大げさにしなかった。

 子供がいるって知って、あたしの熱が冷めたように思われたのか…なっちゃんはずっと変わらず優しいけど…どこか、遠慮してるようにも思える。


 …冷めたわけじゃない。

 なっちゃんの事は大好きで…

 これ以上好きになれる気がしないぐらい…

 ううん。

 たぶん…あたしはもっともっと、好きになれるんだ。

 だけど怖いから…どこか、セーブしてしまっているのかも。


 なかなかスッキリしない自分に踏ん切りをつけたい気持ちもあって、あたしは旅行を提案した。

 なっちゃんの生まれ故郷…リトルベニス。

 だけど、Deep Redは忙しいみたいで。

 旅行ができるほどのオフは、三月末にならないとできない…って、なっちゃんはガッカリしてた。


 でも、あたしはそれでもいい。

 その日が楽しみだし、待ち遠しい。


 なっちゃんは、リトルベニスで結婚式を挙げようと言ったけど、あたしはそれを断った。

 今は…結婚とか、考えられない。

 とにかく、ふらふらしてる自分の気持ちを…何とか、自分で切り替えたい。

 なっちゃんを愛してる事実を…ちゃんと…伝えたい。



「乾杯。」


 その日は事務所でもパーティーがあって。

 なっちゃんが帰って来たのは22時頃だった。

 来ないかって誘われたけど…

 …シュウコさんが業界の人だと知って…

 あたしは極力、その筋の人達と会いたくないと思ってしまった。


「ん。美味しい。」


 オーナーのくれたシャンパンで乾杯して。

 ケーキを一口。


「ごめんな。せっかくのイヴに遅くなって。」


「ううん。全然。」


「晩飯、一人で食ったのか?」


「もう、なっちゃん…あたしをいくつだと思ってんの?」


 普通に…会話出来てるよね…?

 なのに、なっちゃんは…時々悲しそうな顔をする。

 …あたしが…そうさせてるのかな…



「さくら。」


 シャワーを終えて、髪の毛を乾かしてると。

 ソファーにいたなっちゃんに呼ばれた。


「何?」


「おいで。」


「もうちょっと待ってて。」


 急いで髪の毛を乾かして。

 鏡を覗き込みながら、スキンローションをピタピタとつけた。


「お待たせ。」


 跳ねるように隣に座ると、なっちゃんは大げさに上下に揺れた。


「あっ、ひどい。あたし、そんなに重くなった?」


「冗談だよ。もっと太ってもいいぐらいだ。」


「…胸が?」


「別に不満はないぜ?」


「……」


「なんだよ。その疑いの目は。」


「…ううん。」


 やだな。

 自分で話をふったクセに…

 シュウコさんの事が、頭をかすめた。

 …すごく、スタイルのいい人だった。

 セクシーで…抱き心地良さそうで…


「さくら。」


 考え事してると、なっちゃんがあたしの手を取った。


「え…え?」


「……」


「…何?」


 なっちゃんはあたしを見つめてたけど。

 あたしの手を持ってない方の手を後ろに回すと。


「…クリスマスプレゼント。」


 そう言って…ケースを差し出した。

 そして、それをゆっくり開いて…

 中には、指輪が…


「……」


「…結婚して欲しい。」


「……」


 子供の事を知ってから…こればっかり。

 ……正直、ウンザリ。

 あたしは、そんな事でなっちゃんをつなぎ留めたくない。

 なっちゃんは、あたしの気持ちが不確かに思えて、不安なのかもしれないけど…

 あたしだって不安だ。


 結婚って言葉を出されれば出されるほど…



「…ありがと。」


 指輪をそこから取る事はしなかった。


「さくら…」


 あたしはケースのふたを閉めると、それを手に持って。


「…大事にするね。」


 上手く笑えなくて…うつむいた。


 …こんなんじゃ、なっちゃんを傷付ける…

 分かってるのに…

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