第21話 藤堂周子 4
それから…あたしはなるべく考えないようにしていた。
…小娘の事。
だけど…
あたしは知り過ぎた。
彼女が毎週Lipsというライヴバーで歌っている事。
夏希が…それがある日は、22時に帰って来る事。
…気になる。
今日、Deep Redは夕方早い時間に終わった。
マノンが、息子さんのおもちゃを買いに行くと言うと、エディが付き合うと言って、子育て談義に花を咲かせながらロビーを出て行く姿を見た。
その時夏希は…ナオトと新曲のアレンジについて話し合っていた。
ミツグが『まだ帰らないのか?』と言った時、二人は同時に時計を見上げて…
「ナオト、何時まで?」
「俺?俺はいつまででもいいよ。」
「いや、愛美ちゃんに悪い。早く帰れる日は、できるだけ帰れ。」
「よく言うよ。」
結局二人は、ミツグが帰っても譜面にペンを走らせ。
あたしが差し入れのコーヒーを持って行くと。
「お、サンキュー。周子、もう上がりか?」
夏希はキラキラした目で言った。
…こういう時の夏希は、ノッて仕事をしている時。
「ええ。」
「セレナの新曲、良かったね。」
「ナオトこそ、ゴキゲンなソロをありがとう。」
ナオトは、あたしが書いた新人の曲のキーボードを担当してくれた。
「じゃあね。」
「ああ。」
「ナッキー、一緒に帰れば?」
「俺はもうちょいやってく。ナオトこそ帰れよ。」
「ははっ。キリがないなあ。」
そのやりとりを、あたしは振り向いて聞いてたけど。
「こんな奴でごめん。」
ナオトがあたしに手を合わせて。
「なんだそれ。」
夏希が笑う。
あたしはそんな二人を見ながら。
ああ…このままでいたいな…と思った。
だから。
壊したくないから。
周子は、聞き分けのいい女でいなくちゃ。と思った。
夏希の仕事を理解してる存在。
仕事のパートナーとしても。
一緒に暮らしてる女としても。
夏希が安心して仕事ができて。
楽に過ごせて。
煮詰まれば意見をして。
お互いを高め合える関係。
そのためには…
あたしは、夏希の多くを知り過ぎてはいけない。
今の夏希を。
歌ってる夏希を。
Deep Redのニッキーを…見ていればいいのよ…。
だけど家に帰ると…気になった。
夏希の仕事部屋に入ると、シャツのポケットやバッグを探った。
何も出て来ない。
ほら…何もないじゃない…
安心したくて探ったはずなのに。
何もないと、それはそれで罪悪感に苛まれる。
あたし…どうかしてる…
一人で軽く食事をして。
時計を見ると…20時過ぎ…
「……」
時計を見た瞬間。
あたしは立ち上がっていた。
ナオトには、早く帰れと言うのに。
夏希は?
あたしが一人で待っていないとでも思ってるの?
Lipsの前に立つと、お店の中からかすかに音楽が聞こえた。
ピアノの音…
カウンターが見える小さな窓から中を覗くと…
そこに、夏希はいた。
ずっと…ステージを…見つめている。
しかも…普段見る事がないような…熱い目で。
あたしは違う窓からも中を覗いた。
そこからは、ステージが見えた。
…長い髪の毛。
肩の出たドレス…
…誰?
誰なの…
あたしはLipsの窓の外で、ステージにいる女を必死で見た。
二十代前半…?
ピアノを弾き語るその女を、夏希はずっと見つめてる…
きゃしゃな肩…
ライトで照らされて、艶やかに光る唇。
…もしかして…あの小娘?
あの娘なの?
ステージに立つと…こんなに化けるって言うの?
位置をずれて、かろうじて見える客席を見渡す。
どの男も…ステージに夢中だ…
歌声は…よく聴こえない。
こんなに客席を釘付けにする、あの娘の声が歌声が気になった。
だけど…
もう、聴かない方がいい。
あたし、これ以上知ってしまうと…
壊れてしまう。
逃げるように部屋に帰った。
そして…あたしは考えた。
夏希に結婚願望はない。
だけど…
子供が出来たら?
子供が出来たら、結婚する気になる?
…まさか、中絶しろなんて言わない…わよね?
……ねえ、周子。
あたしは、何が欲しいの?
夏希?
それとも、家族?
それとも…今の環境?
…決めた。
「ただいま。」
いつものように、22時に夏希が帰って来た。
「おかえり。」
あたしは普段と変わりなく夏希を迎える。
「アレンジは出来たの?」
お茶を入れながら問いかける。
「え?」
「あたしが帰る時に、ナオトと作ってたやつ。」
「あー…ああ。出来た。」
夏希は上着を脱ぐと。
「シャワーしてくる。」
バスルームへ向かった。
「……」
とっさに、夏希の上着を探ってしまった。
出てきたのは、ペンとギターコードが書かれた紙の切れ端と、小銭だけだった。
…こんな事をしないと気が済まないなんて。
あたしはもう…夏希とは、やっていけない。
「夏希。」
服を脱いで、バスルームへ。
「どうした?」
「…したいの…」
こんな事は言えるのに。
愛してるって言えない。
なんてくだらない。
なんて…つまらない。
「…最近、元気だな。」
あたしの首筋に唇を落としながら、夏希が言った。
「こうしてると…いい歌が書けるの。」
「そりゃ…頑張らなきゃな。」
抱き合ってる時だけは…
夏希を信じられる。
「周子…」
耳元で、名前を呼んで。
激しくあたしを抱いて。
あたしの中で…果てて。
…夏希。
もっと。
もっとよ…。
あたしが、信じられる物を作るまで。
あたしを抱く事をやめないで。
「おめでとうございます。」
「…え…」
その言葉を聞いた時。
あたしは…目の前に、今まで閉じられていた扉が開けたような気がした。
妊娠した。
夏希の子供を…
妊娠した…!!
「あ…あ…神様…」
涙が溢れて…自然と…そんな言葉が出てきた。
神様なんていないって、子供の頃からずっと思ってたクセに。
だけど…問題は…
夏希に、どう伝えるか、だ。
「スー、何かいい事でもあったのか?」
「え?」
妊娠が分かった翌日、ジェフが笑顔でそう言った。
「何だか…今日は…その…とても綺麗だ。」
「……ありがとう。」
嬉しかった。
綺麗だなんて言われるの…いつぶりだろう…
ずっと自信を失くしてて…夏希に対するもやもやした気持ちや、小娘に抱いた憎悪や恐怖…
だけど、妊娠してると分かった途端、あたしの中には希望が湧いた。
「ニッキーと何かあったのか?」
「……ううん、彼とは相変わらずよ。」
「そうか。でも、本当に…」
ジェフが、あたしの頬に手を当てた。
「本当に…今日のスーは…久しぶりにいい顔をしてる。」
「…ジェフ…」
涙が出そうだった。
あたしの小さな変化に…ジェフは気付いてくれるなんて…
「…スー?」
エレベーターに乗ってすぐ。
あたしは…ジェフに抱きついていた。
それほど、ジェフの言葉が嬉しかった。
綺麗だ。
いい顔をしてる。
夏希は…抱いてくれるけど、そんな事は言ってくれない。
なのに、あたしはそんな夏希を愛してやまない。
「…どうした?」
「あたし…」
「うん。」
「…妊娠したの…」
「………え?」
ジェフは消え入りそうな声で驚いて。
「…でも…ニッキーは…」
「ええ…彼は子供は欲しがらないわ…」
「……」
「だから…別れようと思って…」
「スー。」
ジェフはあたしの肩に手をかけて体を離すと。
「ダメだ。ちゃんと話し合うんだ。」
あたしの目を見て言った。
「…ジェフ…」
「ニッキーを愛してるんだろう?彼との子供なら、ちゃんと打ち明けて…これからの事を話し合うんだ。」
「……」
あたしは…何も言えなかった。
どうして…あたし、ジェフに打ち明けたの?
「待って。」
エレベーターが止まって、出て行こうとするジェフを引き留める。
そして…
「…お願い。助けて…。」
「…スー?」
閉まる扉。
あたしは、ジェフの肩に手を掛けて…
キスをした。
あたしはずるい女だ。
だけど、そんなの…生きていく為には、誰だって手段として使う。
あたしは…ジェフを巻き込んだ。
「スー、ここでいいか?」
「ええ。ありがとうジェフ。」
郊外に、小さな家を買った。
あたしと…子供のための家だ。
ライターの仕事だけなら、事務所に行かなくても出来る。
あたしは自分を大切にして、生まれてくる子供のために全力を注ぐ。
「素敵なベビーベッド…」
ジェフが運んでくれた家具を見ながら、あたしはウットリした。
「スーの好きそうな物を選んで来たよ。」
「…ジェフ…本当に…」
あたしが小さく溜息をつくと。
「スー、いいんだ。」
ジェフはあたしの手を握って。
「俺が決めたんだ。スーを支えるって。」
優しい声で言った。
夏希には…妊娠を打ち明けられなかった。
きっと彼は…
あたしが妊娠したと言ったら、責任を取ると言うだろう。
…責任で結婚なんて…嫌だ。
あたしが欲しかったのは、夏希の責任じゃない。
夏希の、愛だ。
今すぐ子供が欲しいって言ったらどうする?
あたしと居たいなら、子供を産ませて。
それが嫌なら、あたしはここを出て行くわ。
夏希の目を見てそう言った。
妊娠してる…とは言わなかったけど、『産ませて』という言い方をした。
少しでも…その言葉に夏希が何か気付いてくれないかと…期待をこめた。
でも…夏希は…子供は要らないと言った。
そして、何も気付くことはなかった。
分かってたけど、悔しかった。
のど元まで…妊娠の事が出たけど…
夏希の口から、夏希の生い立ちを聞いて…やめた。
ジェフも…夏希に言わずにいてくれる。
そして、結婚はしないものの…あたしを支えてくれると言ってくれた。
本当は、子供の父親になりたいとまで言ってくれたけれど…
…この子の父親は、夏希だ。
「今夜は何が食べたい?」
少し出てきたお腹に向かって、ジェフが声をかける。
「ふふっ。魚が食べたいって言ってるわよ。」
「分かった。腕を振るおう。」
ジェフは毎日のようにここに通い、甲斐甲斐しくあたしの身の回りの世話をしてくれる。
それは、過保護なほどに。
まだまだ動けるし、大丈夫だと言っても…自分がそうしたいだけだ、と。
ここに泊まる事はない。
…きっとジェフは…いい父親になる。
あたしが夏希を諦めさえすれば…
ジェフも、この子も、あたしも…幸せになれるのに…
なぜ?
なぜあたしは…
夏希を忘れられないの…?
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