第18話 藤堂周子

 〇藤堂周子


 あたしの名前は藤堂とうどう 周子しゅうこ


 宝石商に勤める父と英会話教室を経営する母の間に、一人っ子として生まれた。

 父は忙しい人で、しょっちゅう海外に買い付けに行っては、色んなお土産を買って来てくれていた。

 だけど本当に家に居る事が少なく、あたしは五歳ぐらいまで『お父さん』と呼ばれるお客さんが来ているのだと思っていた。


 そんな父がアメリカの知人と起業すると決めたのは、あたしが小学校二年生の時だった。

 何の前触れもなく、いきなり夏休みにアメリカに引っ越す事になった。


 幸い、母の仕事柄英語が喋れたあたしは、渡米しても特に苦労する事はなかった。

『周子』という名はアメリカ人には呼びにくいらしく、あたしは『スー』になった。

 次第に、父も母もあたしをそう呼ぶようになり、『藤堂周子』はまるで過去の人間になったみたいだった。


 サンフランシスコの大きな家に住み、大きな犬を飼い、休日は隣家の住人とバーベキュー。

 父は相変わらず外に出てばかりだったが、あたしにはアメリカの水が合ったのだと思う。

 日本を恋しいと思う事は、一度もなかった。



 ところが、渡米して一年も経たない内に…父が家に居るようになった。

 毎日酒を飲んでは暴れて、母に暴力を振るうようになった。

 最初はあたしの居ない場所でしていたが、その内それは家の至る場所で…そして庭でも買い物先でも行われるようになった。


 あたしは次第に無口になり。

 母に暴力を振るう父を。

 父に文句の一つも言えない母を。

 心から、軽蔑した。



 やがて大きな家は人の手に渡り、大きな犬もどこかにもらわれて行った。

 あたし達はアパートに引っ越し、そこでも毎日のように父の暴力が絶えず、母は毎日のように神様に祈るだけ。


 母はバカだと思った。

 9歳のあたしでも知ってたのに。


 神様はいないって。



 あたし達が暮らしていたのは、アパートの四階だった。

 お粗末なエレベーターが怖くて、あたしはいつも階段を使った。


 あれは…暑い日だった。

 アパートの下を歩いていると、部屋の窓から母の声が聞こえた。

 悲鳴だ。


 …またか。と思った。

 もう、勘弁してくれ。とも。


 そして…母が何かを窓の外に投げた。

 …財布だ。

 あたしがそれを拾って上を見上げると、父があたしを見下ろしていた。


「スー。持って上がれ。」


 あたしは…自然と、首を横に振っていた。


「持って上がれ!!」


「…あたし、まだ帰らないから。」


「帰って来い!!」


「投げるから、取ってよ。」


 あたしは、えいっと財布を窓に向けて投げた。

 …もちろん、届くはずがない。

 だって、あたしは10歳で。

 そんな力はなかった。


 だけど、落ちてきた財布を手に、考えた。

 上手投げをするから、上に向かって行かないんだ。

 下から、持ち上げるように上に放れば、ある程度の高さまで行くかもしれない。



「行くよー、お父さん。」


 一緒に遊んだ記憶さえない父と、遊んでいるような気持ちになったのかもしれない。

 あたしは、だんだん財布が窓に近付いて行くサマが楽しくて、一生懸命上に向かって財布を放った。

 何度目かの時、父が舌打ちしながらも、笑ってくれたのが嬉しかった。

 そして、その後ろから、母が顔を覗かせたのも。

 まるで、仲のいい家族のようだと思った。


 だけど、腕が疲れてきたあたしは。


「もう、これで最後にするね。ダメだったら、持って上がる。」


 そう言って、財布を放り投げた。


 あ。

 届くかも。

 そう思える高さまで、財布が宙に浮いて。

 父は、それに向けて窓から身を乗り出して手を伸ばした。

 そして、父は宙に浮いた。


 宙に浮いて…

 あたしの、すぐそばに落ちてきた。



「……」


 ゴッ。と鈍い音がして。

 父は動かなくなった。

 手に、財布は握られてなかった。


 部屋の窓を見上げると、母が立っていた。

 母は、どこか遠くを見ていた…。

 あたしが慌てて階段を駆け上がり、部屋にたどり着くと。

 母の姿は、そこにはなく。

 窓の外を覗くと…さっきまであたしが立っていた場所に、母の姿はあった。


 あたしは10歳だったが。

 両親が死んでも、悲しいとは思わなかった。




 両親が亡くなり、あたしは母の妹…つまり叔母と、ニューヨークで暮らし始めた。

 高校を卒業してすぐにアメリカの大学に入った叔母は、あたし達が渡米した頃、すでに現地の生活に慣れ親しんでいた。

 母とは違って、なんだか夢見がちな叔母は、大学を中退し、ミュージカルダンサーを目指した。


 日本に帰れば祖父母がいたが、あたしは叔母と居たかった。

 叔母とは息が合った。

 親子と言うより、姉妹のようだった。

 叔母が母なら良かったのに。と、何度も思った。



 叔母のおかげで、色んな音楽に触れ合う機会があった。

 そこでいつしかあたしにも関心という物が生まれた。

 音楽関係の仕事がしたい。


 てっとり早く、ハイスクールでバンドをしている男の子達に頼んで、ボーカルをやらせてもらった。

 自分でも昔から歌は上手いと思っていただけに、すぐにライヴに出させてもらえた。

 ライヴに出たいがために、スーはバンドメンバーと寝てその座を勝ち取った。なんて噂も立ったが、そんな下衆な噂は相手にしなかった。


 こうして、あたしは人気者になった。

 だけど、歌う事にも限界はあった。

 人の真似はつまらない。

 オリジナルが歌いたい。


 あたしは、作詞作曲を始めた。

 そうしていると…

 歌う事より、書く方が楽しくなり始めて…バンド活動は回数を減らした。


 色んな楽曲公募に申し込んで賞をもらえるようになり、ますますあたしはソングライティングにのめり込んだ。

 歌う事より、自分を表現できる気がしたからだ。

 大学には進まず、定職にもつかず。

 あたしは、スタジオのバイトをしながら歌を作った。



 あたしの学費を出し続けていてくれた祖父母は、あたしが成人する頃に立て続けに亡くなった。

 結局一度も会う事はなかった。

 クリスマスと誕生日のカードだけは、叔母の言いつけを守って送っていたが…

 義務としてのそれには、何の愛もこもっていなかった。

 学費はありがたかったけど、あたしは肉親というものに対して、情が湧かなかった。

 一緒にいて、気が合うとさえ思う叔母にさえも。


 そんな叔母も、ミュージカルダンサーの夢半ばで病死した。

 まだ32歳だったのに。



 そしてあたしは、天涯孤独となった。

 探せば父方の親戚は居たかもしれないが、探すつもりはなかった。

 家族が欲しければ、自分で作ればいい。

 あの両親のせいで結婚に憧れはないが、自分の思い描いた家族が出来るのなら…


 それは…

 試してみてもいいのではないか。


 と、思う。




 スタジオでのバイトは、給料ももらえる上に、音楽についての知識を得られる恰好のバイトだった。

 そこで知り合った、レコーディングエンジニアのジェフは、バンドで歌っていたあたしを知っていると声をかけて来た。

 そして、もう歌わないのか、と。


 あたしより6つ年上。

 優しくて、穏やかで、しっかりしている。

 今まで同級生の男の子ばかりとつるんでいたせいか、ジェフの振る舞いは全てが大人に思えた。


 もう一度歌ってみないか?と、スタジオで歌わせてくれた。

 それはそれで楽しかったけど…

 やっぱり、心を突き動かされる物はなかった。

 やはりあたしは、書く方が向いていると確信できた。


 自然と、ジェフといる事が増えた。

 あたしの楽曲を聴いて、新人アーティストにどうか。と、事務所に勧めたりもしてくれた。


「スーの曲は絶対売れる!!」


 そう、何度も推してくれて…

 そして、ついにあたしの歌で女性アーティストがデビュー。

 自分でも驚くほどのヒット曲となり、あたしは事務所と契約をした。



 ジェフは、いつもそばであたしを応援してくれた。

 家族になれる予感がした。

 それはジェフも同じで…

 あたしが21歳の時、ジェフがプロポーズしてくれて、結婚。


 穏やかで、和やかな結婚生活だった。

 …最初は。



 その内、あたしの仕事が忙しくなった。

 仕事が楽しくて、夢中になった。

 その分…家庭を顧みなくなった。

 同業者であるジェフは、事情は分かってくれていたものの、その優先順位には納得がいってなかったようで。

 何よりも音楽を優先してしまうあたしに、気持ちは冷めていったように思えた。



 結婚して二年経ったある日。

 部屋に帰ると、ジェフの荷物がない事に気付いた。

 事務所でジェフに問い詰めると、もう、一ヶ月も前に荷物を運び出したのにな、と笑われた。



 こうして…あたし達の結婚生活は、二年で幕を閉じた。

 子供がいれば違ったのかもしれないが、いなくて正解だったと思う。

 この時のあたしは、母親にはなれなかった。

 まるで、父のように外を駆け回り…

 音楽に溺れ。

 愛を与えられない親になっていたと思う。



 離婚しても、ジェフとは同志だった。

 職場に行けば会う。

 一緒にランチをし、感謝祭には、一緒にジェフの実家で過ごした。

 一度は義母になった人は、どういうわけかあたしを好きになってくれて。

 別れる時は、一人泣いて引きとめられた。


 ジェフとは、仲間でいる方が気が楽だと思った。

 何でも話せて、時々キスをして。

 セックスはしないが、少し度の過ぎたハグはした。

 きっと、お互い何かが足りなかった頃だろう。



 そんな関係が二年ほど続いた頃。

 ジェフに、あるバンドを紹介された。

 ジェフがプロデューサーを担当したDeep Redという、日本のバンド。

 ボーカルの声が、スーに似てる。と言われた。

 なるほど。

 音源を聴いて、会ってみたいと思った。


 会った。

 そして…

 あたしは、そのボーカルのニッキーに…


 一目惚れした。




 日本のバンドと聞いていたのに、ボーカルのニッキーは日本人離れしたルックスだった。

 と言うか、アメリカ人だと思った。

 だから、しばらくは英語で話してたし、周りが呼ぶように『ニッキー』と呼んだ。

 …本当は、メンバーが呼んでるみたいに、『ナッキー』と呼びたかったのに。


 恋をしても、どうしたらいいのか分からない。

 唯一、恋の相談相手だった叔母は、もういない。

 となると、あたしが何でも話せる相手と言えば…ジェフしかいない。

 だけどまさか。

 元夫に、そんな話はできない。



 元々、恋愛なんて縁のない学生時代を過ごした。

 好きだと言われて付き合った事はあっても、あたしから好きになった事は一度もない。

 だから、ときめいた事さえない。

 ダンスパーティーの夜にバージンを捧げたのは、先輩だったかクラスメイトだったか…それさえも覚えてない。

 それぐらい、あたしの中で恋愛は重要な物じゃなかった。


 なのに、そんなあたしが。

 ニッキーの前では、まるでティーンのようだった。

 出来るだけ笑顔で。

 だけど上手く笑えない。

 変だと思われたくない。

 だったら、おとなしくしていよう。


 すると当然、みんなの中では「クールなスー」が定着した。

 まあ…元々口数は多くはないが…

 これじゃ、はしゃぎたくても、はしゃげない。

 そんなあたしの様子に気付いたのは…

 やっぱり、元夫でありながら、親友でもある…ジェフだった。



 ジェフは何かと気を使ってくれた。

 あたしとニッキーが一緒に仕事ができるよう、取り計らってくれたりもした。

 元夫に恋のキューピットをさせるなんて…と、罪悪感もあったが。

 初めてのときめきには勝てなかった。


 あたしの声と似てる。と思ったものの、ニッキーの歌唱力は本当にずば抜けて素晴らしく。

 あたしが提供した楽曲が、泣きたくなるほどカッコよくなってしまうのが嬉しくて。

 今までの仕事のペースとは、くらべものにならないぐらい…あたしは楽曲を次から次へと書いた。


 あたしの書いた歌詞に、ニッキーか、ギターのマノンが曲をつける。

 そういったパターンが増えて来た頃…あたしはようやく、ドサクサにまぎれて…ニッキーをナッキーと呼べるようになった。

 最初は、ん?って顔をしたナッキーも、すぐに慣れてくれた。

 照れくさいから…あまり呼べなかったけど。

 一歩近付けた気がして…それだけの事なのに、一人で乾杯した。



 楽曲作りを一緒にする。

 それは、あたしと彼らの距離をかなり縮めた。

 色んな面を知っていっても、あたしはナッキーに恋したままだった。

 さあ…ここからは?

 いったいどうしたらいいの?


 恋のHow to Bookでも買おうかと悩んでしまってた、秋。

 突然、ナッキーから一緒に暮らそうと提案された。

 結婚願望はない。

 だけど、大事な人とはそばにいるべきだ。


 大事な人…?

 あたしの事?

 そう言われた時…飛び上がりたいほど嬉しかった。

 だけど、抑えた。

 スーは、そんな事しないのよ。


 あたしは、自分で自分を押し殺していた。





「…なんだ?上機嫌だな。」


 ジェフが背後から近寄ってきて言った。

 後姿で上機嫌が分かるなんて…

 たぶん、ジェフぐらいだ。

 それでなくても、あたしは分かりにくい人間なのに。

 ジェフは、すごい。



「…ニッキーに、一緒に暮らそうって言われた。」


 正直に言うと。


「え…」


 ジェフは足を停めた。


「…それは…おめでとう。」


 苦笑いのジェフ。


「あ…」


 きっと、今もあたしの事を一番に考えてくれているジェフ。


「あたし…なんて報告を…」


「いや、いいんだ。これで俺も…やっと踏ん切りがつきそうだし。」


「……」


 そう言われると、寂しい気もした。

 常にあたしを見てくれている存在…それがジェフだったから。


「結婚するのか?」


 やっと歩き始めたジェフと並んで、事務所に入る。


「それはないわ。ニッキーも結婚願望ないらしいから。」


「ニッキー、も。か。」


 エレベーターの前に並んで。


「ま…結婚が全てじゃないって、分かってるしな。」


「まあね。」


 肩をぶつけ合う。


「上手くやっていけそうか?」


「んー…まだわかんないわ。」



 …一緒に暮らそう。

 そう言いに来てくれた日。

 ナッキーは…あたしを抱きしめて。


「周子。」


 あたしの本名を呼んだ。

 胸が熱くなった。

 もう二度と、呼ばれることのない名前だと思っていたから…

 あたしも、ナッキーの本名「夏希」と呼んだ。

 そして…夏希はあたしを抱いた。


 あんなに熱く、欲しいと言われたのは…初めてだ…。

 思い出すだけで、赤くなってしまう自分がいる。



 ベッドにおろされて…

 頭の中はパニックだった。

 ああ、あたし…今日どんな下着つけてる?

 あたしの体って、どんなだったっけ…?

 ナッキー、ガッカリしないかな…?

 そんな事ばかりが、ぐるぐるぐるぐる…



 だけど…彼はすごく優しかった。

 見た目が派手だから、遊んできた感じがあったのに。

 すごく…

 優しくて、労わってくれて…癒された。




 ただでさえ、一目惚れなんて…信じがたい現象に見舞われてしまって。

 それが実ってしまって。

 あたしの歌詞に、恋の歌が増えた。

 さすがにDeep Redにそれは提供できず。

 恋の歌のほとんどが、他のアーティストに回された。

 それがどれもスマッシュヒットとなり…

 あたしは、ナッキー…夏希のおかげで、作詞家としての道をさらに開拓していった。

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