第8話 高原夏希 8

「きゃっ!!」


 ドン


 スタジオの帰り。

 周子も遅くなると言っていたし、一人で飯を食いに行こうと街を歩いてると、人にぶつかった。


「あ…ごめん。大丈夫?」


 見事に尻もちをついてるのは…女の子。


「悪かった。よそ見してた。」


 手を差し出すと、その子は鼻を押さえたまま。


「…あたしも…ごめんなさい…」


 たどたどしい英語。


「怪我はない?」


 足元に散らばった荷物を拾おうとすると。


「あっ…」


 女の子は、慌てたように荷物をかき集めた。


 …化粧道具に…服に…辞書?

 ……和英辞書。


 一番近くにあったそれを拾って。


「…日本人か?」


 日本語で問いかけると、その子はハッと顔を上げて。


「え…日本語…」


 まん丸い目。


 ははっ。


 つい、笑ってしまった。


「親父が日本人でね。」


「ああ…あー…日本語久しぶり…」


 荷物を抱きしめて、座り込んだままの女の子に、辞書を手渡す。


「あたし、この先のバーで20時から歌うので…良かったら来て下さい。」


「…バー?君、いくつ?」


「21です。」


「21?ほんとに?」


 どう見ても、中学生ぐらいにしか見えない。

 まあ、日本人は若く見られがちだ。


「どこのバー?」


「あ、あそこの…大きな青い看板のお店です。」


「ふうん…今夜は暇だから、行ってみようかな。」


 俺のその言葉に、満面の笑み。


「バーなら…ジャズとか歌ってるの?」


 見るからに、あの看板の店はそんな雰囲気ではないが…

『バー』と聞いて、少し懐かしさを覚えた。


 高級ホテルのバーで歌っていた母は…とても美しく、聡明な女性だった。


「あー…バーって言ったら、そんなイメージですよね。」


 女の子は笑いながら。


「あそこ、色んなジャンルのバンドがライヴするお店なんです。」


 視線を、店に向けた。


「へえ…君はどんなジャンル?」


 日本にいたら、フォークギター片手に青春讃歌でも歌っていそうなイメージだけど。

 しかし女の子は俺の予想とは裏腹に。


「あたし、ロックシンガーなんです。」


 意外な事を言った。


「…ロック…」


 アメリカに来て七年。

 アルバムも売れてツアーにも出ている。

 それなのに、ロックを歌っている女の子に顔を知られてないとは。

 俺もまだまだだな。なんて思いながら、女の子を見た。


「はい…って…似合わないって思ってますよね…」


「あー…うん。ごめん。」


「仕方ないです。見た目こんな感じだし…でも、歌うためにアメリカに来たから…」


「…事務所とか?」


「まさか!!お金貯めて、アメリカのペンフレンドを頼りに来ました。」


「……」


 それはー…

 すごく、なんて言うか…

 無謀。

 いや、でも…


「いいね。」


「え?」


「いや…今ちょっと…感動した。」


「……」


 夢を見るって、こういう事だよな…

 がむしゃらに突き進んで。

 後先なんて考えない。



「…あの、お名前聞いてもいいですか?」


 あどけない表情。

 21だというのに、ゼブラの娘、めいちゃんと同じ扱いをしてしまいそうだ。


「高原夏希といいます。」


「高原…夏希さん…」


 名前を聞いても、ピンと来ないらしい。

『ニッキー』で通っているが、アルバムのクレジットにはちゃんと本名も入っている。


 知られてないと分かると、それはそれで…気楽な気もした。



「あたしは、さくらです。森崎もりさきさくら。」


「さくらちゃん…いい名前だね。日本に帰りたくなる。」


 俺がそう言うと、さくらちゃんは照れくさそうに笑った。



「じゃ…あたし、準備があるから、もう行きますね。」


「ああ。20時前には行くよ。」


「ありがとう。」


 ドキッ


 さくらちゃんの『ありがとう』に。

 なぜか、俺の胸が疼いた。


 …おいおい。

 21だぞ?

 見た目は中学生だぞ?



 手を振って走って行くさくらちゃんを見送って。

 とりあえず…すぐそばにあったステーキハウスに入った。


 …なんなんだ?


 この…

 胸の疼きは…。





「……」


 20時前にバーへ行くと、それなりに客の多い店だった。

 小さいけどステージもあって、外からは気付かなかったけど一応防音設備も整っている。


「今日、この前の日本人が出るんだろ?」


「ああ、可愛い女だったな。」


「終わったら声かけてみようぜ。」


 …日本人。

 そうそうバーで歌う者はいないはず。

 聞こえて来る声に、真ん丸い目を思い出して小さく笑った。


 俺はカウンターに座って、ビールをオーダー。

 客層は、様々。

 ふと、カウンターに置いてあるチラシを手にすると。

 今夜は、三つのバンドが出演するらしい。


 ・Deep People

 ・AB/CD

 ・Lion Maiden


 なるほど。

 カバーバンドのライヴか。

 20時からと言っていたが…さくらちゃんはトップのDeep Peopleか?

 …どう見ても、これは…

 Deep Purpleのカバーバンド…だよな。

 つい、口元が緩む。


『深紅で深紫を超えてみせる』と言った、マノンの言葉を思い出した。


 俺たち、Deep Redの原点となったバンド。

 それを、さくらちゃんも歌うのかと思うと…なんて言うか…

 参観日のような気持ちになって来た。



 アマチュアのライヴなんて、久しぶりだ。

 俺は思いのほか、ワクワクしてる事に気付いた。

 ずっと、何もかもが上手くいって。

 立ち止まることも振り返る事もなかった。


 何だろう。

 この新鮮な気持ち。



 20時になって、会場が暗くなった。

 小さなステージにボンヤリ明かりが灯ると、バンドメンバーがゾロゾロと楽器を持って出てきた。


 …メンバーはアメリカ人か。


「こんばんは!!Deep Peopleです!!」


 ギターの男が叫んだ。

 客席が盛り上がる。

 ギターがイントロを弾い…う…ひ…ひどいな…

 まあ…アマチュアと言っても、ピンキリ。

 プロ目指して頑張ってる奴らもいれば、こうして楽しむだけのバンドもいる。


 …さくらちゃんは、歌うために来たと言っていたが…

 まさか、このおちゃらけバンドに付き合うために?



 一気に客席のボルテージが上がる。

 …おいおい。

 人気者じゃないか。

 …と…


「え。」


 ステージ中央に駆け出た…さくらちゃん?

 さくらちゃんか?

 俺は目を凝らしてステージを見る。

 客席に拳を突き上げて…シャウトした。


「……」


 決して、上手くはない。

 だが…

 なんだ。

 このインパクト。

 バンドが、じゃない。

 彼女が、だ。


 さっき、俺にぶつかって転んだ女の子と、同一人物とは思えない…

 真っ直ぐな強い目。

 似合うはずないと思うのに…惹きつけられる、赤い唇。


 客席もまた、さくらちゃんに釘付けになっていた。

 黒いTシャツの袖から出る、細い腕。

 すらりと伸びた足。

 色気なんて感じられないであろう、そのきゃしゃな体に…

 俺は言い知れぬ感情を抱いてしまった。


 …守ってやりたい…



 はっ。


 お…俺は今、何を考えてた!?



 ステージから目を逸らして、ビールをもう一杯頼んだ。

 …それにしても、いい声をしている。

 英語の発音はさておき…

 これは…

 ロック以外を歌わせたい。



 相変わらず客席は盛り上がっていた。

 背中にその熱を感じながら、俺の耳はさくらちゃんの声を拾い続けた。



「…このボーカル、いい声してるな。」


 カウンターにいる男に声をかけると。


「ファンになった?」


 グラスを磨きながら、笑顔。


「ああ。ロック以外も聴いてみたい。」


「それなら、明後日来るといい。」


「え?」


「月曜から木曜までは、ここでピアノの弾き語りをしてるから。」


「…それは…ぜひ聴きたいな。」


 思いがけない情報をもらった。

 もはや気持ちは明後日。

 スケジュール、入ってなかったよな。


 曲が終わって振り向くと、さくらちゃんが客席にお礼を言っている所だった。

 俺は拍手をしながら立ち上がる。


 すると、ステージから俺が見えた…のか?

 さくらちゃんは、こっちを見て大きく両手を振った。




「緊張しちゃった。」


 出番が終わったさくらちゃんは、Tシャツの上にGジャンを羽織って俺の隣に来た。


「面白かった。」


「面白かった?どういう意味ですか?」


 ぷう。と頬を膨らませる。


 …ふふ。

 可愛いな。


「何か飲む?」


 俺がアルコールを指差して言うと。


「あ。あたし、いつもの。」


 さくらちゃんがそう言うと、バーテンダーは笑いながら…ミルクを出した。


「…100%ミルク?」


「あたし、お酒全然飲めないから。」


 さっきまでステージでシャウトしてた子が、隣でミルクを飲んでる。

 笑ってしまった。


「さくらちゃん、いい声してるね。」


「えっ、本当ですか?」


「ああ…敬語じゃなくていいよ。」


「あっ…あはは、うん。じゃ、友達みたいに?」


「ああ。こんな30前のおっさんの友達は要らない?」


「えー、高原さん、全然おっさんみたいに見えないもん。」


「それは嬉しいねえ。」


「高原さんがおっさんだったら、本当のおっさんはなんて言えばいいんだろ。」


 くだらない話に、つい笑いが止まらなくなる。

 そんな俺を、さくらちゃんは不思議そうに見た。


「ナッキーでいいよ。みんなにそう呼ばれてるし。」


「ナッキー…夏希さんだから、ナッキー?」


「そう。」


 さくらちゃんはマジマジと俺を見て。


「なっちゃんって呼んでいい?」


 首を傾げて言った。


「…は?」


「なっちゃん。」


「…ま…まあ、なんでもいいけどさ…」


 27になって、生まれて初めて『ちゃん』付けで呼ばれるとは…


「ねえ、なっちゃん。」


 早速…


「ん?」


「ステージの上から見てたんだけど。」


「何。」


「なっちゃんの事。」


「見えたか?こっち暗かっただろ。」


「見えたよ。ずっと、背中向けて飲んでたでしょ。」


「バレたか。」


「あたしの歌、つまんなかったんだね。」


 見ると、さくらちゃんはまた頬を膨らませて、ぶーたれた顔。


「違うよ。声をしっかり聴きたかったから、姿は見ない事にした。」


「あっ、何それ。見た目がつまんなかったって事?」


「そ。」


「もーっ!!」


 背後では、AC/DCのカバーバンド、AB/CDが頑張っている。


「なっちゃん見てたら、入り口の所にいる女の子三人組が、ずーっとなっちゃん見てた。」


「へえ。」


 入り口を見たが、そこには誰もいなかった。


「いねーし。」


「このバンドの追っかけだから、前に行ったんじゃない?」


「で?」


「なんか、やだったから、終わってすぐ来ちゃった。」


「は?」


 俺は笑いながら、さくらちゃんを見る。


「何となく、他の子に、隣に座られたくなかったの。」


 頬杖をついて、さくらちゃんを見た。

 この子は…なんだって、こう…思わせぶりな事を口にするんだろう。

 今日会ったばかりだぞ?

 俺を騙そうとしてんのか?

 悪いけど、引っ掛からないぞ…見た目中学生には。


「せっかく日本語喋れる人と会えて…心強いなって思ってたし…」


 ガクッ。

 そこか。



「さくらちゃん、昼間はどうしてるの。」


「バーカーショップでバイトしてる。」


「へえ…どこの。」


「病院の近くにある、サイモンバーガー。」


 事務所からも近いな。


「なっちゃんは?何の仕事してるの?」


 さくらちゃんの問いかけに、俺は…少し意地悪をしたくなった。


「ボイストレーナー。」


「…えっ?」


 案の定、さくらちゃんは俺の顔をマジマジと見て。


「1レッスンいくら?」


 目を輝かせた。


 * * *



 嘘つきは泥棒の始まり。


 …ああ…

 俺は泥棒だ。

 さくらちゃんに、嘘をついた。

 俺の職業は、ボイストレーナーだ、と。


 本気にしたさくらちゃんは、早速…今日レッスンをつけて欲しい、と。

 まあ、俺もずっとレッスンを受けて来て。

 ボーカリストを生業とする事が出来て。

 レッスンが出来ないわけでもない。

 が、レッスン料を取るわけにはいかない。



 そんなわけで、俺はさくらちゃんがバイトを上がったら、公園で落ち合う事にした。

 スタジオでもいいが…

 スタジオだと、ポスターが貼ってあったりするからな…



「なっちゃーん。」


 呼ばれて振り向くと、さくらちゃんが手を振りながら走って来てる。


 …ぷっ。

 走らなくてもいいのに。

 子供か。


「ごめっごめーん…はっはっ…待たせっ…ちゃったよねっ…」


 さくらちゃんは、肩で息をしながら。

 膝に手をついて、呼吸を整えた。


「待ったなあ。腹ペコだ。」


 彼女がバーガーショップの袋を手にしてるのが見えて、そう言うと。


「あっ、これ。食べて。」


 さくらちゃんは、少しくしゃくしゃになった紙袋を差し出した。


「おっ、気が利くなあ。」


「レッスン料。」


「まあ、よかろう。」


「やったー。じゃ、毎日してもらいたいっ。」


 …可愛いな。



 今日のさくらちゃんは、長袖の白いTシャツに、紺色のジャージ。

 羽織ってたジャンパーは、走って暑くなったのか、腰に巻いている。

 やる気満々な恰好で来てくれたのは嬉しいが…余計罪悪感が…

 いや、その分、しっかりレッスンしよう。



 最初は、さくらちゃんにはつまらないかと思ったが、声帯のしくみや声の出し方について講義した。

 俺の思いとは裏腹に、さくらちゃんは一生懸命それを聞いて、時には質問もした。


「すごーい…勉強になった。」


 パチパチと拍手をしながら、さくらちゃんは目を輝かせる。

 顎のラインで切り揃えられた、真っ黒い髪の毛。

 細い肩。


 …ああ、ダメだダメだ。

 俺は、なんだって男の目で彼女を見てる?

 全然『女』を感じさせる子じゃないじゃないか。



「…さくらちゃん。」


「ん?」


「ペンフレンドを頼って来たって言ってたけど…いつまでこっちに?」


 俺の問いかけに、さくらちゃんはあっけらかんと。


「一生。」


 そう言って笑った。


「え?家族で引っ越して来たんじゃないよな?」


「うん…あたし、家族はいないから。」


「え?」


「孤児なの。」


「……」


「あ、同情とかしないでね。あたし、孤児だけど結構環境には恵まれてるから。」


 同情しないでね。と言われても。

 これが同情なのかどうかは分からないが、俺はさくらちゃんに対する『守ってやりたい』気持ちが大きくなっている事に気付いた。



「こっちには、勉強で来たんだけど…ちょっと脱落というか…」


「勉強が好きなタイプには見えないもんな。」


「あっ、ひどっ。」


「どこに住んでんだ?」


「今は、バーガーショップで一緒に働いてる子のアパートに居候してる。」


「そこに一生いるつもりか?」


「居心地いいんだけど、さすがにダメだよね~。それに、研修期間終わったら一度帰国しないとダメだしなあ…」


「研修期間?」


「あ、あたし…これで結構頭いいのよ?留学中なの。」


「へえ…めちゃくちゃ意外だな。英語…」


「うっ…英語の事は言わないで~。」


 眉毛を八の字にするさくらちゃんに小さく笑う。

 だが…頭がいいのは確かだろう。



「帰国予定っていつ?」


「あと二年。」


「留学か…この辺なら、ハビナス?」


 どうした俺。

 こんなに次々と質問するなんて…

 今まで出会った女…いや、男にも。

 こんなに興味を持った事はない。


「…なっちゃん、そんなにあたしの事知りたいの?」


 さくらちゃんがクスクス笑う。


「…ああ。気になる。」


 自分で言って驚いたが、目の前のさくらちゃんも…目を見開いてる。


「あ…」


「いや、その…変な意味じゃない。心配だから…」


「お父さんみたいな気持ち?」


「そうそう。って…六つしか違わないだろ?」


「えー、六つ?…あ、そっか…六つだよね…」


「もっと離れてると思った?」


「…うん。なっちゃん、30歳だと思ってたから。」


「てめっ…」


「きゃーっ!!あはははっ!!ごめーんっ!!」



 公園を、走った。

 逃げるさくらちゃんを追って、走って。

 俺、なんで走ってる?

 疑問に思いながらも、それが楽しくて。


「…捕まえた。」


「おっさんなのに、足速…い…」


 さくらちゃんの手首を掴んで、引き寄せる。


「…なっちゃ…ん?」


 つい、抱きしめてしまった。

 俺の腕の中で、さくらちゃんは困ったように…手をもぞもぞとさせた。


「……」


「……」


「おっさん、ノド渇いた。」


「あっ…うん…おっさんじゃないあたしも、ノド渇いた…」


「誰がおっさんだ。」


 さくらちゃんの額を、ペシッと叩く。


「あたっ。自分で言ったんじゃない。」


 自然と…手を繋いで歩いた。


 心が…自分で驚くほど、洗われて行くようだった。


 これは…






 浮気になるのか?

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