第6話 高原夏希 6
それは、晩秋の雨の降る日だった。
義母が亡くなった。
その訃報に、俺は単独帰国した。
…最後に会ったのは、いつだっただろう。
義母は無口で控えめな人で。
厳しくはなかったが、優しくもなかった。
俺と二人きりになる事を極力避けていたようにも思えたし、それは当然だと割り切ってもいた。
「久しぶりだな、夏希。」
兄の
「帰って来ないかと思った。」
「どうして。帰るさ。」
「母さんの事、苦手だっただろ?」
「向こうはそうだったかもしれないけど、俺はそうは思ってなかったよ。」
「…そうか。」
兄はそうとだけ言うと、部屋を出て行った。
リビングでは、
暗い雰囲気を消し去ってくれている。
子供の力って大きいもんだな…と、一人遺影に向かって笑った。
「夏希。」
しばらく遺影の前にいると、親父がやって来た。
「何年ぶりだ。」
「最初に渡米する前だったから…四年ぶりかな。」
「もうそんなになるか。」
「歳取ると一年が早いからな。」
「ふっ。」
親父は、ふっとしゃがみこむと、床にあぐらをかいた。
「……」
俺も、親父の隣に腰を下ろす。
「おまえは結婚しないのか。」
遺影を見上げながら、親父が言った。
「残念ながら、結婚に憧れがないんだよなあ…」
俺も遺影を見上げながら、本音を言った。
「憧れがない?憧れなんぞ要らん。好きな女と一緒になって、子供を作ればいい。」
「ははっ。親父は本能のままだな。」
本来なら、そんな親父の生き方を憎むべきなのかもしれない。
俺は愛人の子で、幼少時代は寂しい想いもしたし、いつも泣く母を不憫に思った。
親父を憎んだ時期もあったが、俺の生活は全て親父のおかげで成り立っていた事も事実で。
親父の援助は絶対受けない。なんて、自分の生い立ちを呪うほどでもなかった。
生まれたからには、生きていくためには何でもする。
そこに素晴らしい環境があるなら、なおさらだ。
「
初めて、親父が義母の名前を言ったのを聞いた気がした。
「慶子は、私とは家のための結婚だった。」
「……」
「お互いに愛はなかったが、夫婦になるための努力はした。」
夫婦になるための努力…
「子作りの事か?」
「まあ、それもあるが…お互いの事を知るために、色々話したな。こんな時はどうだとか、好きな物とか嫌いな物…」
結婚してからが交際の始まりみたいだなんてな。と、少し笑いそうになった。
両親の生まれた環境や、その時代の経緯にそうするしかなかった二人。
「その時に、慶子がポロッと言った。」
「何を。」
「好きな男がいる、と。」
「…え。」
俺は口を開けて親父を見た。
「
「え。」
「
「……」
思いがけない告白に、俺の口は開いたまま。
こんな話を義母の遺影の前で聞かされるなんて…
「…兄貴は知ってんの。」
「ああ。慶子が話した。」
「別に言わなくても良かったんじゃ?」
「おまえを養子に迎えた時に、話した。」
「……」
初めて会った時。
兄貴は冷めた目をしていた。
妾の子が。
そんな冷たい目で見られてると思った。
きっと、面白くないんだ、と。
「やっぱ、言わなくても良かったと思うけど…」
「そうか?
「え?」
「高原家の長男として、将来はもう決まっていた。私の息子なら出来て当たり前。自分で何か変な暗示でもかけていたんだろう。」
「……」
親父はゆっくり立ち上がると。
「私の血が流れてない。いつだって辞められる。」
笑った。
「…でも、兄貴は辞めなかったな。」
「私の血は流れてなくても、慶子の血が流れてるからな…ああ、なんだ。いたのか。」
親父の声に振り返ると、いつの間にか…そこに兄貴。
「くしゃみ連発で、噂されてる気がしたのさ。」
兄貴は缶ビールを三本手にして、親父と俺にそれぞれ渡した。
「夏希。」
「ん?」
「最後に会った時、母さんが言ってた。」
「…何。」
「きれいな子過ぎて、顔を見るのもドキドキしたってさ。息子なのにね、って笑ってた。」
「……」
「CD、聴いてたよ。」
「…そっか…」
甘えておけば良かった。
そう思った所で、甘えたい人は、もういない。
俺はいつもそうだ。
もう、後悔はしたくない。
大事な人とは…いつもそばにいよう。
* * *
「一緒に暮らさないか。」
アメリカに戻ったその足で、スーの部屋に行って言った。
「……は?」
作曲中だったのか、スーはペンを持ったまま。
部屋の中にはキーボードの横に五線譜が並んでいる。
初めて見る、メガネをかけたスー。
…いつもはコンタクトだったんだ?
こんな時なのに、冷静にそんな事を考えた。
「ここでも、俺んとこでもいい。」
「…どうしたの?」
「…義母が亡くなって、思った。」
「……」
「大事な人とは、そばにいるべきだ、って。」
「ナッキー…」
俺はスーの前に跪く。
「…正直言って、結婚には興味がない。こんな男…信じられないかもしれない。でも、今はスーのそばにいたいんだ。」
「……」
「こんな甘えた男は嫌か?」
「…あたし、甘える男って得意じゃないな…」
「……」
「ナッキー、もっと頼り甲斐のある強い男だと思ってたけど…マザコンだったの?」
「ああ。」
「……」
笑うスーに対して、真顔な俺。
スーはそんな俺を初めて目の当たりにするせいか…少し戸惑い始めた。
「…らしくないね…」
「でも、これが俺だ。」
「…あたし達、付き合ってるわけじゃないよね?」
「ああ…でも、俺はそばにいたいんだ。」
「どうして?」
「……」
どうしてそばにいたいのか。
それは…
「…スーが大事なんだ。」
「……」
「愛なのかと聞かれると、よく分からない。だけど、今まで誰にも感じた事のない想いだ。」
「……」
「そばにいたい。いて欲しい。失くしたくない。これは…愛なのか?」
俺が正直にそう言うと、スーはペンを置いて、跪いた俺の前にしゃがんで。
「…愛…なのかな。」
「…そうか。これが、愛か。」
「…キス、してみる?」
「…してみる。」
チュッ
体に触れる事なく。
軽く唇を合わせた。
スーは膝を抱えたまま。
俺は自分の膝に手を置いたまま。
もう一度…
チュッ
「……」
「……」
スーのメガネを、上にあげた。
そのまま、頭を抱えるようにして引き寄せると、スーの体が俺に寄りかかった。
「……」
ぐい、と。
さらに引き寄せて、唇を重ねた。
スーの髪の毛が指に絡んで。
顔の角度を変えながら…キスを深くしていった。
…愛だよ。
今までの女に、感じた事のない気持ち。
そのまま唇を首筋に落とすと。
「…いきなり?」
スーはチェックのシャツの胸元を抑え気味にして、そう言った。
「…周子。」
「……」
「お前が欲しい。」
「……」
目を見つめてそう言うと。
スーは驚いたような目で俺を見たけど…
「…夏希…」
俺の背中に手を回した。
初めて…
自分から、個の女を欲しいと思った。
今までは、欲求を満たすだけのそれが…今日は違った。
「周子…」
全てが愛おしい。
そう思った。
絡めた指先に、重ねる肌に。
そう、思えた。
* * *
とりあえず…と言うか。
誰かに言いたかった。
周子と暮らすことを。
そんなわけで、俺はマノンの家に。
「お、なんや。珍しいな。」
ドアを開けたマノンは、そう言いながらも笑顔で。
それは、ホッとさせる物でもあった。
俺達はもう、仲間というより家族のようなものだ。
その家族に…打ち明けたかった。
俺の、心境の変化を。
「ナッキー来た。」
「いらっしゃい。」
家に入ると、るーちゃんも笑顔で出迎えてくれて。
「あー…実は…」
俺は髪の毛をかきあげながら。
「周子と、一緒に暮らそうと思って。」
早速…少し照れながら、告白した。
「周子?」
マノンとるーちゃんが、顔を見合わせる。
「…スー、だよ。」
「え。」
「…スー…」
「……」
二人が口を開けて、俺を見る。
るーちゃんは周子とは、すでに顔見知りだ。
それにしても…
この二人の反応…
薄すぎないか?
「何か言う事は?」
ソファーに座って問いかけると。
二人は顔を見合わせた後。
「……スーって…」
とんでもない事を言った。
「ジェフの女やろ?」
「…え?」
今度は、俺が口を開ける番だった。
周子が…ジェフの女?
「あ、いや…けど、別れたんかな…」
マノンがるーちゃんに問いかける。
「どうだろ…」
「俺らが見たんは、10月の終わりやねん。」
「見た…とは?」
「その…デート現場っちゅうか…」
「デート現場?」
「腕組んで、買い物しよったよな。」
最後の方は、るーちゃんに同意を求める感じだった。
るーちゃんも、それに小さく頷いた。
「腕組んで買い物ぐらいなら…」
「キスも?せえへんて。」
「……」
キスも…?
「て言うか…ナッキー、本気なん?」
マノンが、俺の隣に腰を下ろして言った。
「なんか…タイプ的に、ナッキーとスーは合わへん気ぃするけど。」
「タイプ的に?」
「ナッキーもスーも、自分に厳しいやん。同志っちゅう感じはするけど、恋人には向いてへんのやない?」
「……」
なるほど…。
そう言われると、妙に納得できてしまう自分がいる。
確かに、俺と周子は似た所がある。
だから話していて楽でもあるし、ぶつかる部分もある。
でも、だからこそ。
自分の分身のように思えるからこそ…愛おしい…
…ん?
自分の分身のように…?
おい待て。
それじゃあ、俺は自分が好きなだけじゃないか。
「…大丈夫ですか?」
ふいに、るーちゃんが俺を心配そうに見ていることに気付いた。
「あっ、ああ。うん。なんて事はない。」
「ホンマか?」
「ああ。周子には、ちゃんと聞いてみる。でも、たぶん俺達は一緒に暮らすよ。」
「まあ、ナッキーがええんなら…俺らはええけど…」
マノンの言葉に、るーちゃんも頷いた。
「ナッキー、飯食ってくやろ?」
「ああ。サンキュ。」
マノンが立ち上がって、るーちゃんとキッチンへ。
マノンは…本当に変わった。
あれだけ女をとっかえひっかえしていた男とは思えない。
るーちゃんのためにピアノを習い、ナオトが拍手するほどの演奏を聞かせてくれた。
それで、るーちゃんを勝ち取った。
彼女との関係が上手く行き始めてからのマノンは、音楽面でもかなり成長した。
プレイだけじゃなく、レコーディングの際には色々こだわりを持って、自分以外の録りの時もスタジオに顔を出して。
「そこ、ちょっとずらしたらカッコええんちゃうかな。」
色々、案も出してくれた。
マノンは、きっとまだまだ進化する。
それが、俺たちDeep Redの進化でもある。
俺はマノンと一緒に音楽が出来る事が、この上なく幸せだった。
マノンは音楽とるーちゃん、両方を手に入れる事が出来た。
俺は、音楽と周子、どちらかを取れと言われたら…
…きっと、音楽を取る。
恐らく周子もそうだ。
マノンの家で晩飯を食って、周子のアパートへ。
ドアの前でチャイムを押すと、待ってましたと言わんばかりにドアが開いた。
「っ…」
驚いて一歩退くと。
「ビックリした?夏希の足音、分かりやすいから分かっちゃった。」
周子は、柔らかい笑顔でそう言った。
…ああ。
何だろう。
安心する。
「部屋の中まで聞こえるのか?」
「今ちょうど、ここ掃除してたから。」
そう言って、周子はドアを開けてすぐのクローゼットを指差した。
「邪魔したか?」
「ううん。」
抱き寄せて…キス。
「…何かあった?」
「どうして。」
「ちょっと元気ないみたい。」
「…周子。」
「ん?」
「ジェフと、今も付き合ってる?」
「……」
ズバリ核心をつくと。
「…ジェフとは、付き合うとか…そういうのじゃないの。」
周子は俺の腕から離れて、キッチンに向かいながら言った。
「どういう関係だ?」
周子の後を追いながら問いかける。
「…仕事のパートナーよ。」
「…仕事を取るために寝てたのか?」
「そうじゃないわ。」
「じゃあ何だよ。」
「……」
周子は少し言いにくそうに…だけど顔を上げて俺の目を見て言った。
「別れた夫よ。」
* * *
「おめでとう。」
6月の晴れた日。
今日はナオトの結婚式。
4月にはミツグもキャシーと結婚した。
これで、メンバーの中で独身なのは俺だけだ。
まあ、相変わらず結婚願望はないのだが。
「良かったね。愛美ちゃん。」
ナオトを射止めた愛美ちゃんに声をかける。
「ありがと。ほとんどナッキーさんのおかげね。」
「ははっ。ほとんどか?」
「ええ。だって、ナオトさんもそう言ってたもの。」
彼女は去年、留学というツールを使って、ナオトを追ってきた。
当時ナオトはカレンという、愛美ちゃんとは正反対のセクシー路線まっしぐらの女と付き合っていたが…
どこか無理をしているようにしか見えなかった俺は、ナオトに耳打ちした。
「ナオト、本当にカレンの事好きなのか?」
「え?」
「おまえが本当に好きなのは、愛美ちゃんじゃねーの?」
「ははっ…ないだろ…」
「そうかー?俺は、おまえは自分の気持ちに気付いてないだけだと思うけどな。」
「……」
ちょうど一時帰国のタイミングもあって、ナオトは自分の気持ちを確認すべく、先に帰国していた愛美ちゃんに会った。
そして…
「連れて来てしまった…」
一人だけ渡米を一週間遅らせたナオトは、愛美ちゃんを連れて来た。
「…確か短大に進んだって…」
あの時ばかりは、みんなで口を開けて驚いた。
冷静なナオトが…
大人なナオトが…
まるで聞き分けのない子供みたいに…
ナオトにフラれたと思った愛美ちゃんは、短大に進学。
目下、合コンに精を出している…はずだった。
「ナッキーの言う通りだった。俺、自分の気持ちに気付いた。もう…離れていたくないって思った。」
「……」
まあ…良かったさ。
うん。
「おめでとー!!」
「お幸せにー!!」
ナオトも愛美ちゃんも幸せそうだ。
ウエディングドレスが揺れて、愛美ちゃんの笑顔もキラキラと輝いた。
…周子とは、クリスマスから一緒に暮らしている。
ジェフが別れた旦那と聞いて、ためらいがなかったと言ったらウソになる。
だが…
別れた夫。だ。
現在進行形ではない。
大した事じゃない。
周子の結婚願望のなさは、俺以上かもしれない。
ジェフとの結婚生活は、二年ほどだったと周子は言った。
その二年で、自分は結婚に向いてないと悟った、と。
それなのに、俺との同棲に賛同してくれたのはありがたい。
お互いに結婚願望がなければ。
きっと…うまくいく。
愛は、ちゃんとある。
俺たちは、お互いを大事に想い合っている。
…うん。
これでいいんだ。
結婚は…
お互いを縛る。
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