第5話 高原夏希 5
「…大掃除中か?」
久しぶりに部屋に帰ると、マノンが雑巾片手に床に這いつくばっていた。
「…年末やし。」
「……」
玄関に、マリの靴はない。
一応靴箱も覗いてみるが…ない。
少しだけキョロキョロすると。
「…マリなら出て行ったで。」
マノンの低い声。
「あ、そ。」
マノンは…
クリスマス以降、全く元気がない。
会ったであろう、るーちゃんと…聞かなくても揉めたのが分かる。
ゴシゴシゴシゴシ。
マノンが床を磨く音だけが、部屋の中に響く。
俺はソファーに座ると。
「ゼブラの結婚パーティーをしようと思うんだけどさ。」
新しい年のカレンダーを手にして、めくりながら言った。
「…ああ。ええんちゃう。」
マノンは、低く冷たい声。
「おまえ、曲書いてくんねー?」
「……」
「歌詞は俺が書くから。」
マノンは無言で雑巾を置いて立ち上がると。
「…ナッキーは、本気で人を好きになった事、ある?」
俺の目を見て言った。
「…あ?」
「俺は、本気なったの、るーが初めてやねん。」
「……」
「初めてだらけのあいつを可愛い思うたけど、俺かて初めてやった。せやから…」
マノンは俺の隣に座って。
「せやから…大事にするとか…その方法が分からへんかった…」
うなだれた。
「約束してても、スタジオ入ったらそっち優先やし。映画行きたい、遊園地行きたい、どれも叶えんかった。」
「でも、おまえの夢を応援してくれてたんだろ?」
「…どうやろ。それは…俺がちゃんとるーの事も構ってたら、違うてたかもやけど…」
違うてたかもやけど。
…って事は…やっぱ…
「…待っててくれ言うたら、待たん言われた…。」
「……」
まあ…るーちゃんの気持ちは分からなくもない。
初めての恋愛にして、相手が女ったらしのバンドマン。
おまけに、完全に思いはアメリカに。
自分の事をちゃんと考えてくれてるかどうかなんて、彼女には分かる由もない。
マノンがいくら『愛してる』と言ったところで…
形のないもの程、信じられないものはない。
「…ん?」
ふとテーブルの上に目をやると、見慣れない箱。
立ち上がって蓋を開けると…
「……」
中には、ギターの形のクッキー。
「…るーがくれた。」
「……」
「…分かってる。俺はアメリカに行くし、元々俺とあいつは世界が違うてたし…どうしようもないんやって。」
マノンは指を組んで、うつむいた。
…ここまで誰かを好きになれるマノンを、少し羨ましく思えた。
そう考えると、俺は初恋もまだって事か。
「…諦めていいのか?」
箱を手にして、マノンの隣に座る。
「るーちゃんを諦めて、いいのか?」
「……」
スッパリと別れた方がいい。
そう思ってたけど…
親父さんが亡くなった後、マノンに熱を戻したのは…るーちゃんだ。
それなら…マノンは彼女を諦めちゃいけないんじゃないか?
「ゼブラを見習えよ。」
「…どういう意味や。」
「ゼブラみたいに…夢を掴むためには彼女が必要だって思う事、俺の選択肢にはなかったけど、悪いとは思わない。」
「……」
「彼女に好かれたから、好きになったんじゃないんだろ?」
「ああ…」
「なら、待たないって言われても、粘れよ。」
「……」
「おまえのやり方で。」
マノンはしばらく無言だったけど。
俺の手からクッキーの箱を取ると、一つ取り出して口に入れた。
「…美味い…」
「俺にも一つ。」
「ん。」
くれないかなと思ったけど、あっさり俺の口元にクッキーを…
「って、誰がやるか。」
「…だよな。」
マノンは小さく笑うと。
「ナッキー。」
「ん?」
「俺は、俺のやり方でええよな。」
ポリポリ。
美味そうな音を立てて食いやがる。
「ああ。」
「…サンキュ。」
マノンは箱をテーブルに戻すと。
「よし。続きやるで。」
腕まくりをして、雑巾を手にした。
* * *
「よお。録り終わった?」
俺がスタジオのロビーで漫画を読みながらくつろいでると、ミツグが雑誌をうちわ代わりにしながら、やって来た。
…外は相当暑いらしい。
「ああ。一発さ。」
「さすが。」
アメリカに来て四年目。
現在、Deep Redは新しいアルバム制作の真っ最中。
俺たちは、キース・バーネットの言った通り…
と言うか、あれよあれよと言う間に。
メジャーデビューした。
そして、ツアーにも出た。
一旦帰国もしたが、やはり拠点をアメリカに置きたくて…またアメリカに。
この四年の間に…
まずは、弟の
送られてきた写真は、とても可愛らしい笑顔で。
『
それから、渡米前にるーちゃんの家に乗り込み、両親を前に交際宣言をしたマノンは。
こっちに来てピアノを猛練習。
その後、そのピアノの腕を披露してのプロポーズが成功して…
去年、誰もが驚く展開。
なんと…アメリカで結婚式を挙げた。
あれだけ英語の勉強を嫌がってたマノンも、今はるーちゃんと二人で楽しそうにレッスンに通っている。
ミツグとナオトにも、彼女ができた。
ミツグの彼女キャシーは、赤毛にそばかす、ほのぼのとした女の子。
時々スタジオにも遊びに来るが、スタッフからの印象もいい。
事務所の近くにある病院のナースをしている彼女は、ミツグが風邪で通院した時に出会って…
お互い、一目惚れ。
一目惚れなんてあり得ないと思っている俺に。
「目が合った瞬間、電流が流れた。」
と、ミツグはありがちなセリフを言って笑わせた。
ナオトの彼女カレンは、キャシーとは正反対の…セクシーな女。
まさかナオトの好みがセクシー路線だったとは…と驚いたのは俺だけじゃないはず。
…本気なのかな?
結婚四年目のゼブラは、この冬、パパになる予定。
「ニッキー、ちょっとこっちへ。」
現地スタッフには『ニッキー』と呼ばれるようになった。
故郷でそう呼ばれてた事もあって、違和感はない。
ちなみに、ミツグは『ミック』、ゼブラは本名の永治から『エディ』
そして、なぜかナオトは『ジョン』とスタッフから呼ばれている。
たぶん、Deep Purpleのキーボード、ジョン・ロードからきているのだと思うけど、ナオトはまんざらでもない様子だ。
マノンだけは、そのままマノンと呼ばれている。
読んでた漫画を閉じて、呼ばれたミキサールームに入ると…
「紹介するよ。こちら、スー。」
プロデューサーのジェフが、そう言うと。
「はじめまして。」
椅子に座ってた女性が立ち上がって、手を差し出した。
緩くウェーブのかかった茶色い髪の毛。
きゃしゃな体。
切れ長の目。
何より…
声が…いい。
「あ…どうも。」
差し出された手を、握り返す。
「最後の曲なんだけど、コーラスに女性を入れたいって言ってたよな。スーが歌いたいって言うんだけど、一度聴いてみてくれないか?」
「ああ…そういう事ね。オッケー。」
俺が笑顔で答えると、スーはクールに笑って。
「じゃ、早速。」
スタジオに入った。
そして、すでに俺が録音した曲が流れて…
「…えっ…」
つい、声が出た。
それは、コーラスに使うにはもったいないほどの、いい声だった。
なんだこれ…
「ビックリしただろ。」
ジェフが笑う。
「ああ…」
「スーの声は、おまえの声に似てる。」
俺の中で…
何かが。
何かが、どうにかなった。
どうなったかは…
表現できない。
「アメリカ人だと思ってた。」
目の前で、スーが笑った。
…完璧な日本語。
よくよく話を聞いてみると、親の仕事で小さな頃からアメリカ暮らしの、生粋の日本人。
本名は
俺より一つ年上の25歳。
「いや、俺もそうだと思ってたけど。」
「あたしはどう見ても日本人よ?」
「どう見てもって事はない。」
アメリカでの生活が長いせいか、その振る舞いやファッションからは『生粋の日本人』を感じ取れなかった。
結局、スーをコーラスとして使う話は却下された。
声が似過ぎてて、つまらない。と、誰もが遠慮するような意見を、マノンがズバリ。
まあ…確かに。
それに、スーほどの声と力量の持ち主には、コーラスはもったいない。
是非とも、いちシンガーとして歌ってもらいたい。
しかし彼女は…
「実はあたし、歌う事は好きだけど…仕事にはしてないのよ。」
「え。」
心から、もったいない。と俺に思わせた。
「ソングライターなの。たまに曲も書くけど、主に歌詞。今度Deep Redにも何か書かせてよ。」
「へえ…そりゃ、是非お願いしたいね。新しい事に挑戦したいから…間に合えば次のツアーで使いたい。」
「ほんと?じゃあ、早速作るわ。」
今まで、音楽業界の女とここまで話が盛り上がった事がない。
いいのか悪いのか、だいたいみんな音楽より俺自身に興味を持ってしまうからだ。
そう思うと、バンドの雑用にも俺にも興味を持ったマリは貴重な存在だった…と気付いたのは、アメリカに来て二年経った頃だった。
まあ、マリは俺以外にも興味津々だったが。
…元気にしてるだろうか。
と気になったのは、ほんの一瞬で。
あいつなら、ちゃんとした男を見つけて、きっと幸せにやってるはずだ。と勝手に納得した。
それから、気付いたらスーと一緒に居る事が増えた。
けれど、俺とスーの間には色恋に発展しそうな何かが生まれる気配はなかった。
周りからも、俺たちは似た者同士だと笑われたり…
まるでスーは俺の兄弟のようで、幼馴染のようで、親友のようで…本当に近い存在になった。
12月には、ゼブラに娘が産まれて。
スーと俺は、一緒に祝いの品々を買った。
それまで祝いには現金が一番と思っていた俺は、子供服の店なんて一生無縁なはずだったが…なかなか楽しかった。
ついでのように、我が姪っ子の愛にも、何着か服を買って送った。
春には、スーの曲をDeep Redの新曲としてリリースした。
毎日、ラジオで流れない日はないぐらい、人気ナンバーとなった。
俺たちとスーは、パートナーとなった。
スーの書く歌詞に、俺やマノンが曲を付ける。
そのためのディスカッションが、事務所や俺の家や、マノンの新居で行われることもたびたびあった。
充実していた。
こんなに音楽に没頭できる毎日に、感謝した。
だが…
ある日を境に、その関係に変化が訪れる。
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