第7話 なんばの新喜劇
薄暗い劇場の右列の一番後ろ。私たちが取れた席はそこだった。びっしりと詰められたお客からあふれる熱気に当てられ、まだ舞台が始まる前だというのに、緊張で汗をかいてきた。微妙な光のせいで隣に座る紺ちゃんの顔が非常に見にくい。しかし、彼女もこの劇場から放たれる特有の緊張感にあてられているのか、顔が少し引きつっていたように感じた。今か今かと、会場のざわめきがピークになったそのとき、バンッと大きな音を……いや、音なんてなっていない。大きな音を立てたかのように強い光が圧倒的存在感で舞台の中央を照らした。その光と同時に舞台セットが明らかになり、コミカルな曲が流れ始める。私たちが座っているのは新喜劇の劇場じゃない。ここは……なんてことはない普通の団地だ。それを肌で、目で、耳で理解した。
団地に現れるのは少々幸薄そうなスーツを着たサラリーマン。彼の登場に、これから団地で行われようとしている面白おかしいお話を聞きに来たご近所さんたちから歓声が上がる。私も、周りの空気に流され声をあげてしまう。紺ちゃんは既に周りの人たちに負けないぐらい興奮しきった様子で彼らのお話にのめりこんでいた。紺ちゃんは新喜劇が相当好きなのかもしれない。私の期待も大きく膨れ上がっていた。
団地に現れたその幸薄そうなサラリーマンが第一声を上げようとしたとき、私の背中に悪寒が走り、一気に現実に引き戻される。この悪寒の原因は空調の効きすぎなんかじゃない。これは…………私の呪いだ。
これから何が起きる? 何が私の幸せを奪うつもりだ? 辺りを見渡すが違和感が感じられない。この不幸は私に向けられたものではない? だとしたら……そこまで思案したところで、身の毛のよだつ感覚を覚えながらステージに視線を戻す。
次の瞬間、私の目に飛び込んできたのは、ベニヤ板でできた団地アパートの三階と二階の間に大きな亀裂が入っていくところだった。「危ないっ!」私が叫ぶのと同時に、アパートの三階から上が崩れ落ち、サラリーマン役の芸人さんはそれをかわす。爆音を立てて崩壊した舞台セットに観客は動揺を隠せずにいた。
静まり返る劇場。もう少しで、この会場にはどよめきが重層的に襲ってくる。そうなれば……舞台は終わりだ。私のせいで、私が新喜劇を見に来たせいで、せっかく楽しみにしていた人たちに迷惑がかかってしまった。私たちと同様に東京から、もしかしたらそれより遠くから来た旅行客もいただろう。それを私が…………やっぱり現実は私が生きるには………………非情すぎるよ。紺ちゃんに悟られないように席を立つためゆっくりと腰を浮かしたところで、サラリーマンは大げさなリアクションとともに会場を包み込む声量で叫んだ。
「うあああああああああ! 俺の家が! どうしてくれるんやーーーー! 俺まだローン終わっておらんのに!?」
続いて押し寄せるのは会場からの笑い声。たったの一声で、会場の人たちを、なんてことはない団地に引きずり込んだ。脇からツンツルリンのかつらをかぶった小太りの男性が怒った様子で現れる。
「こらああああああああ! うちのアパート壊したのはあんたさんかーーーー!? それにあんたローンじゃないやろ! 貸家や! 月払いや! 今月の家賃まだ払ってないやん」
「いやいやいや! ちゃいますって! 突然壊れたんやって、ほんま!」
「だってもヘチマもないわ! 言い分けは署で聞かせてもらうで」
「堪忍してや~頼みます。土下座もします! 今度お見上げ買ってきます! きよう軒のシュウマイでどうですか?」
ごまをすりながら大家さんにすり寄るサラリーマン。その姿に彼は狼狽するような様子だった。
「そこまで言うなら………………まあ信じてもええかな。それより聞いてや。うちの息子がな…………」
そうして、二人は何事もなかったかのように、舞台を再開した。今のは絶対アクシデントだったはずなのに。運命が私の邪魔をして起こした悲しい事故のはずなのに…………会場の人たちはそれがアクシデントではなく、舞台開始の一笑いであったのだと受け入れつつある。これがプロの演技。絶望を受け入れ、より大きな笑いで覆い隠すその姿勢…………私には一番足りていない部分かもしれない。私は浮かした腰を、どっしりと下ろしお話に集中した。そこから先、アクシデントは起こらず私は終始腹を抱えて笑うのであった。
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