結果


「博士。起きてください」私を呼ぶその声の主は、ほかでもない私の助手。名前は……なんだったかな。

「いい加減に覚えてください。ジェイですよ、アルファベットのJ、一文字です。覚えましたか?」

「ああ、覚えた。覚えたよ」覚えた、というよりは思い出した、というべきだろう。もともとインプットしておいた情報を、どこに収納したかを一時的に忘れてしまう現象。ほうっておくと私自身の名前まで忘れてしまいそうになる厄介な現象。大丈夫だ、忘れていない。私の名前はD。ドクターの頭文字でもある「D」。

「こんなところで寝ないでください。いくらその装置が愛おしいからって」

「仮にも精密機械、だもんな」

「当たり前です。プログラムはどこまで進みましたか?」

「もう終わったよ」終わってなかったらこんなところで呑気に寝てなどいない。「終わったからこそ、一層愛おしく感じるものでもあるのさ」

 小説を書く機械なんてものが発明されて久しい。

 人工の頭脳を搭載され、意識という名のプログラムを打ち込まれてから、彼らは圧巻のスピードで小説を書き続けてきた。

 今や娯楽は人間だけが生み出せる存在でもなんでもない、ということがようやく常識として社会に浸透している。厳密でない意味であれば、ずっと前から機械は人間に娯楽を与え続けている。

 人間のサポート無しに、完全に独立した状態で、機械が娯楽を与える状況は、様々な事情によってあまり衆目に晒されることがなかった。すっかり今では「機械が書く小説」をそのまま表す「機械小説」なんていう安直なジャンル名も生まれ、それは本屋の棚スペースの一部を少しずつ獲得していっている。そして誰も小説を自らの手で書くことはなくなった。なくなったというか。手書きで小説を書こうとする人間がいなくなった、という意味だ。文字を画面に打ち込んで小説を書く人間は、探せばどこにでもいる。プロアマ問わず、作家を名乗る人間であれば。プロット作成の手伝いをしてくれる機械も、ごく最近一般的に運用されるようになってきた。

 そして私が寝る前に完成させたこのプログラムである。機械の頭脳に入力すれば、プログラムは機械へと、ある種の進化を遂げる。

 コンセプトは「増殖」。コンセプトなどという洒落た用語を避けて説明すると。着想は細胞分裂だった。細胞分裂にヒントを得て、倍々ゲームへと着想の的は移る。一から二。二から四。四から八。八から十六。物が必ず二つに分裂する、という状態を想像し、それを文字に当てはめた。増殖する文字。一文字が二文字に四文字に八文字に十六文字に。まさに一字が万字。

 文字が増えることによって出来上がるもの。言うまでもない。小説だ。プロットから生まれる小説ではなく、ただのプログラムによって生み出される小説。プログラムによって造られたプロットを基に小説を書くプログラムは存在する。

 今回の場合、プロットの段階をすっ飛ばしたに過ぎない。誰もそれをやってこなかったかといえば、そんなことはない。実際、プログラムがプロットを作る前は、普通に小説を書いていたのだ。いわばこのプログラムは今現在の機械小説の技術からすれば退化した位置にあるだろう。だが機械小説としての革新的な瞬間であろうことに変わりはないはずだ。

 そうした可能性を秘めたプログラムを作ろうと考えた。それが一ヶ月前。優秀な助手、Jの助けによって、私はようやくプログラムを完成させたのだ。

「完成したのですか。ならば早速動かしてみましょうよ」

「実はもうやってるんだ」プログラムが完成してすぐに、テストとして最初の文字を打ち込んである。これをプログラム自身がどのように解釈し、文字を増やし、言葉を作り、繋ぎ、物語にしていく。まさにその瞬間が来る。

「最初の一文字に何を指定したのですか」興奮気味に助手は訊く。

「オーソドックスに『話』とだけ入力したよ。上手い具合にいってくれればいいんだがね」

「信じましょう」その一言は、かなり心強い一言だった。

 プログラムはまだ動いていた。必死に何かを考えて、文字を増やしているようだ。ディスプレイは備えているが、そこには何も映らない。「何故です」助手が訊く。

「人に見られてる状態で、まともに小説が書けるかと言われたら、とても私には無理だな」

「しかし、プログラムでしょう? それも文字を増殖させて物語を作る、という一点に目的を絞ったプログラムなんですよね? 見られていることを意識させるプログラムなんか、組み込んでないわけでしょう?」

「観測者効果だよ。見るだけで影響を与える可能性を、私には否定できない」

「淡々と文字を増やしているだけなのに……」まあ、観測者効果、というのは出鱈目だ。助手の言うとおり。これは単純に、小説が出来上がるまで楽しみをとっておきたいというエゴイズムに満ちた動機による措置だ。

「そろそろ出来上がりそうですかね」

「もうすぐだな」焼き菓子でも作っている気分だ。

 完成のアラームが鳴り、私たちは食い入るように、出来上がった小説を読む。予定通り、文字は増殖していた。


 小説家という私の将来の展望の上に描き出している夢のような職業は、至極儚い存在である。私はそんな存在になりたいと夢想し続け、今に至っている。ここまでで、この時点で、私の思考回路が壊れていることは既にわかるだろう。そんな職業は、今この時代に存在しないのである。

 過去数百年の文献によれば、小説を書いていたのは機械ではなく人間だったそうだ。機械が存在しなかった時代もあっただろう、容易に想像できる。ただ一つ疑問なのは、人間が小説を書いた際、物語上の矛盾は生まれないのだろうかと。整合性を取れるほどの思考が可能だったのか。

 過去の人間に向けて物事を書くのであれば。現時点で私が最も頭の良い人間だと崇められていることだろうか。しかし私自身、小説家を目指せば目指すほど、小説を書く機械からは目の敵にされる。それでも目指すのだから、過去の人間からは愚か者だと思われても仕方がないだろう。

 殺されながら文章を書く心持ちを、過去の人間は体験しているのだろうか。こうして機械に殺されながら、私が夢想した小説家自身に殺されながら、文章を書いたことがあるのだろうか。過去の人間は、殺されるとすぐに死ぬと書いてあった。文献に誤りがないのならば、凄いことだ。

 一文字から倍々の増殖を繰り返した十回目の小説。

 これは。

「……なかなかおもしろい話ですね」助手はため息混じりに言う。その言葉に感嘆の念がこもっているのは容易に感じ取れる。

 私はと言うと、違和感を拭いきれない。複雑な感情を抱いている。この十回目の増殖の後、十二回まで増殖を遂げていて、私も助手もそこまで読んだ。流石に十二回目の増殖小説は、まだ少し間延びした感じがあって、プロの小説家が書く小説とは比べ物にならないくらいには稚拙な出来だ。言うなればプロットの文章化。それも、ただ単にプロットの文章を引き伸ばして長い文章にしただけ。まあ、文章に関しては何も問題はないだろう。ある程度こうなることは予想がついていた。

 問題は内容だ。プロットにある。

 機械だけが娯楽を生産する世界とは一体。主人公はどうやら人間であり、そして人間は機械から娯楽の生産を禁止されているらしい。娯楽の生産とはつまり、主人公がやっているような、小説の執筆も含まれているらしく、だから主人公は機械に隠れる形で、地下室で小説を書いていたのだと思う。ところが機械にそのことがバレて殺される……。人間が書いたのならいざしらず、これを機械が書いた、という事実が、私の中に一つの疑念を湧き上がらせる。

 遠い未来のことを描きたかったのか、「ディストピア」という単語が死語という立ち位置に置かれているのはまあ置いておくとして。一度殺されるだけでは死なないくらいには、人間そのものが強い耐久性能を獲得するまでに進化していることも伺える。また、「殺す」という単語に「命を奪う」という意味が含まれにくくなっているのではないかとも考えられる。人間がいくつも命そのものを持つようになったのであれば話は別だが、少なくとも「殺す」という言葉の意味が少しばかり捻じ曲げられていることは確かだ。

 機械による統治について、このプログラムは書いている。それも人間視点で。いわゆる表現の自由だとか、言論統制がテーマなのだろうとは考えられる。だがそこまで深く考えてこの物語を書いているかどうかはわからないし確かめようもない。私が違和感を抱いていたのはそこかもしれない。人間は思想信条に囚われることなく、平気で嘘をつきながら物語を書く。右利きの人間が左利きの人間を主人公として描くように。自身の思想がどうあれ、それが主人公に影響するかというと、それは百パーセントではない。

 では機械は?

 機械はそもそも思想も心情も持たない。何もかも、すべて、与えられてから彼らは動く。いずれにしても彼らは常に受動的であり、しかし与えられた分、もしくはそれ以上に成果を残してくれる。そこが機械の強みだ。このプログラムにしても、たった一文字が四〇九六文字にまで増殖した。与えさえすれば、彼らは勝手に働く。

「こういう物語になったのには、何か理由があるはずだ」

 私の主張に、

「人間だって、何の理由もなしに突然物語を書くじゃないですか」

 と反論する。

「それはあくまでもゼロから何かを作り出しうる人間だからだ。彼らはあくまでもプログラムだ。彼らはゼロから物語を作れない。何か与えられでもしない限り」私が与えたものは「話」という一文字。そしてプログラムを実行したそのコンピュータは膨大な知識量を誇るデータベースと接続されているため、膨大な知識も与えていることになる。

「与えられるものがなければ、彼らは何も作れない、と」

「まあそういうことだ。尤も、人間だって、文字がなければ書けないし、知識がなければ相応の物語しか書けないが、それは少し話が違う。文字と知識は前提条件、その上で、人間と機械には違いがあるという話だよ」

 私の言葉を最後に、研究室は静かになった。

 増殖執筆プログラムには、まだ改良が必要らしい。


                        」

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