ムソウ

@hatomugi_x

ムソウ

 右から迫る拳を仰け反るように躱す。勢いそのままに繰り出される左膝は、右足で地面に弧を描くように半身を作り、空かす。そして円運動を保持したまま相手の左手首を掴むと、腕ごと巻き込むように身体を沈め、背中から叩きつける。一本背負い。

「あ゛っ…っ…!」

 酸素を求めて相手の顎が上がる。その隙を見逃さず、喉仏を締め付けるように首を掴む。一秒、二秒、三秒———落ちた。

「…私の勝ちだ。」

 膝を払いながら立ち上がり、気絶した相手を見下ろす。この日課も、これで三六五回目になる。


「ああ。また今日も、勝ってしまった。」


 ——————


 稀代の格闘家、天之川須佐男あまのがわすさのお。総合格闘技で世界を制し、人間無双と謳われる、大神町おおがみちょう…いや、世界の英雄。一年前、彼は突然意識を失った。原因は不明。治す手立ても見つからず、彼が目を覚ます事はもう無いと、誰もがそう考えていた。

 ——だが、丁度須佐男が倒れたぐらいから、この町ではとある報告が毎日のように住民から寄せられるようになっていた。


「夢の中で、天之川須佐男と闘った」


 毎晩必ず一人が、夢の中で須佐男と闘う。その中で須佐男は「終わらせたければ、私を倒してみせろ」と話していたという。つまりこれは、須佐男からの挑戦状である。

 それを受けた町内会は、幾多の格闘技経験者や高名な格闘家を町に招くなどの対策を講じたが、遂に須佐男を倒す者は現れなかった…。

 そしてその日も、大神町公民館では天之川須佐男対策会議が行われていた。


 町長とその息子が激しく言い争うのを、天之川奈月あまのがわなつきは遠巻きに眺めている。夫が倒れてから早一年。住民は闘争の恐怖で中々寝付けなくなり、最近はいがみ合いも増えてきた。これも全て身内が蒔いた種なのだと思うと、胸が苦しくなる。

(ああ。いっそ——)

「もういいよ。」

 奈月の横に座っていた一人息子、照彦てるひこが不意に口を開いた。そして立ち上がり、輪の中心へと歩いて行く。その存在感に、言い争っていた者達も思わず目を向けてしまう。


「俺がやる。俺が、父ちゃんを倒す。」


 それは彼がまだ八歳だという事を忘れさせるような、決意と覚悟に満ちた宣言だった。


「まっ、待って照彦!今なんて…」

「だから、俺が父ちゃんを倒す。町長さん、『』って放送で伝えて。」

「じょ…冗談はよせ照坊!子供のお前が勝てる訳無ェだろ!」

「そうだ!それに子供に無茶をさせる訳にはいかない!」

 

「じゃあ、他に何か手はあるの?」


 大人達は水を打ったように静まり返る。焦り、戸惑い、周りの反応を伺うように視線を動かす。それをじっと確認すると、照彦は続けた。


「それに俺だって、何も考えてない訳じゃない。ちゃんと作戦があるんだ。」


 ——————


 天之川須佐男と闘うのは一夜につき一人。つまり、という事。これは対須佐男の基本戦術である。


「じゃあ母ちゃん、俺そろそろ寝るよ。」

 時刻は二十時半。眠りにつくまでの誤差を考えて、照彦は予定より少し早めに布団に入る事にした。

「照彦……ううん、頑張るのよ。」

「うん。」

「あ、歯は磨いたの?ちゃんとトイレには行った?」

「磨いたし、行ったよ。」

「…そう…お休みなさい。」

「お休みなさい。」

 母親との別れを済ませ、照彦は寝室へと向かう。その小さな手には、一冊の本が握りしめてられていた。


 ——————


 頭上に広がるのは、重くのしかかるような鉛色の空。真っ白な地平線は果てしなく、どこまでも広がっている。そんな広大で殺風景な世界に佇む大柄な男——天之川須佐男は、今日の相手が現れるのをただ黙って待っていた。

(私がこの夢に囚われて一年…数多の強者と闘ってきたが、どれも私を満足させるものではなかった。やはりもう、地球上で私に敵う者など存在しないのではないだろうか。)

 ゆうに一時間は直立の状態を保っているにも関わらず一切崩れない姿勢。Tシャツの袖がはち切れんばかりの丸太のような腕。ハーフパンツの下から伸びる脚もまた、馬と見紛うような太さとしなやかさを兼ね備えている。並の成人男性であれば相対するだけで失禁もやむなしといった、まさに人間無双の名に相応しいこの男。彼を倒さない限り、町に平穏は訪れないのだ。

 そして今日も、また一人。


「来たか。お前が今日の…なんだ…?お前は。」

 須佐男の目の前に居たのは、全身に赤いタイツを身に纏った謎の男。頭には大きく「G」と描かれたヘルメットのようなものを着用している。

「誰だと聞くなら教えてやろう!今日がダメでも明日がある!不屈の先に見える星!それが我らの希望の光!根性戦隊!!ガッツマン!!!」

 目の前の赤タイツがそう叫んだ瞬間、何故か背後で爆発が発生!何故そうなったのか、須佐男には全く分からなかった。

「…ふざけてるのか、お前は。」

「ふざけてなどいない!俺は貴様を倒しに来たんだ!天之川須佐男!!」

 須佐男は考えるのをやめる事にした。

「まあいい、そういう事なら…来い。遊んでやる。」

「…ッ…行くぞ!!うおおおお!!」

 拳が交わる。その日の、町を救うための闘いが始まった。


 ——————


 顔面狙いの右フック。膝を使って身体を沈める。そしてガラ空きになった脇腹にショートアッパーを一撃。後方に跳んで距離を取る。

 すかさず前蹴りが飛んでくる。脇に抱えるように脚を掴み、力任せに投げ飛ばす。

 距離が開く。しかし、相手は休みもせずこちらに向かってきた。少し跳躍しながら力任せに振り下ろされる拳。即座に距離を詰めてその勢いを殺す。そのまま手首を掴んで捻り、腕を極めようとするが、宙返りで脱出される。再び距離が開き、睨み合う。


(…弱い。なんというか、雑だ。身体能力の高さに胡座をかいているからか、動きそのものは素人のそれ。だが…こういう相手は、何をしてくるか分からない怖さがある。)

「やはり…強いな。」

 肩で息をしながら、ガッツマンがそう呟く。

「当たり前だ。私を誰だと思っている。」

「……うおおおお!!」

 またしても真っ直ぐ突っ込んでくる。

(学習能力も無いのか…救いようがな…いや…なっ…!)

 何故かガッツマンの拳が光り輝いていた。

(なんだあれは…!)

 天之川須佐男の闘い方は、膨大な修練と戦闘経験に裏打ちされた後の先を制するスタイル…訳の分からない攻撃への対処法など持ち合わせていない!

「くそっ!」

「うおおおお!ガッツフィスト!!!!」

 十字で受けた腕に光輝く拳がめり込む。それは須佐男がこれまでの人生で受けた打撃の中で、最も重い一撃だった。


「ぐっ…!」

 あまりの衝撃に、須佐男の巨体が吹き飛ぶ。地面を転がりながら体勢を立て直すも、二発目が既に目の前まで迫っていた。

(落ち着け!単なる大振りだ!)

 斜め後方に跳ぶようにして右フックを躱す…だが。

「ガッツブラストォォ!!!!」

 謎の衝撃波によって再び身体を吹き飛ばされる!しかもさっきより強い!

「ぐ…おおおお…!」

 再び体勢を立て直そうとするも、膝が地面から離れようとしない。そして目の前には、赤い影が——

「とどめだ!!ガッツ!!!!フィストォォ!!!!!」

 ガッツマンが叫ぶ。先程と同じ、右の大振り。

「私を…舐めるなぁぁぁぁ!!!!!!」

 須佐男も叫ぶ。彼にあるまじき、左の大振り。

 防御を捨てた二人の拳は綺麗に交差し、互いの顔面を捉えた。須佐男の身体は地面を転がり、ガッツマンのヘルメットは砕け散る。そして、最後に立っていたのは——


「…私の、負けか。」

「ハァ…ハァッ…!俺の勝ちだぜ…父ちゃん!」

 素顔を曝け出したガッツマンが、高らかにそう宣言した。

「まさかお前…照彦か!?しかしこれは…一体どういう…。」

「これは父ちゃんだけじゃない…俺の夢でもあるんだ。『枕の下に物置いたら、その夢を見る』って話くらい…聞いた事あるだろ?」

「…成る程な。だが、その姿は一体…。」

「…新しい戦隊ヒーローだよ…どれだけ追い詰められても決して諦めず、必ず勝つ。俺の大好きなヒーロー…ずっと寝てた父ちゃんが、知ってるはずない。」

 照彦の声が震える。

「ねぇ…父ちゃん…いい加減めを覚ましてよ!!俺、まだ父ちゃんと遊んだ事ないんだよ!?かけっこも!キャッチボールも!虫捕りも!何も!ずっと待ってたのに!!!ずっと我慢してたのに!!!」

 須佐男はただ黙って見つめている。

「どうして!?父ちゃんは俺や母ちゃんなんかより強い事の方が大切なの!?じゃあ勝ってよ!!ガッツマンにも!!」

 感情はどんどん昂ぶり、自分でも何を言っているのかよく分からなくなる。それでも照彦は、叫ぶ事を止めない。


「俺の父ちゃんは誰よりも強いって!!ガッツマンよりずっとカッコいい!!俺のヒーローだって!!言わせてよ!!」


 顔を真っ赤にして、肩で息をする息子の姿。それは自分の記憶よりもずっと大きくて、ずっと逞しくて。

「大きくなったな、照彦。本当に。」

 須佐男はしっかりと照彦を抱き締める。もう二度と、自分が離れてしまわないように。

「済まなかった。照彦は私の…ヒーローだ。」

 それは、照彦が生まれて初めて見る、人類最強の男の涙。どこまでも強さを追い求めた無双の男に届いたのは、誰よりも強いヒーローに焦がれた子供の、夢想の拳だった。


 そして、夜が明ける。


 ——————


 …ん……ちゃん

 意識の外から、自分を呼ぶ声がする。さて、今日は一体何の日だっただろうか。

「父ちゃん!!早く起きてよ!ガッツマン始まっちゃうだろ!」

 言っている事を理解してようやく、今日が日曜日だった事を思い出す。

「ん…あぁ…分かった。」

「待ってるからね!!」

 ドタドタという足音が遠ざかっていった事を確認し、身体を起こす。崩れた生活リズムが戻っていないせいか、まだ少し頭が重い。

「ふふ…『待ってるから』、か…。」


 でも


「これ以上、待たせる訳にはいかんな。」


 こうやって、何もない日に子供から起こされるというのは、なんて————



『夢想』—終—

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