田中朝美の場合


 私の家の隣には、二人の夫婦が住んでいた。

 名前は小林勉さんと莉子さん言い、とても優しくていい人達だった。

 奥さんの莉子さんのお腹は大きく膨らんでいて、もうすぐ出産予定日だと聞いて私は楽しみにしていた。

 男の子か女の子か。

 高校受験を終えて暇になっていた私は、産まれたらたくさん遊ぶのだと産まれる前から言っていた。

 隣の家に住んでいるだけなのに、何て図々しいのだと今になって思うが、莉子さんはとても良い人だったので。


「それは、ありがたいわあ。もし産まれた子が男だったら、そのままお嫁さんになってもいいのよ」


 許可するばかりか、そんなことまで言うぐらいだった。


「莉子さん、そんなこと言っちゃ駄目ですよ。もしも男の子だとしたら、結婚できる年齢になった時は、私はもうおばさんですからね」


「あら、歳の差は良いと思うけど。朝美ちゃんなら、安心して任せられるのに。もしもいい人がいなかったら、うちの子も候補にしてあげてね」


「もう、からかわないでください! 男の子かどうかも分からないのに」


 私は口では否定しながら、男の子だったらいいかもしれないと思っていた。

 もうすぐ高校生になるのに、恋人のこの字も無かった私は、このまま一生彼氏が出来ないままかもしれないと不安だった。

 だから莉子さんがそう言ってくれた時、実は嬉しかった。


「……でも、一応お願いしとこうかな。もしも男の子だったら、お嫁さんにしてくれても良いんだよ。……なーんて」


 仕方なさを装って、彼女のお腹をさすり若干本気でそう願った私を、微笑ましげに見ていた時に何かを感じていたのだろうか。


「この子が男の子でも、女の子でも、仲良くしてあげてね。朝美ちゃん」


 今でもその言葉が言っている時の表情が、妙に印象に残っている。


 莉子さんは、一ヶ月後に男の子を出産した。

 しかし、それは命と引き換えにだった。

 産まれたばかりの我が子を抱っこすることも出来ないまま、彼女は亡くなった。


 憔悴しきった表情で、赤ちゃんだけと一緒に帰ってきた勉さんは、彼女の訃報を私達に告げた。

 私の両親は驚き、すぐに慌ただしく動き出す。

 でも子供の私はどうすることも出来なくて、ただただ勉さんの腕で眠っている赤ちゃんを見つめるだけだった。


 赤ちゃんは、祥太郎と名づけられた。

 莉子さんが産まれる前に、男の子だったらこの名前がいいと言っていたかららしい。

 祥太郎はお父さんしかいないことを察していたのか、とてもいい子だった。

 夜泣きをほとんどせず、ミルクやオムツなどして欲しいことをそれとなく教えてくれるほど賢かった。

 そして人見知りもしなかったため、勉さんが仕事に行っている間は私の家で預かる時もあった。


 卒業式を終えて、一足先に休みに入っていた私は、一日のほとんどの時間を祥太郎のお世話に費やした。

 別に、親に言われたからとかではない。むしろ自分から積極的に、お世話をしまくっていた。

 初めて会った時から、祥太郎の可愛さにやられてしまったからだ。

 最初は色々と慣れないこともあったけど、そう時間が経たない間に、育児の能力は格段に上がった。

 それはもう、周囲がお母さん代わりだと認めるぐらいのレベルだった。


 私は祥太郎が可愛かった。

 好きで好きでたまらなかったけど、それはお嫁さんにしてもらいたいとか、そういう感情では無い。

 莉子さんと交わした会話の中で、仲良くしてねと言われたのだ。

 私の好意の種類は、友愛とか家族愛とかそういった類のものだった。


 こうして私や、私の家族、そして勉さんに愛されて、祥太郎はすくすくと育っていった。

 まさか初めて話した言葉が、「パパ」ではなくて「あさちゃ」だとは予想もしていなかったけど、普通の子と変わらない成長をしていた。

 それでも、何度か事件とは言えないが小さなトラブルは起きた。


 例えば私の休みが終わり高校に通い始めた時、祥太郎は手が付けられないほど泣くようになった。

 誰があやしてもどうしようもなくて、私が帰ってきたら落ち着く。

 原因はどう見ても明らかだったので、私が一肌脱ぐ羽目になった。


「祥太郎君。お姉ちゃんはね、学校に行かなきゃならないの。だからね、帰ってきたらたくさん遊ぶから、それまでいい子で待っていてくれる?」


 生後まもない赤ちゃんに、何を難しいことを言っているのだと思うが、意外にもそれからの祥太郎はいい子に戻った。

 この時の出来事は、今でも私の親や勉さんがからかい混じりに話をしてくる。

 私は恥ずかしくて止めてと言うが、祥太郎は興味深そうに聞いているのだからいたたまれない。


 他にも、こんなことがあった。

 それは祥太郎が、幼稚園に通える年齢になった時のことだった。

 それまでは私達家族と、勉さんだけしか周りにいなかった。

 しかし幼稚園に行って、たくさんの同じ年の子と会うようになったのだ。

 遊ぶ相手が私から変わっていくのだろうと思い、少し寂しくなる。

 そのはずだったのに。


「や! あさねえといっしょにあそぶ! ようちえん、いかない!」


 幼稚園に行き始めて数日で、祥太郎はそんなことを言い出すようになった。しかも行きたくないと、迎えに来たバスに乗ろうとしない始末。

 困ってしまったのは、勉さんで。

 私にどうにかして欲しいと、助けを求めてきた。


 私が高校に通う時に、起こった状況と同じなので、対処法は簡単だった。


「祥太郎。お姉ちゃん、幼稚園にちゃんと行かないと嫌いになっちゃうかもしれないな。祥太郎はいい子だから、幼稚園に行けるよね」


 行かないと駄々を捏ねている祥太郎に、私は諭すように言い聞かせた。

 そうすれば今回も、言いたいことを理解してくれて幼稚園に行くようになった。


 こういった感じで、小さないざこざはあったけど、なんとか私が解決して行った。

 そして幼稚園、小学校と、祥太郎はいい子のまま成長してくれた。

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