それから、私達家族は何の脅威も無く日々を過ごしていた。



 浩太君も幼稚園に通い始め、一人の時間が出来たが趣味である刺繍や家事をしていれば時間は早く過ぎる。

 少し前までは想像もしていなかった家庭に入る、という自分がそこにはいた。

 元々、私は仕事が好きで、結婚なんてしなくていいから定年まで働いていたい。そう考えていた。

 しかし今の私にとっては、この生活が心地いいものになっている。

 家を守り、家族が帰ってくるのを待つ。

 涼介さんや、浩太君の顔を見ているだけで、とても幸せな気持ちになれる。

 このまま、そんな日々が一生続いてくれますように。


 そう願っていた、ある日のことだった。

 涼介さんに言われていたので、あまり近所づきあいをしていなかった私は、一人の女性に捕まっていた。


「それでね、あそこのご主人。若い女に騙されて、借金背負っちゃったのよ!」


「そうなんですか。それは大変ですね」


 誰なのか分からずに、適当に話に付き合っていたのだが。

 私が、心ここに在らずと言った感じで返事をしているのに気づいていないのか、それとも話ができればそれでいいのか、全く終わる気配がない。

 さすがに三十分も付き合っていれば、作り笑顔も出来なくなってくる。

 私は顔を引きつらせて、いつ話を止めるべきかチャンスを伺っていた。

 しかしその前に言われた言葉に、思考が停止しかけてしまう。


「そういえば良かったわ。あなたが浩太君のママになってくれて。浩太君が産まれてすぐに亡くなってしまって、男手一つで大変だったのよね」


「……え、それはどういう……えっ?」


 聞き流すには、その言葉はおかしかった。私は自分の耳がおかしくなったと思って、もう一度聞きなおす。


「あの、浩太君のお母さんの桜さんは、二か月前に亡くなったんじゃ?」


「違うわよ! 誰がそんなことを言ったの? 桜さんが亡くなったのは、もう三年ぐらい前のことよ」


「嘘……それじゃあ……」


 涼介さんと初めて会った時、彼は桜さんが二か月前に死んだと言った。

 しかし彼女は、三年前だと言う。

 どちらかが思い違いか、嘘をついている。

 彼女が嘘を言うメリットは無い。でも、涼介さんが嘘をつく意味も分からない。

 私は混乱しつつも、無意識のうちのその質問をしていた。


「へ、変なことを聞いても良いですか。その亡くなった桜さんですけど、私に似ていたりしますか?」


 私の質問に、女性は訝し気な顔をした。


「いえ、全然似ていないわよ。あなたは美人さんで、桜さんより可愛いわね」



 私はパニックになってしまい、その後女性と何かしらの会話を交わして、いつの間にか家に戻っていた。

 何もしていないのに、家のリビングのソファで深く寄りかかって座る。

 そして混乱した頭を、時間をかけて整理することにした。

 女性の話を信じるのならば、桜さんは三年前に死んでいた。

 更には、私達の顔は全く似ていないらしい。

 ここまで材料がそろっていたら、涼介さんが嘘をついているとしか考えられない。


 しかし、彼が嘘をつく理由が本当に分からない。

 私にわざわざそんな嘘をついて、彼は一体何をしたかったのか。

 考えに考えても答えは出なくて、私はソファから立ち上がった。


「よし、少し探そう」


 理由は分からないから、私は涼介さんに直接話をするために問い詰めるためのものを探すことにした。

 彼に見せてもらった写真しか、私は桜さんの情報を知らない。

 そんなことすらも、今まで不思議に思っていなかったのだから、私は何て平和ボケしていたのだろうか。


 気が付けば私は今まで涼介さんを思って避けていた、桜さんの部屋に入っていた。

 中は掃除をしていないせいで、少し埃っぽい。

 私はマスクを持ってきていなかったことを後悔しつつ、捜索を始める。

 しかし開始して一時間経っても、全く何の手掛かりも見つけられなかった。


「どうして何も無いの?」


 私に気を遣って物を隠したのかもしれないけど、いくら何でもここまで見つからないのはおかしい。

 棚や机や押し入れを隅々まで探したのに、写真どころか彼女の私物すらも無いなんて。

 私は探し回って全く収穫を得られなかった疲れもあって、床に座り込む。そしてそのまま、ゆっくりと横に倒れた。

 床の冷たさが頬から伝わって、少し気持ちが落ち着いてくる。

 私はそのまま、思考を停止する。

 頭を使いすぎていて、少し休息が必要だったのだ。


 そして、それは良い方向に働いた。


「何、あれ?」


 寝転んでようやく見えた、ベッドの下の隙間。

 その奥の方に、何かが落ちていた。

 気が付いた私は、桜さんの手がかりかもしれないと思った。

 だから必死に手を伸ばして、ようやく指の先に引っかかったそれを掴んだ。

 そして何とか引っ張り出す。


「何だろう? これ」


 私は手に取ったそれを、まじまじと見た。

 ベッドの下にあったのは、アルバムだった。

 何でこんな所にこんなものがあるとは思わず、私は開くのをためらってしまう。

 こんな風にあったということは、隠されていたのだろう。

 それは私に対してなのか、それとも違う人になのか。

 中身を見れば、分かるのだろうか。

 私はどうしようか考えて、結局開くことに決めた。

 今やらなくても、いずれ気になってやらどうしようもなくなる。

 それならば、さっさとやってしまった方が良い。


 何度か深呼吸をして、ようやく決心がつくとゆっくりとページを開いた。

 そして、すぐさま後悔することとなる。


「何よ、これ。どういうことなの」


 私はアルバムを見ながら、呆然と呟く。

 中身は当たり前なのだが、写真だった。涼介さん、産まれたばかりだろう小さい浩太君。そして、それを抱きかかえている桜さんと思われる女性。


 その顔は、全く私に似ていなかった。

 あの写真とは違い、似ている部分が一つも無い。


「何で? ……それじゃあ、あの写真は? 訳が分からない……」


 私はずっとずっと頭が混乱していて、そして考えがまとまらなかった。


 しかし、確実なことはある。

 涼介さんは、私に嘘をついていた。

 桜さんのことについて、彼が言った話は全て間違っていた。

 誠実だと思っていたけど、そのイメージも違うのかもしれない。

 私はアルバムを最後まで見て、全部の写真に写っている桜さんが違うことを確認する。

 そして何だか燃え尽きた様な気分で、アルバムを閉じる。


 もうすぐ浩太君と、涼介さんも帰ってくるはず。

 今日は早いと言われて朝は喜んでいたけど、今は帰ってきてほしくないと思っていた。


 しかし現実は、残酷だった。


「ただいま! 美千乃さん、いないの?」


 玄関の扉が開き、涼介さんの声が聞こえてくる。

 私はそれに返事が出来ないまま、アルバムを持って固まってしまう。

 早く、これを片付けなくては。

 そう思っているのに、全く体が動かない。


 こうしている間にも、私を探している涼介さんが近づいてくる気配を感じる。


「美千乃さん? どうしたの?」


 そして、とうとう私のいる部屋まで来た。

 扉がゆっくり開くのを、まるでスローモーションのように見る。


 この扉が開いた時、私達夫婦の終わり。

 そんな予感がした。

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